1
青森県下北郡佐井村佐井大佐井。箭根森八幡宮(やのねもりはちまんぐう)。佐井八幡宮と記されているものもあります。
2
箭根森八幡宮(元郷社)は康平5年(1062年・前九年の役の終戦年)源頼義の勧請にして、延宝年中藩主重信公社殿を造営。什物に頼義寄進の陣太刀、松前公奉納の村正の太刀、黒曜石の石鎗、曲玉4個、龍燈石1個、雷斧大小5個等があります大祭は9月14・15日にして神輿の渡御があります。明治初年に原田・矢越・磯谷の八幡宮を一時合祀。
3
神社庁より…『御祭神誉田別命。例祭日9月15日。後冷泉天皇の御宇、康平5年(1062)壬寅、当国住人安倍貞任・宗任謀反の時、征伐として伊予守源頼義公奥州下向の際、朝敵退治の心願に勧請し、延宝年中南部藩主重信公社殿を造営したと縁起書にあり。明治6年5月寺社調査により郷社に列せられる。また、同年社殿を建て替え昭和52年幣殿増築し現在に至る。平成7年に神輿渡御三百年を祝し記念大祭が執行される。』
4
4.5
旧社号標「郷社八幡宮」。
5
手水舎。
6
以下、佐井村誌を参照。佐井八幡宮、康平5年、奥州の住人、安倍の頼時、貞任叛旗をひるがえす、将軍、源頼義征討の軍を奥陬にすすめて遂に削平し終ったので、勇みに勇んで、都に帰った。然るにこの後、奥州の北の果て、尻屋という里は、我が日の本の艮、丑寅、鬼門にあたるが、ここに鬼神棲んで牛馬六畜をつかみ殺し、老幼、その害を被ること数知らず、将軍再び来って、この鬼を退治し給われかしと、遙々人を遣わすのであった。そこでまたもや馬を半島の奥、尻屋の岩屋へ駈けることとなった。尻屋の鬼神はなるほど聞きしにまさる兇暴なもので、出没変妖、とても人力の及ぶところではない。この浦の潮を結んで垢離をとり、小枝を折って幣となし、祈念を八幡神に尽して17日、その間兵士もまた矢を研ぎ、剣を磨いた。時に一天俄かに暗く、浪逆立って烈風砂礫を飛ばす、不思議と見るまに、悪鬼軍中に躍りかかって来た。その形見る目も怖しく、惣身の毛もそくそくと立つ心地がする。刄向うすきもなく破られたが、この時、七黒崎の杉の梢にあたって一羽の白鳩、飛び舞うよと見るに、忽ち白衣の神人と化し、神変の弓に神通の矢をつがい、よっぴいて放せば、鏑の音、蒼海原に響き渡って雲中に入り、彼の悪鬼のまっただ中を通した。数人の兵士、落ち来る鬼に折り重って首を切る。軍勢が刀を洗った川を血川といい、神妙を敬って、甲を納めた岩を甲岩といった。血川を今は赤川と呼ぶようになったという。見ると小高いところに、矢の根石を多く止める場所がある。即ちここに八幡宮をいっき祀って、矢の根森八幡と称す。岩清水氏神官となってこの地にとどまる。以上がこの箭根森八幡の根源談であり、諸民来って往昔の神功を矢の根に拝したとある。この八幡神はことのほか矢の根を愛する神様で、神社のまわりにある矢の根を2つ3つ拾って持って行くと神罰があるとも伝えます。
※正しくは箭根森八幡宮。
※明治維新に八幡の由来を信ぜぬ好事家が入りこんで、いつの間にか大げさに持ち運んだこともあったという。
※木野部は昔「鬼の府」と書いたと言われる。
※頼義は神助に感謝して石清水八幡宮を建立し、鈴ヶ森の八幡宮(品川)の本宮と定めた。
※八幡宮の辺りから矢を放ったので「矢の根八幡」、腰を下したところが原田の「腰掛八幡宮」、矢の勢いよく過ぎたところが「矢越」、それが波に流れ着いた、また突き刺さったから「磯谷」等と古くから伝える。
7
八幡宮の祭礼は京都流であり、西廻り海運によって伝えられたもの。矢根(箭根・箭根森)八幡宮とも称され、邦内郷村志によりますと「白黒石数箭根生社地」とあり、古くから石鏃(矢ノ根石)の出土で知られることからこの名称がついたと考えられます。
8
8.5
また、康平5年源頼義によって勧請されたという伝承が残されており、これと結びつけて頼義が下北に住む悪鬼を神矢によって射殺した時、矢ノ根石が沢山あった八幡宮のあたりから矢を放ったことに名称の由来があるともいいます。更に「陸奥話記」の宇曽利蝦夷を佐井蝦夷を中心としたものとする説もあります。
9
