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青森県下北郡東通村蒲野沢石持。
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袰崎神社。母衣崎とも書くようですが、正しくは﨑(たつさき)のようです。社号標も﨑(たつさき)で「母衣﨑神社」です。
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参道石段。
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御祭神は石凝姥命。例祭日は9月18日。
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創建不詳。寛永年間(1624-1645)再建。元文5年 (1740) 再建の棟札があります(貞享元年から安政3年までの7枚の棟札を所蔵)。明治6年5月神社改正。昭和21年12月13日宗教法人令に依り届け出。
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かつての蒲野沢村。蒲ノ沢村もしくは蒲沢村とも。枝村に石持村と野牛村が見え、邦内郷村志によりますと家数78・人数394、馬147、牛333。神社は八幡宮と稲荷社、寺院は曹洞宗禅祥山田名部円通寺末の法林寺、他に山神堂がみえます。鎮守は宝永3年(1706)造立の八幡宮で、同4年造立の山神堂は同4年造立、稲荷社は延宝4年造立。曹洞宗法林寺は寛文4年草創。神事芸能である能舞の盛んな地域で、また神楽も行われます。鹿橋の家数は享保6年10、享和2年28、文政12年30。同地には創建不明の池野神社があり、境内に桂の老樹があるといいます。御祭神は底土男命。宝暦13年の勧請とも伝えます。鹿橋の由来は、アイヌ語系で柳の木の上手の地から起こったと考えられます。枝村石持村の地名の由来は、同じくアイヌ語系で新田が小さく群在しているところから起こったと考えられます。また大石・子持石があるためともいいます。石持村の村高は享保6年の田畑町歩改帳で31石余、田畑の反別は4町余。当時石持納屋を中心に生計をたてる程度であったと考えられています。石持村の家数は享保6年8、享和2年21、文政12年24で、寛永年間(1624-1645)に再建したといわれる袰崎神社があります。境内には別に子持石を祀る石神神社があり、産育の神として信仰。明治初年の戸数93で、村況は「山間の所なれとも水利宜く、水田多く畑少し、然とも地菲薄にして秋熟少く農隙には薪炭等を業とし、支村石持は海に近けれは専に漁猟をなし、又北海道に渡て傭役す、又海浜漂着せる昆布を拾取て産とす」とあります。
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拝殿向拝蟇股・木鼻。
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拝殿向拝神額。こちらは「袰﨑神社」です。
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拝殿内。本殿には厨子に納められた木彫山神像を安置。両脇には斧を持った烏天狗が眷族として控えています。元は山神堂が独立して鎮座しておりましたが、昭和23年5月7日の石持大火いより焼失。御神体は難を逃れたことから、産土様の袰﨑神社に合祀しました。文政2年、安政3年の棟札所蔵。
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石灯籠一対。
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手水石。
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狛犬一対(維持平成18年9月建立)。
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石神(東通村)…『「石持てふ山里に祭る石神にまうでんとていづ」(『奥の冬籠』)。寛政6年10月朔日(1794年10月24日)、菅江真澄は石持を訪れている。「里近き松山にかん籬(ひもろぎ)あり、袰崎明神(ほろざきみょうじん)を唱へ奉る。[天註 保呂は夷詞にてはいはやの名なり]この村は、大利といへるはまやかたのひんがしに在る伊奈崎より、むかしここにうつりて、其のころに、その辺より神をもうつし奉りしとなん」。(『奥の冬籠』)これより北に向かえば、津軽海峡に面する入口の近くに、稲崎という土地がある。石持の集落は、もともと稲崎から移ってきたもので、産土の袰崎神社も稲崎から遷したものだ。石持の人びとは、こんにちでも稲崎近くの浜に小屋を持ち、ここで漁を営んできた。いま拝殿の隣りに建つ祠が、石神さまである。もともとは大きな巌であったものが、砕けてしまった。真澄が訪れたときは、まだ巌であった。畑中という家の、刈りあげた粟穂のなかに、子牛を伏せたような岩があった。その岩の表面から小石が生まれ出るという話を、真澄は聴いた。その小石をひとつふたつ拾って、歌を詠んでいる。「産いづる さざれも岩と 栄行 末まもりませ 石持の神」(『奥の冬籠』)。なお、真澄が石持を訪れたことは、大畑の村林源助(鬼工)が著した『原始漫筆風土年表』にも、「白井英二石持の牛石へ連俳詩歌を集しつ星石(隕石)賦を著述し寄ぬる」とある。』
