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山形県酒田市山居町。※三居稲荷神社については別記事にしております。
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白壁、土蔵づくり12棟からなる倉庫群のうち、9棟は現在も農業倉庫として使用されています。延床面積 396㎡、瓦葺き土蔵造り。設計者は鶴岡市出身の棟梁高橋兼吉。
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米の収容能力は10,800トン(18万俵)。
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パンフレットより…『明治26年(1893年)に旧庄内藩主酒井家が、米の保存と集積を目的に酒田米穀取引所の付属倉庫として、最上川と新井田川に挟まれた中州、通称「山居島」に建造された米の保管倉庫で、現在も農業倉庫として活躍しています。14棟のうち12棟が残されています。土蔵造りの12棟からなる倉庫の屋根は断熱を考慮した二重構造で内部の土間はにがりを練り固めるなどした湿気防止構造になっています。背後を囲むケヤキ並木は、日よけ・風よけの役目を果たし、自然を利用した低温管理が行われているなど米の品質を守るための工夫を随所に見ることができます。酒田市のシンボル的な存在でもあるケヤキ並木と風格ある倉庫は観光の拠点としても利用され、また、NHKの連続テレビ小説『おしん』のロケ地としても知られています。』
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酒田大獅子一家あかちゃん獅子(けん・こめ)。獅子は古くから悪病・災害除けの霊獣とされています。酒田市では昭和54年の酒田大火復興記念の年に、防災と繁栄の願いを込めて4体の大獅子を製作し、酒田のシンボルとして広く市民に愛されてきました。平成10年、11年に仔獅子4体、平成27年には子孫繁栄の願いを込め、8体のあかちゃん獅子が誕生し、計16体の酒田大獅子一家となりました。
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酒田山居倉庫案内図。
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1号棟は庄内米歴史史料館。12号棟と11号棟は歴史と文化を伝える「華の館」と、お土産品コーナーなどがある「幸の館」で構成されたくつろぎのスペースです(観光物産館・酒田夢の倶楽)。食事処、おしん人形ギャラリー、酒田の豪商本間家が江戸時代に作らせた亀笠鉾の展示もあります。
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すべては紹介いたしません。
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順不同。
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湊町・酒田の「傘福」…『この地域に古くから伝わるつるし飾り「傘福」は、傘の先に幕をめぐらし飾り物をさげるのが特徴です。その歴史は北前船で酒田湊が隆盛を極めた頃にさかのぼります。女性たちが子供の健やかな成長、家族の健康や幸福、豊漁・豊作を願い、一針一針心を込めて飾り物を作り、傘につるし神社仏閣に奉納しておりました。酒田・稲取・柳川の三地域は、連綿と伝わる貴重な土地伝統の文化を「日本三大つるし飾り」として現代に伝えています。』
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おしん人形ギャラリー。
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酒田山王祭礼用亀笠鉾。
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酒田山王祭礼用亀笠鉾(酒田市指定有形民俗文化財・平成13年2月6日)…『酒田の鎮守日枝神社の祭礼「酒田山王祭」(現酒田まつり)には、各町内でそれぞれの山車を出していました。亀笠鉾は、本間家三代本間光丘が、山王祭りを盛大にすることによって、酒田の町を活性化させようと、京都の祇園祭に範をとって、明和2年(1765年)に京都の人形飾に作らせ、船で運んできたものです。亀鉾にしたのは、酒田を亀ヶ崎城下と言ったことや、亀が竜宮のお遣いとして非常にめでたいものとされていたからだそうです。またこの亀の頭は、竜の頭に似ていますが、上日枝神社のご神体を竜神としていることにも関係があるらしいと言われています。長い間山王祭ごとに本間家前に飾られ、また、行列に加わり「本間家の亀」として親しまれていました。平成13年2月に酒田市へ寄贈されたことを受け有形民俗文化財に指定し、平成13年度・14年度の2年をかけ修理を行い、新たに笠を復元しました。酒田山王祭にちなむ由緒ある亀笠鉾です。酒田市教育委員会』
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酒田湊本間家之龜…『本間家中興の祖で、西浜植林等により酒田湊発展のいしずえを築いた本間光丘翁は、植林を始めてから30年後の天明8年(1788)に北西風から酒田を守る山王山の頂上に現存の立派な山王社をたてなお湊に到る参道と境内を整備した。この時、参道西側の丘に八幡宮と浅間神社をたてた。八幡宮の隅瓦は珍しくも亀であった。これは光丘翁が京都の名ある瓦師に作らせたものとみえすばらしい作品であり、しかも本間家の亀と親しまれている山王祭用亀鉾と相通じるものがある。酒田市』