パンフレット「箭根森八幡宮例大祭」より…『江戸時代、元禄9年に始まったとされるこの祭りは、300年もの歴史がある村最大の行事。京都祇園の流れを組む由緒ある例祭は、昼夜にわたり、豪華絢爛な神輿や神楽、山車の長い行列が煌びやかに村を練り歩き、秋の気配を運んでくる。開催期間9月14-16日。』
10
10.5
拝殿向拝。
11
11.5
拝殿内。
12
箭根森八幡宮…『御祭神:誉田別尊、息長足姫尊、比売大神、月讀尊。由来沿革:創建年不詳。延宝2年(1674年)南部藩第4代藩主南部重信公によって再建されたと伝えられる。元禄9年(1696年)神輿渡御が行われ現在まで続く。宝永年間(1709年頃)海上安全の神として月讀尊が相殿に合祀される。明治6年(1873年)現在の本殿・拝殿を建立。昭和51年幣殿を増築。平成4年より神輿渡御300年記念事業として、内・外壁修理、手水舎の改築、参道の整備等を行い、平成7年に神輿渡御300年記念大祭が執行される。神社に伝わる「箭根森八幡宮縁起」によれば、康平5年(1062年)奥州を平定した源頼義は、人々の依頼により尻屋に住む悪鬼を退治に来るが、悪鬼は手強く頼義は苦戦をしいられる。そこへ白衣の神が現れ神矢を放ち悪鬼を退治する。頼義は神功に感謝し、悪鬼を退治したとき用いた箭根石(矢じり)が出土する霊地があると聞き、記念社殿を造営し八幡神を祀り永久に国家の守護神となることを願った。この社殿は境内より箭根石が出土することから、箭根森八幡宮と称されたと記されている。この箭根石は魔除、厄除の御利益があるといわれ人々から崇められている。多くの参拝者が箭根石をお守りとして持ち帰っているが、1度に2個持ち帰ると天罰が下ると言い伝えられている。』
13
13.5
『青森の伝説』によりますと、『佐井本村の箭根森八幡は、源頼義が康平五年(1062)に勧請したという。安倍氏を討伐に来て八幡様の加護を祈ったところ、七日目に大荒れとなり悪鬼が現われたが、神助によりこれを退治した。このとき頼義が矢を射たところが矢越の崎で、その矢が磯辺の浪にただよって寄せて来たといって、「磯矢」の地名になった。この磯谷に、昔、大きな深い池があった。いつのころか、見知らぬ女がこの池の端に現れ、池の水で長い黒髪を洗ってはくしけずっていた。不審に思った村人がこの女に素性をたずねた。すると女は、「われは明神である。ここに住みたいので、毎夜姿を現わしているのだ」といった。それで村人はお堂を建てて、明神様として祭ったのである。』
14
菅江真澄の牧の冬枯には次のように記されています…『原田などというところを経て佐井にきた。こちらを小佐井といい、港のあるほうを大佐井という。渚に小島があり、おごそかな神社のみえるのは、弁財天がまつられているのである。神明社に詣でると、慈眼山清水寺という優婆塞の寺があった。そこの主を自性院という。八幡の神社にもこの優婆塞が奉仕している。川ひとつ渡って矢根杜にのぼった。この神垣の内外や、あるいは近い家の庭、磯辺などに石弩(矢の根石)がでるので、この杜をやのねもりというのである。安倍の軍勢を滅ぼそうと討伐にむかわれたころ、源頼義が石清水八幡をここにうつし祀られ、武蔵の国鈴が森の八幡の神(東京都大田区入新井・磐井神社)を本宮とさだめられたとか語られている。中昔のころは荒廃して神垣もなく、自然の草木が茂って、社のあとも見えなかったので、鈴が森の神主森田信辰という人がこの近くに来て、「太麻たへて神のかかみも朽にけりまつる人なき松のあらしや」と嘆いて詠んだ。寛永元年のころ、自性院法印賢教という修験者の夢にこの神が現われたので、おどろいて、その教えのままに土を掘ってみると、ちいさい鏡のうらに、ほんたのみことを鋳たのを得た。賢教は涙を流してよろこび、衣の袖につつみ奉って家に帰り、これを祀って拝していた。延宝二年甲寅の七月に、ふたたび御社を清らかにつくりかえ、そのときの修験者大昌院が、鈴が森の本宮にこのことを告げてやると、神主が来て、鈴をひき、幣を奉って「たへたるもまた引おこすみしめ縄ちよ栄へ行く神のまにまに」と詠んだという。』
15
狛犬三対。
16
こちらは相当古い狛犬かとは思いますが、状態が悪くて紀年銘は読み取れず。
17
17.5
