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青森県八戸市大字新井田館平。松館川が新井田川に合流する新井田地区の南側高台にある新田城跡に八戸市立新井田小学校の校舎があります。高台南側から校舎にかけては縄文時代早期や後期の遺跡である館平遺跡です。新井田小学校は明治9年10月に対泉院本堂及び衆寮を仮校舎として創立。同年12月に教育令により新井田尋常小学校と改称。翌10年には新井田字坂(旧役場跡地、現消防屯所)に平屋で新築移転。開校当時の新井田尋常小学校の通学区は新井田村と新井田川を挟んだ田向村の二村。昭和3年5月に現在の場所に移転。昭和16年に国民学校令公布により新井田国民学校と改称。同22年4月1日学制改革により新井田小学校と改称し、大館中学校を併置。同33年には大館村と八戸市の合併により八戸市立新井田小学校と改称。新井田小学校のプラタナスは八戸市の保存樹木に選ばれ、子どもたちにはスズカケ(鈴懸)の名で親しまれています。樹高は不明、幹周は403cm。
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新井田小学校に行くにはいずれも上り坂で、「なかよし坂」、「かんがえる坂」、「がんばり坂」と命名されていました。
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がんばり坂。
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高台にあるのがわかりますね。
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がんばり坂を歩いていたら…
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このような看板が見ました。
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昔をたずねて(「あしあと」ぼくはトロッコより)…『◎トロッコ・明治40年、汐入にセメント工場ができる。松館に石山から石を荷馬車で運ぶ。・昭和2年、力もちの機関車がトロッコを引くことになる(ぼくです)。昭和48年、地下にベルトコンベアがつくられて、機関車とトロッコは使われなくなる。・働きものだったぼくトロッコをかわいがってね…(贈八戸セメント)◎古い校門・昭和25年にたてられた(場所、がんばり坂の中腹)。古くなったので昭和61年にとりこわし、記念に一つを残した。新しい校門を正面玄関前に建てる(贈分枝金次郎氏)◎ポスト・このポストは一号ポストといって昭和25年から最近まで使われてきたものです(松橋孫助氏のお世話)』
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古い校門。
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ポスト。
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トロッコ。1951年製KATO(KATOWORKS)7t機。製番26497(№7)。
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近代産業のシンボルとして八戸市松館から階上町金山沢にかけて八戸石灰鉱山があります。江戸時代から既に採掘しているといわれる石灰採掘所は、新井田川口に日出セメント株式会社が設立された大正10年から本格的に始まりました。現在は国内有数の露天掘り鉱山として年間約500万トンの生産量を産出。長年の採掘から全国唯一の海面下の巨大な採掘穴を形成。その雄大な景観から八戸キャニオンの名称で呼ばれています。10kmに及ぶ八戸港までの原料の運搬は、大正から昭和初期にかけては馬車トロッコ、その後は陸上をトロッコで運びました。昭和48年に地下ベルトコンベアーが完成し、その後の粉塵・騒音等の公害防止に配慮が施されています。その地下トンネルは山元貯鉱場から妙字蟹沢、旭ヶ丘団地付近を通り、湊高台付近で新井田川下流にある八戸セメント株式会社に分岐し、白銀町字昭和町にある港頭まで続いています。この石灰採掘所は北東北の近代工業の出発点であり、近代産業の象徴としてあり続けています。現在もトロッコ線の跡が所々に残されており、松館川西側には道路と水田の間に3m幅程の緑地帯が籠田方面まで続きますが、これもその跡地です。当時使用されていた機関車やトロッコが松館小学校と新井田小学校の校庭に保存されているわけです。
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木製鉱車三両(№487・240・206)と人車一両(№7)を引き連れています。保存状態はあまり良くありません。
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働きものだったぼくトロッコをかわいがってね!
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