青森県県下北郡東通村目名。かつての目名村。村高は「正保郷村帳」63石余(田56石余・畑7石余)、「貞享高辻帳」79石余、「邦内郷村志」96石余(うち畑11石余)、「天保郷帳」96石余、「安政高辻帳」79石余、「旧高旧領」96石余。「邦内郷村志」では家数21、人数163、馬119、牛75。「本枝村付並位付」によりますと、位付は下の中、家数23。鎮守は神明宮(目名神社)で慶安3年再建の棟札がありました。他に高館采女の守護神といわれる熊野社があり、草創は大同元年と伝えます。また年月は不明ですが、菊池平次なる者が甲斐国より来村して居住し、自覚院と称して修験となり、以後菊池家は下北各村の獅子振り(回り神楽)行事を認可する権限をもっていました。当村の神楽は、師職目名権大夫の伝えたものといわれ、また下北一帯の神楽の源流ともいわれています。明治元年弘前藩取締、以後黒羽藩取締、九戸県、八戸県、三戸県、斗南藩、斗南県、弘前県を経て、同4年青森県に所属。
狛犬一対(昭和13年10月15日)。
石灯籠一対(平成6年9月15日)と不明の石一対。かつて力石があったとのことですが、これは力石には見えませんね。
鳥居。
鳥居脇(向って左)の境内社。かつては鳥居があったのでしょう。

蒼前堂。
鳥居脇(向って右)の境内社。

祀られている像は地蔵菩薩座像に見えますが、大山祇神大鳥居新築の棟札が見えます。恐らく山神社でしょう。よって像は石造の山神像です。この山神像は昭和40年頃に一度紛失し、村総出で捜索したところ、境内の池の中から発見され、それ以来、向井由造家で小祠の扉に施錠をして管理してきました。現在は施錠されていません。

参道に戻ります。
春日灯篭一対(昭和13年)。
こちらの石碑は「目名神社再建紀念碑」(目名村氏子中)。「大正2年7月石階成就・社殿明治41年9月竣功」と見えます。郷社は消されており、世話係2名の名前が彫られています。

池がありました。先程の蒼前堂の裏側になります。

参道石段。
大神宮と彫られた碑。

さて、目名の小田野坂にある当神社は慶長10年の勧請と伝えます。御祭神は天照大神(大日靈貴尊)。例祭日は9月16日。昔南部家の祈願所の1つでもあり、付近には目名城跡もあり、篤い信仰を集めていました。慶長10年の棟札には根城南部氏の一族である武士の新田弥六郎の名が見え、目名城址は新田弥六郎の居城。
往古より大日如来を勧請しており目名大日堂でしたが、明治2年7月に仏像を田名部円通寺に譲り渡し、代わりに天照皇大神を祀り、天照皇太神社となっています。明治6年頃までは社名を神明宮と称していたとも伝えます。明治6年5月に目名神社と改号して明治8年7月郷社に列せられます。昭和21年6月30日宗教法人令により届け出しており、大日如来とみられる像も帰ってきています。
祭典には神楽会による神楽の奉納があり、各家を廻って諸祈願されます。承応2年に目名大日堂で御湯立・御神楽を行ったという南部藩の記録があります。かつて南部藩領内に広く流行した大神楽を伝承しているところは少なくなっていますが、目名大神楽は、大神楽の諸番を正確に残す貴重なものとなっています。また、大神楽とともに歌舞伎も伝えています。下北各地に残る神楽の獅子舞の多くは目名を師匠としており、東通神楽として県無形民俗文化財に指定されています。境内には石鳥居(昭和5年)、春日灯篭(昭和13年)、狛犬一対(昭和13年)、狛犬一対(明治14年)、水盤(明治12年)、神明灯篭(慶応元年)などがあり、熊野神社・山神社・蒼前堂が合祀されています。現在の目名神社の本殿は神明造で、千木・堅魚木を屋根に上げて棟持柱を立てています。慶安3年(1650)再建の棟札がありましたが、社殿焼失した際に不明となっています。

参道を振り返るの図。
拝殿前狛犬一対(明治14年9月16日)。
水盤(明治12卯年9月16日)。

神明灯篭一対(慶應元乙丑年9月28日)。
拝殿向拝の唐破風懸魚・頭貫・蟇股・木鼻。立派です。
海老虹梁・手鋏。
拝殿向拝神額「郷社目名神社」。
拝殿内神額。
古い写真などが貼られています。


山車。

幣殿・本殿。

目名神社の鳥居・参道に平行して、すぐ横にもう1つ鳥居や参道などがあります。
石灯籠一対(天保10己亥歳6月)・参道。こちらは石段がありません。

上まで登るとこのような状態でした。
ちなみにちょうど目名神社の真横になります。

これは礎石ですね…恐らく由緒にある熊野神社です。再建中なのか、取り壊されたのかは不明です。高館采女の守護神といわれ、大同元年の草創とも伝えます。500年程前に目名に定住した修験者は下北で最も有力な修験者で、目名不動院あるいは目名三光院と呼ばれ、目名神社と同じく慶長10年には新田弥六郎の寄進により不動院が祭祀する目名熊野堂が造営されています(「大檀那新田弥六郎」の棟札あり)。修験者は能舞の元締でもあり、能舞伝承に大きな影響力がありました。
こちらは神社前の道と県道6号線とが交わる三叉路(小田野坂・東通村目名生活改善センター付近)です。
そこに追分石(昭和7年8月吉日、建立者菊池末蔵・中里佐市郎・菊池卯田吉)があります。自然石。形が面白いですね。
「左蒲ノ沢入口・尻屋道」。
「右山道」。右に進めば目名神社前を通ります。



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