寛永…寛文…寛保…寛政…いずれにせよ冒頭は「寛」の字に見える気はします。
18
18.5
こちらは昭和56年11月15日。
19
19.5
こちらは安政5年8月15日。
20
20.5
忠魂碑。
21
稲荷神社。棟札には「遷座造営」とありました。
22
ちなみに佐井村川目に川目稲荷神社があります。
23
草木で近寄れなかった末社。
24
こちらはわからず。
25
大佐井青年会衣裳蔵。
26
タイムカプセル(1989-2039)。
27
以下、佐井村について。※メモです。かなり長いのでスルーして下さい。
28
佐井村は正保4年の南部領内惣絵図に村名の記載はなく、古地図の初見は元禄12年の絵図で「佐井 無高」とあります。天和2年惣御代官所中高村付に古佐井村・大佐井村が見え、両村を合した佐井村としての村落支配の確立が元禄年間以降と思われます。延宝元年田名部通の検地が実地されたとありますが委細不明。村高「邦内郷村志」「天保郷帳」「旧高旧領」95石余(うち畑92石余)。佐井湊は元禄12年田名部七ヶ湊の1つに指定。但しそれ以前の正保年間には既に湊として機能しており、正保2年田名部五ヶ湊の指定から外された際に「佐井、川内を船着湊に此両所の者ども訴訟申候」とあります。また「雑書」寛文3年8月4日条に、当湊に上方船・松前船が着岸とあります。江戸期を通して南部檜と地先の海産物の積出港として繁栄。これに伴い町場も形成され、享和3年の仮名付帳には古い佐井に浜町・谷地町、大佐井に浜町・新町・風呂屋小路の5町、幕末の漆戸茂樹「北奥路程記」ではこれに加えて古佐井に大町・川原町、大佐井に中町があり8町となっています。河水の利、潮流の便にも恵まれており、「邦内郷村志」には「免石船二艘、五百石宛、能登屋長左衛門、伊勢屋与兵衛、往古称十万金豪家、于今家存而巳也、往古繁昌地、田名部北通湊云第一番、処々有妓家」とその繁栄の様子が記されています。廻船問屋も多く定着し、元文3年の「田名部海辺問屋定」に佐井の廻船問屋として、菊地伝兵衛・品田太治兵衛・樋口三九郎・西村又兵衛・小谷七郎兵衛・能登屋善兵衛が署名。彼らは仕込み親方として漁民の再生産にも深くかかわっていました。文化2年より能登屋が本陣となりましたが、それ以前は伊勢屋でした。両家の最盛期は元禄~享保年間であり、文化・文政年間以降は松屋の全盛期となります。文化14年から文政12年までの記載がみられる「廻船御客帳」(松谷家文書)によりますと、佐井入津の船籍は津軽領諸湊は無論のこと、北は松前から南は越前・若狭に至り、更に播州・伊豆・相模にまで及んでいます。年次別の隻数は不明ですが総数448隻。なかでも越前三国湊が圧倒的に多く71隻を数えます。松屋と取引きのあった商人には、銭屋五兵衛・本間正七郎・加賀屋与助らの名もみえます。当村には天和元年酒屋2軒、享保2年同7軒、同8年質屋8軒がありました。しかし寛延年間の頃に酒屋はなくなり質屋も1軒。嘉永3年松浦武四郎「東奥沿海日誌」によりますと、当村と湊の様子について「此処は東黒岩岬、西矢越岬と対峙して一湾をなし、千石巳上の船は五六艘、其巳下六七百石位の船は二十艘もかゝるによろし、船番有、人家弐百弐三十軒、船問屋、小商人、船夫、檜山嫁、農家、漁師入交りなり、実に大富湊成べし、此処より向は函館在当別、三谷、帰去内辺へ当たると聞り、函館へは海上七里といへ共近しと思はる、壱人前乗銭金弐朱」と記されています。当村の枝村には原田・矢越・磯谷・畑小屋(川目)があります。原田は享保18年与力渋田庄助が原田野小川より材木一里塚までの、水の目檜山を除いた所に高15石の新田開発を願い出、元文年間頃に百姓を移したといわれます。「東奥沿海日誌」には「此処も佐井の出郷なり、人家14軒、漁者にて農業致多くは松前嫁のもの斗也、此上に少し畑有、渡りて広平野行事凡二十七八丁にして左右へ道有、右ハ奥州通ひ道也」とあります。川目には鉛山があったといわれ、川目戸山船山は天明元年田名部の熊谷又兵衛が経営、寛政10年頃大畑の菊池与左衛門が経営したとされます。矢越については「東奥沿海日誌」に「人家十一二軒、漁者にて少づつ稗畑を作るよし、其故に人家至而富子也」と見えます。