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秋田県大館市豊町。曹洞宗松峰山宗福寺。比内三十三観音霊場第32番札所。御本尊釋迦牟尼佛。
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宗福寺…『大館初代城代小場義成公(のち三代城代義房より佐竹の姓を名乗る)の祖、小場義躬公が正平16年(1361)小場の城主(現在茨城県那珂郡大宮町小場)となり同所に万松山宗福寺を建立した。のち義成公の時、小田(現在茨城県筑波町小田)へ所替えとなり、宗福寺も移転し、これより曹洞宗となった。慶長7年(1602)藩主佐竹公秋田遷封となり、大館初代城代小場義成公が、大館入城ののち、佐竹公菩提寺として元和2年(1616)秋田天徳寺六世の鳳山善達大和尚を開山に講した。当時の場所は今の愛宕(ここから西方300mの地)の境内であって、松峰山宗福寺としたが、後年、愛宕の地が狭いので、片山村を上野に移し、その跡(現在地)に宗福寺を建立した。尚、この境内の中には、初代から二十三代までの墓があり、江戸時代には菩提寺であったため、檀家のほとんどが重臣及び家臣だけの格式のある寺であった。』
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六地蔵等。
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花岡嘉一郎君之碑。ネットで調べてみたら私が大好きな花善の初代のようです。
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こちらは読み取れず。
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こちらは竹遥先生碑かな。読み取れる状態ですが読んでおりません。興味のある方は現地へどうぞ。
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こちらはすべてを読み取るのは厳しいです。題字に二階堂の文字が見えます。上の竹遥先生碑に「君姓藤原二階堂氏…」とあるので関連するものと思います。紀年銘は明治16年8月。
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針供養塔。
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宗福寺客殿及庫裡新築記念碑(昭和47年5月14日落成)。
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子育・水子地蔵菩薩。
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本堂及び庫裡。
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本堂向拝。
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扁額。
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本堂前狛犬一対。
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稲荷大明神。宗福寺開創の頃より、常陸国(現茨城県)太田にあったものを小場へ勧請され当山正一位稲荷大明神として祀られ、当寺変遷の歴史の中で稲荷大明神は絶えず当寺を守護し続けてきました。
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ふるさと探訪並木名園名木保存事業指定「宗福寺庭園(雨香庭)」標柱。
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庭園は本堂の裏にあります。
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18.5
ってことで本堂の裏へ。
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池泉鑑賞式庭園は江戸時代中期の作庭と推定。
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「雨香庭」(うこうてい)という名は大正年間に訪れた永平寺の僧侶によって名付けられました。