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絵図「石神」(『奥の冬籠り』)大館市立中央図書館所蔵。『みちのくの夷がちしまに ほどちかく むかしたむけし いなをさきに めかりつりする 海士人らも あさな夕浪 あらしほの 辛き思に たちしそき 磯山ふかく 家つくり 岡辺にいはふ 石神は その浦人の在り世に 二人三人か ちからして 真栄木のねりそ とりつけて 磯囲引出て この山の かげ道ちかく もて来れば 根はる木のこと まろはねば ここにかしこみ まつりけん みしめひかねと 春は花の ぬさとちりつみ 夏草の蒼ふしがきは をのづから 秋や紅葉を 手向らん 冬は大雪に 埋れて いさしらにきて たつと見ん この巌そも いにしへは ささやかなりと 聞きしかど 石は千曳に 生ひのぼり 産るさざれは うごきなき 御代にたぐえん 磯よろづ つきせぬままに 人はみな いやしたふとみ 村をこそ 石持てふ名 うへもいひけれ』とあります。
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※菅江真澄(1754-1829)。本名は白井英二。三河に生まれ、本草と国学を学ぶが、30の歳に旅発ち、北海道へ渡ったあと、南部・津軽・秋田と歩く。地誌を編む旅の途上、角館で病歿。享年、76歳。人生の過半を旅に過ごし、その旅を日記に綴った。その土地の風土・慣習を、その土地の人びとの見方に沿って書き留め、のちに柳田國男に「民俗学の祖(おや)」と評された。寛政4年10月(1792年)に奥戸湊(大間町)に上陸したのち、寛政7年3月(1795年)に津軽へ旅立つまでの2年半を下北で過ごし、『牧の冬枯れ』・『蝦夷が巖』(未発見)・『奥の浦々』・『牧の朝露』・『尾駮の牧』・『奥の冬籠』・『千引の石』(未発見)・『牧の夏草』(未発見)・『奥の手風俗』を書いた。
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案内板を読むと、産土の袰崎神社は稲崎から遷したものとのこと。確かに石持村は稲崎部落から移ったことにより開かれたようです。神社は分祀したものであり、地図には「青森県下北郡東通村野牛稲崎平」・浜ノ平付近に、鳥居マークと「袰崎神社」と記されており、実は地図通りに稲崎袰崎神社にも向ったわけですが、方向音痴のせいか結局見つけることはできませんでした。というよりも、途中から公道なのか私有地なのかも区別がつきにくい道があり、地元の方にもお会いできなかったのであっさり断念しました。ってことで旅館稲ヶ崎の先の行き止まり付近から海外沿いを撮影(下の写真)。石持袰崎神社は稲崎袰崎神社より分霊したものですが、そもそも石持の祖先は稲崎から移り住んだと伝え、稲崎の石神様は男神、石持の石神様は女神と云われています。
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ちなみに稲崎袰崎神社の御神体は板碑(キリーク・14世紀頃のもので安東氏との関連が伺われ、下北で初めて発見された板碑。)とのことです。※写真は東通村HPより。
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末社。
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稲荷社。
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境内社。案内板によりますと「石神さま」。私が調べた由緒によりますと子持石を祀る石神神社(石神堂)。御祭神は石神。石持という集落名も石神信仰に関わりがあるものと思われます。
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狛犬一対。
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22.2
22.4
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社殿内。
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中央小祠。
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棟札には「石神神社」の他、「八大龍王神」(文政4年4月)もあったので小祠は八大龍王かも知れません。
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境内案内板によりますと、元々は大きな巌でしたが砕けてしまったようです。菅江真澄が訪れた時はまだ巌でした。石に精霊や神秘を感じ、その石が成長して子を産むという生石・子持ち石・孕石などの伝説を残します。石神堂は畑中末一郎家で管理していましたが、昭和23年5月7日の石持大火の際に袰崎神社は焼け、石神堂も大爆発を起こして焼失。同年9月18日に堂舎建立し今日に至ります。明治33年にも火災に見舞われていますが、この時に石が半分焼けてしまい、残った半分から小石が出てきて、その小石を畑中家で祀っています。この小石は成長しており、昭和23年の大火で爆発した石も大きくなってきているそうです。昔、畑中家の祖先がこの石神様を稲崎から担いで持って来ましたが、石持村に入った途端に重くなり動かなくなりました。そこで畑中末一郎家の畑まで持っていって祀りましたが、その後、霊夢によって袰崎神社境内の御堂に移しました。石神堂の祭壇には古い時代からの石片が並べられていますが、安産・子授けの神として子安様としての性格が強いものといいます。
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石に混ざって宗善神の石碑もありました。
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