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さかた地名の由来…『さかたの地名の由来は、「狭い潟」(狭潟)、「砂の干潟」(砂潟)の意であるとする説があります。また、水の流れをむかえる入り江や、浜という意を持つ「逆沱」(「玉漱軒記」)や、「義経記」の豪族酒田次郎(坂田次郎)にちなむという説もあります。「酒」は水を意味し、田にそそぐ溜池の意をもちます。いずれにしても、当地の砂浜海岸地形や最上川河口三角州地形との関わりが、「さかた」という地名の由来に関わっています。』・酒田の歴史探訪…『港都酒田には、北前船や西廻航路にちなむ名所旧跡や、全国各地との交易によって繁栄した大商人の活躍の面影をしのばせる史跡が多くあります。本町には、井原西鶴の「日本永代蔵」で全国にその名を知られるようになった旧鐙屋邸や、武家屋敷の様式である長屋門の遺構を併せ持つ、本間家旧本邸があります。日和山公園には、江戸時代酒田の海運隆盛を今に伝える史跡が多くあります。西廻航路で運ばれる御領米を貯蔵した瑞賢庫(蔵)跡や、江戸時代の灯台・常夜灯や方角石、東北最古といわれる木造六角灯台があります。橋田壽賀子原作の「おしん」に登場して、一躍観光名所になった山居倉庫のつくりは、庄内米の味の良さ、品質の良さを全国に誇るに足る、工夫された造作になっています。なお、古代・中世の遺跡としては、「城輪柵跡」や「亀ヶ崎城跡」があります。酒田発祥に大きく関わる徳尼公の御廟「徳尼公廟」が、酒田市総合文化センター東隣の泉流寺にあります。』
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外へ。
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復元された小鵜飼船。
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川に面して船着場も設けられ、最上川舟運の拠点の一つでした。
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江戸時代は規定によりひらた舟による運搬が主でしたが、明治からは小鵜飼舟に取って代わられました。復元された小鵜飼舟が敷地内で保管されています。倉庫から舟までは女丁持と呼ばれる女性によって運ばれました。一俵60kgの米俵を5つ(300kg)背中に担いだという記録が残されています。また、運搬の際に風雨に晒されぬよう、荷揚げ河戸や船着場に屋根がかけられ、廊下で繋がれていました。
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小鵜飼船…『小鵜飼船は最上川舟運において物資の輸送をするために作られた船です。慶長6(1601)年に山形藩主となった最上義光は、難所の開削や河岸の設置によって最上川舟運の整備を図りました。最上川本流に就航する250俵積み4人乗りの「艜船(ひらたぶね)」に対し、この小鵜飼船は支流や船着場間の近距離輸送に使われ、積載量は50俵程度でした。最上川の上流松川(現在の米沢市の流域)に小鵜飼船が登場した時代は元禄年間といわれています。長さは約13~15メートル、幅は約2メートルで、前方に帆をかけて風を利用し、舳先がとがった流線型をしているためスピードもあり、川幅の狭い支流では重宝がられました。上り船では、塩、砂糖、海産物、木綿、茶など、下り船では米、紅花、青苧、大豆などが運ばれました。上りには2週間程度、下りは4~5日かかったと伝えられています。この舟は、最上川・川舟保存会の熱意により製作(舟大工 大石田町木村成雄氏)され、往年の舟運で活躍して当時をしのび、この地に展示したものです。』
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酒田倉庫事務所前から山居稲荷神社方面へ。
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二重構造の屋根。
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二重屋根は土蔵と屋根の間に空間を作って風通しをよくし、積み重ねた俵の熱の放散と、屋根からの伝導熱を防ぐ役割を果たしています。
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ケヤキ並木と石畳。
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倉庫の西側には41本のケヤキが植えられ、陽射しを遮ると同時に冬の強い季節風から建物を守っています。
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吉永小百合が出演するCMやポスター等にも使用されている有名な場所です。
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欅並木…『この欅は、日本海からの強風(西風)と夏の直射日光(西日)をさえぎり、倉庫内の温度変化を少なくする目的で植えられたもので、現在41本残っております。』
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一周しました。
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新井田川に架かる山居橋(歩行者専用)。
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山居橋からの眺望。
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右に見える建物は東宮殿下行啓記念舘。
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船着場。
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山居橋から見た山居倉庫。
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東宮殿下行啓記念舘。
