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現在は神社前に国道104号線が通っており参道は分断されていますが、その先県道155号線まで道がほぼまっすぐに伸びており、かつての参道かと思われます。
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県道155号線側には特に鳥居や社号標等はありませんでしたが、あえて県道155号線から歩いて向ってみました。
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しばらく歩くと鳥居が見えてきます。少なくとも現在は一之鳥居。
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二之鳥居の先は国道104号線。交通量が多いです。
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国道104号線の手前から見た斗賀神社です。
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鎮座地は青森県三戸郡南部町斗賀。旧名川町。かつての斗賀村。斗賀神社の前身である斗賀霊現堂は冷現・令現・良現・涼現とも書き、斗賀観音ともいいました。霊現堂縁起では大同2年坂上田村麻呂の創建、藤原有家を十一面観音として祀るとしていますが、一説では正平年間の建立で、はじめ天台宗、後に真言宗に改宗。正平21年在銘の鰐口、鐘銘、仮面、毘沙門天像などがあります。藩主の信仰も篤く、承応2年4月に盛岡藩は他の諸寺院とともに斗賀観音にも初尾として米20俵を寄進し祈祷させています。延宝7年八戸藩は冷現堂の普請にあたり、ゆきたれ20枚、わらなわ1000尋、くくなわ1000尋を遣わし、同年4月に斗賀令現堂の普請奉行として佐藤五郎右衛門が命じられ、同年11月令現堂遷宮につき川口与十郎が藩主の代参を行っています。享保5年5月には豊山寺・大工奉行奥寺嘉右衛門・御歩目付飯岡弥内・鍛冶権兵が遣わされ、藩主寄贈の鐘堂供養を行っています。享保9年には姫君の眼病立願として鰐口その他が奉納され、同15年にも亀之助様疱疹全快祈願をしています。幕府巡見使の廻国に当たっては、享保5年・天明8年に巡見使無事安全通行の祈願を命じています。御祭神は霊現堂縁起によりますと讒言によって流刑に処されて亡くなったとする二条関白太政大臣藤原有家をあて、八戸郷土誌では涼現堂は北斗妙見菩薩の祭壇で霊符験示の故に霊験堂と呼ばれるとしています。寛保4年の諸寺院寺号山号帳によりますと高10石を給されています。寛保3年の奥州南部糠部順礼次第全には涼現堂十一面観音とあり、糠部三十三観音の第16番札所となっています。神社北方高地山林中には十和田湖の主となった南祖坊が生まれた時の産湯に使用した、もしくは南祖坊が願をかけたと伝えられる小池があり、十和田山として尊信されています。
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手水舎。
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石灯籠一対(天明元年)。
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9.5
狛犬一対(文政8年8月)。
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10.5
斗賀神社。御祭神は伊邪那美尊、月読尊、猿田彦命。例祭日9月17日。糠部三十三観音霊場第十六番札所斗賀観音(涼現堂)。ちなみに名川町は北川村と名久井村が合併して名川町と称しますが、北川村の由来は北氏と涼現堂別当川村氏の「北」と「川」を合わせて命名したともいい、斗賀神社は当地方の中心であったことがわかります。
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大同2年(807)6月17日、将軍田村利仁が勅旨を奉じ、二條関白太政大臣藤原有家の遺跡巡察に際し、当霊現山斗賀の里に当神社を創建したと伝えられます。太田広城が書写した『梨子木平観世音縁起』によりますと二条関白太政大臣藤原有家は七人兄弟の長男でしたが、宝亀年間(770年代)、因幡守平秋朝の讒言により、たった15人の家来を従えて都を落ち、九戸郡侍浜(久慈市)に舟で着き、有家村に居住したといいます(現在、その場所には有家神社が鎮座)。ある日、阿弥陀如来のお告げにより西北に旅立つことになりましたが、途中、弟の北島政継が八戸の梨子木平(八坂神社=十一面観音堂)で亡くなったため、北川清蔵に墓守りを命じ、自らは斗賀村に入り、ここで生涯を閉じたといいます。そして十一面観音として祀られ、疱瘡治癒の神として崇拝されました。斗賀村で没したのは大同2年6月17日のことで享年54歳であったといいます。有家が没してから、京都では彼が無実の罪であったとわかり、再び関白太政大臣の位を授けたといいます。その後、坂上田村麻呂が勅旨を奉じ、この場所に霊現山新禅寺を創建し、十一面観音像を安置したと伝えます。はじめは天台宗涼源山東禅寺と称しましたが、江戸時代には真言宗となっています。八戸藩真言宗の総禄自在山豊山寺の支配でした。