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遅い時間の訪問になったので、以下はパンフレットより一部抜粋。
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本寺について…『当寺の本寺は曹洞宗の大禅刹である万固山天徳寺である。佐竹宗家十四代義人が、寛正三年(1462)、常陸国稲木村の祝融山万松寺に夫人源姫を葬ったことに始まる。万松寺は、佐竹氏四代隆義の二男義清を祖とする同族の稲木氏の菩提寺で、後に滅亡した稲木一族の霊を佐竹義人が鄭重に弔ったといわれる寺である。佐竹十六代義舜が、この寺を一門の菩提寺とすべく、源姫を開基とし、正規に開創した寺であったが、その後、佐竹氏と共に秋田へ移り、最初は楢山(現金照寺山)にあったが、寛永元年(1624)火災に遭い、翌2年現在地の泉三嶽根に移った。総門・山門・本堂・奥書院・御霊屋は平成2年に国の重要文化財となっている。天徳寺は、江戸初期から禅の道場として多くの高僧を輩出し、禅僧を打成すると共に、秋田藩曹洞宗僧録所として宗政の中枢となり禅風高揚に大きく貢献してきた。』
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本尊・什物そのほか…『●本尊=釈迦牟尼仏、脇侍=文殊・普賢菩薩●木彫り六尺の十一面観音菩薩●千体仏=幕府の名僧二十八世形山寛祐大和尚が士農工商の四民の結縁のために開眼供養を営んだ千体地蔵仏●雨香庭=大正6年、受戒会の戒師として来寺された時の大本山永平寺六十六世維室黙仙禅師によって命名された名庭である。●佐竹西家代々の墓所●唐獅子一対●大涅槃図●達磨画 蓑虫山人筆●北野元峰禅師(1842-1933)揮毫の寺号額(大正9年永平寺六十七世、曹洞宗管長)』
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宗福寺開創のころ「開基小場義躬」…『佐竹一族は、十世紀半ばの平安期から清和源氏の流れを汲み、かつては北関東の常陸国(茨城県)と陸奥の南、磐城国(福島県)の境界の地に君臨した武家の名門である。常陸国で着々と地盤を築き勢力をのばしてきた佐竹一族は、仏教帰依の念もきわめて篤く、文永4年(1267)佐竹宗家六代長義が、道元禅師の弟子詮慧に帰依し耕山寺を建立し、七代義胤、八代行義は臨済宗の寺院を開創した。九代貞義の子月山周枢は足利尊氏の帰依を受けた夢窓疎石国師の弟子となり、旧仏教寺院の禅宗への改宗復興をすすめ、太田の増井の地に正宗寺を建立するなどの功績により、当時常陸国では禅宗が隆盛を極めていた。興国3年(1342)佐竹宗家十代義篤の庶子に大館佐竹家の始祖である佐竹義躬が生れ、正平3年(1348)7歳の時、佐竹氏所領であった常陸国那珂郡の小場の地に三万石の城主として分家し、在地名を名乗り小場氏と称した。このような時勢の中で、小場義躬により正平16年(1361)に当寺もはじめは臨済宗万松山崇福寺として建立された。』
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佐竹氏の変遷と共に「小場氏の小田入部」…『永禄12年(1569)、鎌倉公方足利家が関東の有力武士八家に屋形号を授けた関東八館の一つに数えられた筑波の名門小田氏と、佐竹氏がかねてより抗争を繰り返し激化、手這坂の戦で佐竹氏が勝利し、小田城を手に入れた。はじめ小田城は、この戦いで功があった名将・知将で評判高い太田資正・梶原正影父子が城主となった。この小田城下の西に小田氏の菩提寺があった。佐竹氏による小田城攻めの時にその寺も小田家の廟碑のみを残して焼失していたが、天正期(1573~91)になり梶原正景が佐竹の一族といわれる日山伊豊大和尚を請して曹洞宗に改宗し龍勝寺として再建した。その後慶長5年(1600)佐竹藩の領地再編により小場九代義宗が小田城へ入城することになり、この寺に菩提寺である小場の万松山宗福寺の名跡を移し、曹洞宗に改宗し新たな小場氏の菩提寺となった。』・「佐竹氏の秋田入部に随行」…『慶長5年(1600)天下を分けた関ヶ原合戦で佐竹藩は西軍・東軍のいずれにも加担せず、勝利を得た徳川家康の不興をかうこととなり、慶長7年(1602)佐竹氏所領の常陸国54万石は没収され、石高の明示のないまま出羽国秋田へ転封となり、重臣であった小場十代義成も随行することとなった。