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青森県三戸郡階上町大字晴山沢字根岸。晴山沢集落のほぼ中央に鎮座。
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浄土宗晴沢山西光寺(院号根岸院)。西方に光り輝く雲のたなびくを見て命名。階上町には西光寺が2ヶ寺あり、どちらも浄土宗系ですが、晴山沢の西光寺を「山の西光寺」、道仏の西光寺を「ハマの西光寺」と呼び区別しているようです。
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かつての晴沢山村。元和4年の八戸内儀宛南部利直知行宛行状(遠野南部文書)によりますと晴山として235石余とあり、盛岡藩領下では根城南部氏の給地とみられます。村高は「正保郷村帳」68石余(田18石余・畑50石余)、「貞享高辻帳」68石余、「元禄10年高帳」147石余(田37石余・畑109石余)、「天保郷帳」223石余、「旧高旧領」105石余。
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根岸には浄土宗西光寺、中城には日吉神社があります。田代村の隣地に位置していたため田代村の伝馬高100石のうち50石が当村の登切通(平内)に課されていました。寛延2年の凶作で島守村へ移され、その後数か村に譲渡されて宝暦11年に再び当村に返却。嘉永年間に西光寺住職が寺子屋を開設し明治6年まで継続。明治7年西光寺を仮用して登切小学が設立。同9年の生徒数は男37。同11年根岸に校舎が新築され移転し、同20年晴山沢簡易小学校と改称。平成22年2月閉校。
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西光寺は八戸市朔日市町紫雲山来迎寺(院号引接院)の末寺※道仏の西光寺は盛岡大泉寺の末寺。
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八戸来迎寺の第六世思華上人が晴山沢の水上に隠居所を建てたのがはじまりだといい、その他、この隠居所は中屋敷の三蔵に通じる寺屋敷という畑の中にあったとか、家口の山にあったとか、「ななさき」という場所で薬師如来像が刻まれたとか様々な言い伝えを残しています。やがて思華上人が老衰のため示寂し、その隠居所を来迎寺第七世得蓮社息誉見生和尚(開山)が貞享元年6月15日に西光寺として創建。創建当初は檀家数40戸を有し、境内地が8畝15歩、本堂4間4方(16坪)、庫裡3間4間(12坪)、廊下1間四方、畑地3畝18歩、附属墓地3畝28を有するかなり大きな寺院でした。古記録や過去帳は本寺の来迎寺に預けていましたが文化年間に焼失しており、第二世から第十世までの住職は不明。開基は荻澤助右衛門と伝え、この助右衛門は代々襲名。延享2年8月12日、第12世中興歓誉上人が津軽弘前藩の誓願寺から隠居として西光寺に入り、この時に本堂並びに庫裡を再建し、誓願寺から阿弥陀三尊を移安。嘉永3年本堂再建、昭和46年六角本堂新築(※第37世中興心蓮光誉龍英良親和尚の設計)。内陣も外陣にならった六角堂様式となっています。内陣の須弥壇には本尊阿弥陀三尊像(阿弥陀如来・観音菩薩・勢至菩薩)が安置されています。その両側には善尊大師と円光大師の座像を安置。その他、薬師如来・日光菩薩・月光菩薩像の薬師像が寺宝として安置。上にも記しましたが、当寺は寺小屋としての役割も果たしてきており、嘉永元年に藩士川島民浄(27世孝蓮社行誉上人民浄和尚)が開いた私塾は明治6年まで続き、その後登切小学校が開校してその初代校長に第29世菊地得静和尚が就いています。位牌堂には昭和48年4月1日に階上中学校と統合になった登切中学校の校歌額が保存されています。
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眺望。高台にあるのがわかります。
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手水鉢。
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アカマツ。
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観音像。
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出羽三山参詣祈念碑(種子アーンク)と有縁無縁三界萬霊供養碑(種子キリーク、文化3年7月15日)。
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その他石塔。※本堂裏手の墓地には六地蔵尊(昭和58年1月中城富治寄進)、青面金剛像(寛政12年閏4月8日建立、門前の道路脇にあったもの)があります。
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弥勒菩薩半跏思惟像。台座「昭和54年7月吉日・根岸玉雨」。
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「花ぞ咲き小鳥さいづる四季の色 たださながらに浄土なりけ里 根岸玉雨」
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「山寺や紅葉明りに汲む茶水」(星階庵白笑荻ノ沢吉之助吟・平成14年9月吉日階上吟社之建)
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