『新撰陸奥国誌』には斗賀村の説明として「八戸より西に当り行程四里十二間家数百軒三戸街道に住し僅北に離れて下斗賀と云ふ一区あり共に平地にして土地中之中田少し畑に藍を殖う東南の方六小区福田村の界馬淵川中央まで二十一丁(以下略)又本村より西北の方二十一丁谷地久保見又鳶ケ巣与兵衛長根と云所より貝化石を出す由当村に斗賀観音と称して近郷甚た尊信せる正平中建立と云古刹あり別当は天台宗涼源山東禅寺と云ひ後に修験道に入り善徳院と号し世々堂守たりしか明治中神仏仕分の時復飾して川村善内と改め観音堂に斗賀神を祭り専ら神祭しけるか明治六年善内は免ぜられ斗賀神社は下斗賀稲荷神社に遷し仏具は善内今に所持せり古き仮面鉅鐘鰐口等なり左に写す」として鐘の銘文も記載し、仮面もまた描かれています。その他、詳細な由来、鰐口(県内最古・正平21年(1366))、棟札(7枚)、御神体、内御堂、梵鐘(4代南部広信寄進・享保4年9月16日)等々については『名川町誌第二巻』を参照してください。
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12.5
明治6年4月20日村社に列格。 明治40年3月4日幣帛供進神社指定。
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拝殿向拝神額。
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「霊現山」とあります。
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拝殿内「霊現宮」。神仏分離以前の形態を色濃く残していますね。
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かつては神仏習合の霊地であり、新源寺もしくは霊現堂(りょうげんどう・涼現堂)と称していました。涼現堂は糠部三十三観音巡礼第16番札所でしたが、明治初年の廃仏毀釈により斗賀神社と改称されており、現在は第16番札所「斗賀観音」となっています。
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境内にある昭和51年9月17日竣工の鐘堂の撞鐘は、4代八戸藩主南部広信公の寄進によるものです。
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梵鐘。
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撞鐘堂建設記念碑…『此御堂称斗賀霊現堂糠部三十三観音十六番札所也 此撞鐘八戸藩主南部甲斐守広信公為病気平癒祈願 享保四年納斗賀霊現堂 「あり難や とが霊現堂の観世音 五障の霞内に残さじ」斗賀神社宮司石井農三郎、同氏子総代川村宥一、同石塚惣一郎、同西塚甚英、同梅内一雄、同西塚弥惣吉』
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神社改修記念碑(昭和41年6月17日竣工建立)…『当神社は大同2年6月17日将軍田村利仁勅旨を奉じ二條関白太政大臣藤原有家の遺跡巡察に際し霊現山斗賀の里に当神社を創鎮せしものと伝う。明治6年4月20日村社に列格。明治40年3月4日幣帛供進神社として指定せらる。昭和24年8月30日国有境内地四百坪壱合参勺を神社有地として譲與許可。昭和38年5月国道104号線を改設す。其際社殿並社頭荒廃甚だしきを以って改修整備の工事を竣工す。斗賀神社宮司石井晨三郎。※以下、同責任役員及び氏子総代名は省略』
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神社改修記念碑…『昭和38年に屋根改修後、永年の風雪で屋根鳥居の損傷が特に際立ち、古来より涼現観音、斗賀観音又は糠部16番札所として、巡礼、霊場古刹を又由緒ある建造物を後世に伝え残すため改修工事、手水舎新築他をとり行う。平成11年9月17日竣工。「観音の利生は海程 海の利生は山程 有家の世になるならば 播いても播いても盡せん」』
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斗賀神社横の建物。どう見ても神社関連の建物に見えるのですが、私有地につき立入禁止とのことで何かはわからず。ちなみにこれが収納庫だとしたら二十四日の地蔵様と呼ばれる朽ちかけた地蔵菩薩立像・毘沙門天立像・不動明王像・観音菩薩像・達磨大師像が納められている場所です。
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境内の石祠。上に別の石を積んだ変わった形の石祠です。中にも石が祀られますが、何かは不明。
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こちらは廃仏毀釈の影響か首が欠損。3体の仏像が彫られています。
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神社背後から南祖十和田神社へと続く参道があります。
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南祖十和田神社鳥居前には祠が2基。
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祠内。蛇(竜神)が祀られています。十和田神社関係のものとわかります。