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庄内米歴史史料館。
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倉庫の1棟を改装し、米に関する資料や農具などが保存展示されています。
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入場券。
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庄内米歴史史料館内。一部のみの紹介です。
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山居倉庫の歴史…『「庄内は天恵の沃野、正に之を以て国を立つべき楽土なり」、元和8年(1622)に庄内に入部した酒井忠勝公の言葉です。その後、膨大な水利事業と開田による産米の増殖、貢納米倉庫の設置、品質向上など、先人の絶え間ない努力により庄内米は高い評価を得、全国にその名を馳せています。そして、庄内米と言えば山居倉庫、山居倉庫と言えば庄内米と言われるように、米どころ庄内を代表するのが山居倉庫です。』※写真は明治末期の山居倉庫
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検査風景。山居倉庫が建設された当時の様子で、農家から持ち込まれた米を検査しているところを再現。米の検査は、標準米見本法に基づいて厳正に1等米から5等米に格づけされ、その後、入庫されました。
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米券について…『米券は江戸時代における藩札の一種で、米札ともいわれます。生産者が入庫の際、等級・桝量の検査に合格した米に入庫票(通称=切符)が交付されました。この入庫票は等級毎各10石(1,500kg)に達すると預米証券、質入証券、若しくは倉荷証券(通称=米券)に書き替えることができました。米券は何時でも時価で売買することが出来たほか、銀行の担保物件としても歓迎され、大正4年(1915)には日本銀行の指定倉庫となり、山居倉庫の乙種預証券(米券)は、日本銀行で取引銀行の裏書きあるものについて再割引されたことは当時の権威と信用をよく物語っています。また、切符そのものでも売買できたため、生産者は米券に書き替えることなく、切符により米商人に販売、或いは小作米の納入をし、切符を買い集めた米商人が倉庫に持参し米券に書き替えるのが普通でした。』
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倉荷証券・倉荷証券原版。
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山居倉庫綱領と従業員心得…『「山居倉庫は、徳義を本とし事業を経営して以て天下に模範たらんとす」ではじまる山居倉庫綱領は、倉庫運営の精神的規範とし大正年代(制定の年を大正2年とする説と同15年とする2説があり)に成文化されたものです。山居倉庫の創立目的は、庄内米の改良と地方民の福利増進にありました。そのために、倉庫で働く人々にとっては学道実践の道場であり、この機構を通じて地方福利に貢献することに深い感激と責任感をもって事業にあたりました。それは、「米の取扱いは、神に祈請する心をもってせよ」といわれる、いささかの怯懦(きょうだ・臆病で意志の弱いこと)も、打算も、そして妥協も許されない最高、最善の世界でした。そして、この山居倉庫綱領の解説となるものが山居倉庫従業員心得です。このように、倉庫職員の米に対する態度は実に厳しいものであり、入庫米の等級、升量は厳正に審査されました。ところが、建設当時は農村人の産米改良に対する自覚が乏しく、また倉庫の機構についての認識も浅かったことから、この審査の厳しさに反感を持ち、苦情も続出する状態でした。 しかし、山居倉庫の人たちは、そうした空気にもめげず、米質の向上のため鋭意、審査の厳正を期しました。これこそが庄内米の評価を高める決め手となったのです。』
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農家の暮らしは、すべてが米作りを中心に営まれ、家屋も農作業を前提とした構造で、土間は脱穀、調製、ワラ仕事などに利用されました。
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囲炉裏のある風景。庄内地方の農家の間取りは「田」の字のように四割りが普通で、囲炉裏のある茶の間は接客用に使われました。
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大正末頃、倉庫に米を搬入する様子。当時の米の運搬は、船や馬車、荷車を利用した方法が多く、米俵をつんだ荷車が倉庫前で混み合っています。
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60kgと30kgの米俵を持ち上げる体験コーナーがありましたが、腰と膝が砕けました。ちなみに写真の人形は5俵(300kg)を背負っています。昔のお米はマスで計られました。米俵1俵は4斗、重さは約60kgでしたが、中には5斗(約75kg)のものもありました。
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酒田観光マップ。以下、パンフレットより抜粋。
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酒田のお酒。全部飲みたい…一晩で。
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酒田のいいもの…酒田獅子・オランダせんべい・鳥海高原ヨーグルト・ふうふる・さしこ・傘福・鵜渡川原人形・光丘彫・磯草塗・絵ローソク。
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