義成は初め、能代の檜山城を居城としたが、佐竹の臣赤坂朝光が大館を封ぜられたとき元々その地を領していた浅利氏の旧臣が新政反対の一揆を起し赤坂氏は鎮圧に手を焼き、小場義成に救援を求めた。義成は兵を率いて大館に入り立杭村の浄応寺の僧を仲介として弁舌をもって衆を和らげ説得し降伏させた。これにより慶長13年(1608)佐竹領北辺の抑えとして赤坂氏と交替で大館城代として檜山から移り、その後、明暦4・万治元年(1658)小場十二代義房は、秋田藩主佐竹義隆から佐竹姓を賜ったことにより、小場姓から佐竹西家を称するようになり幕末まで大館を守護した。元和2年(1616)小場氏と共に常陸国小田から随行してきた崇福寺の柏翁昌淳大和尚が中心となり、大館愛宕の地に崇福寺が再建されることになった。この大館再建にあたり、常陸では万松山崇福寺と号していたのを大館城の北にある松峰山が、城の鎮護であることから山号を松峰山とし、崇を宗に改め、佐竹宗家の菩提寺である天徳寺六世鳳山善達大和尚を勧請開山とし、柏翁昌淳大和尚が開闢二世となり現在の宗福寺が始まった。ちなみに愛宕町は大館城下西部に位置し、大館所領の家士が居住する武家町で愛宕神社があるのでその名がある。宗福寺が在立の頃は、隣地に宗福寺十一世揚堂谷州大和尚代に覚湛良本大和尚の閑居庵が営まれていたことから閑居町と称されたという。寛永17年(1640)2月24日に大館町中城、羽生主水から出火し大火災が起きた。この大館町大火で大館城を含む全町が焼失し、宗福寺も類焼してしまった。その後、宗福寺を再建するにあたり、敷地が手狭であるということで、愛宕から現在地に移ることとなった。宗福寺の移転後の貞享2年(1685)にその跡地に愛宕神社が建立され、愛宕町と命名された。』
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大館の名刹と名僧の輩出「末寺を次々と開山」…『愛宕町から現在地に移り、爾来、曹洞禅の拠点となり、新領地経営策とも相まって次々と新寺を開山した。●五世奇翁梵英大和尚開山の寺…金剛山立昌寺(大館市独鈷)、脇神山天昌寺(北秋田市脇神)、高昌山龍泉寺(北秋田市七日市)●六世外舜察大和尚開山の寺…華厳山養牛寺(大館市笹館)、如意山本宮寺(大館市本宮)(法地開山二十八世形山寛祐大和尚)●七世仲山呑的大和尚開山の寺…繁蔭山森昌寺(北秋田市小森)●八世快巌存鷹大和尚開山の寺…恕盛山浄運寺(北秋田市鷹巣)、巌本山信正寺(大館市花岡)●十世全嚴仙桃大和尚開山の寺…桐澤山永安寺(北秋田市坊沢)』・「二十世光獄泰謙大和尚」…『光嶽泰謙大和尚は詩僧として知られている。同和尚は鷹巣町の嘉成家に生れ、幼にして学問を好み比内町扇田の寿仙寺で出家し済含天養大和尚について参禅弁道したという。長じて諸国の名師に歴参したが、寛延2年(1749)、師の済含大和尚が当寺に十九世として転住したので寿仙寺の後席を継ぎ、その後、退隠した師の命により宗福寺二十世となり、大いに禅風を宣揚した。そして光嶽大和尚は、風流韻事を楽しみ文才があり、大館八景の詩集「館城八景珠」を著し人口に膾炙した。※「獄」「嶽」の漢字についてはパンフのまま転載』・「二十八世形山寛祐大和尚」…『形山大和尚は、幕末から明治にかけて名僧として知られている。同大和尚は、16歳から27歳まで12年間にわたり諸国の僧堂で参禅し、1年間天徳寺に掛塔し只管打座(ひたすら坐禅すること)の生活をした後、30歳という異例の若さで宗福寺に住山した。形山大和尚は天保13年(1842)当寺の庫裡を大改修し、同15年(1844)には開基佐竹西家の先祖代々の菩提のためと士農工商の四民の結縁のために千体仏を備え開眼供養を営んだ。小さな千体仏の地蔵は今も当寺本堂に安置されている。形山大和尚は、行業純一で豪放な生活の人であったといわれ、次のようなエピソードが伝えられている。明治元年の戊辰の役で当初、大館の寺院は藩の施設として使用されることとなり宗福寺と玉林寺は檜山勢の本陣、一心院は病院、蓮荘寺は津軽勢、浄応寺は小野寺勢の宿舎となった。敵軍の南部藩の兵士たちが大館へ侵攻、町を焼き払い宗福寺の堂塔伽藍も類焼した。開基の佐竹西家の霊屋だけは残ったが、南部軍はこれも焼き払おうとした。形山大和尚は、これをみて兵士たちに向って仏法と王法の真義を説いて狼藉を防いだ。殺気だった兵士たちを前に冷静に仏法を説いた形山大和尚の道価は遠近に高かったという。』
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