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石祠は何かは不明です。
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更に南祖十和田神社鳥居横に建物があります。
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観音堂?
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さて、南祖十和田神社鳥居の先には山道が続いており、150mほど登ります。
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「神様の山だ いたずらするな」という看板があります。いたずらしてはいけません!
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道中。
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山道ですがさほど遠く感じませんでした。
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御神木と鳥居が見えてきました。
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南祖十和田神社。
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手水舎。
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「南祖丸生立の地」標柱。
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十和田山神教記…『十和田山南祖法師の由来については、関白藤原是実公御嫡男、是行公の子として奥州糠部郡斗賀村にて御誕生し南の地に先祖がある故幼名南祖丸と号した。南祖丸は才智勝れし美童にて一字を学び十字を智る。一度聞いて忘れること更に無かったという。南祖丸は、当時博学の和尚といわれた、七崎村の永福寺に弟子として手習学問を教わり、昼夜の勤勉に、12才となった時は、すでに師に勝りしといわれた。その後南祖法師は、岩城の常福寺で寺僧となり、名僧と仰がれたが2年余にして修行の旅に出た。18才にて古郷を出て以来、60余州をも修行の旅で過ごしたが、古郷へ帰り両親の御墓を拝し供養せんと志し、奥州斗賀村をさして下った。修行の旅に出てから早や50年の才月が過ぎ、体面は白髪壮年の68才になっていた。その後、斗賀村十和田神社に宿り、生禅し、御告に従い、この十和田神社にワラジを結んで下山、錫杖を杖に十和田湖へと急いだと伝えられている。』
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こちらは倉庫・小屋的な場所。
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周囲は鬱蒼としております…
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山の中なので当り前ですね。
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南祖神木と池。
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44.5
このような所に池があるのも確かに珍しいですね。
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『水神竜神 十和田信仰』(小館衷三)によりますと、「名川町斗賀稲荷神社は正平21年(1366)に開創された斗賀観音堂が神仏分離の時に稲荷社にされたもので、別当は天台宗の涼源山東禅寺であったという。近郷の人が大変信仰した観音で、十和田湖の主の南祖坊もこの観音の申し子といわれている。境内に竜神を祀る十和田神社(小祠)がある。」とあります。※この説明は「斗賀稲荷神社」としていますが「斗賀神社」のことであり、神仏分離の際に仏具等を斗賀稲荷神社に移し(善内が所持)、斗賀観音堂は「斗賀神社」と改称したということかと思います。
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『水神竜神 十和田信仰』では小祠と覆屋の写真(下の写真)も掲載されています。
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しかし斗賀神社裏手にある当社殿は小祠ではなく、そこそこ立派な拝殿でした。建て替えられたんでしょうかね。
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なお、斗賀神社と斗賀稲荷神社は別に存在します。
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拝殿向拝下。
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社殿内。
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