磯谷ははじめ大磯谷と中磯谷に分かれていたといいますが不詳。磯谷の海上には大魚島があります。「東奥沿海日誌」では「此処浜形北向にして材木岬と矢越と対峙して一小湾をなし、実によき船間なれ共海浅くして六百石巳上の船は入がたし、神家三十軒斗、漁家、農家、松前出并檜山業等也、故に村家至て富貴ニ暮せり」と見えます。佐井湊は享和3年箱館への渡航地として幕府から指定されて以後、湊の性格に変化が見られますがその賑わいは続きました。しかし、幕府役人らの通過は助郷役負担の荷重を伴い、文化8年には北通惣村肝煎連名にて定役銭減免の愁訴が行われています。「原始謾筆風土年表」文化3年7月条に、遠山金四郎や最上徳内らの通過がみられます。文久3年「御番所記録」により当時の様子を伺うことができます。江戸後期には海岸防備のため、寛政5年黒岩に船遠見番所、文化5年本村に大砲3門、矢越に同8門、嘉永年間頃には磯谷の釜の前・ダラダラ・日和山、矢越の藤兵衛山、本村の岡弁天・黒岩・伊勢堂に砲台、安政2年伊勢堂に船遠見番所がそれぞれ設置され、安政3年には台場を統合し岡弁天に大砲8門が設置されました。盛岡藩の留山制度の成立に伴って当村の檜山も多く留山となりました。当村の檜山は原田・小佐井川・温泉川越・滝・戸沢の5山となっていますが時期によって変遷がみられます。廻船問屋の松屋は檜山払下げをうけた山師でもあり、この他4人の檜山払下げ人が享和2年~文化12年の間に確認されます。神社としては八幡社、薬師堂、田名部円通寺末の曹洞宗祥岩山長福寺、盛岡大泉寺末の浄土宗景岩山発信寺、田名部徳玄寺末の浄土真宗慶順山法性寺、田名部善宗寺末の法華宗大法山常信寺、相州清浄寺末の時宗八幡山伝相寺、盛岡永福寺末の真言宗降峰山祥海寺があり、これら寺社と廻船問屋との関係は深く、長福寺の有力檀家に伊勢屋があり、その梵鐘は寛政6年越中で鋳造され海路で運ばれたものです。同寺蔵の木彫十一面観音像は円空作。また、常信寺の開基は越後屋半兵衛、法性寺の開基は能登屋長左衛門であり、発信寺にも有力檀家として西屋・桶屋などの廻船問屋がいました。八幡宮の祭礼は京都流であり、西廻り海運によって伝えられたものです。なお、八幡宮は矢根(箭根・箭根森)八幡宮とも称され、「邦内郷村志」には「白黒石数箭根生社地」とあり、古くから石鏃(矢ノ根石)の出土で知られるところからこの名称がついたと思われます。また、同社は康平5年源頼義によって勧請されたという伝承があり、これと結びつけて頼義が下北に住む悪鬼を神矢によって射殺した時、矢ノ根石が沢山あった八幡宮のあたりから矢を放ったことに名称の由来があるともいいます。更に宇曽利蝦夷を佐井蝦夷を中心としたものとする説もあります。祥海寺は廃寺となったと思われます。この他、支村である原田に享保4年勧請で八幡太郎義家を祀る腰掛八幡宮、矢越・磯谷にもそれぞれ八幡宮があります。これら3社はのちに明治初年の一時期、本村の八幡宮に合祀。また磯谷の村端に明神の祠があり、その傍の池沼の水面が白く曇る間は晴天が続き、澄むと降雨になるという伝承があります。当村は海運の発達により文化的水準も高く、寺子屋に、町医三上庸達の三上塾(寛政年間~明治4年)、八幡宮神社岩清水昌の岩清水塾、僧侶石沢宜励の法性寺塾(嘉永年間~明治元年)、僧侶川村俊堂の長福寺塾(安政年間~慶応3年)がありました。三上庸達は師の金沢良斎の代診として勝海舟の治療に当たったこともあり、海舟の遺墨が三上家に蔵されています。菅江真澄の「奥の浦うら」には「左井のみなとべなるくすし三上温といへる人」とあり、温は庸達の父で、杉田玄白の弟子の1人。また、高野長英と同門で松前藩立入石の田沢春堂、天保3年箱館に造船所を設けた辻松之丞は当村の出身。明治元年弘前藩取締、以後黒羽藩取締、九戸県、八戸間、三戸県、斗南藩、斗南県、弘前県を経て、同4年青森県に所属。同11年下北郡に属します。檜山の国有林編入、明治2年青森~函館間の蒸気船の就航、船の大型化による港の不便さなどから明治以降は著しく衰退。交通機関の開通も昭和に入るまでなく、当村は寒漁村、出稼ぎの村と化しました。
29
にほんブログ村 地域生活(街) 東北ブログ 東北情報へ