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青森県八戸市大字新井田館平。新井田の地名の由来として、古い文書に新田、二井田という地名があり、新田を新井田と改めたという説。新田という開墾地の意味ではなく、新井田川流域に面し、大部分が低湿の荒地や谷地であったといいます。他の説としては豪商松橋孫助の家伝の中の「新井田村始祖」に、新田親貞が陸奥の国に下った時に新田という名前をはばかり隠し、新井田と改めたという説。また、アイヌ語では低湿地を「ニタッ」「ニタ」と呼び、これが訛ってニイダとなったとも考えられます。
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新井田小学校と新田八幡宮の分かれ道、新田八幡宮の鳥居の横には「参道口の水車っこ」という湧き水があります。
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その横には庚申塔があります。庚申塔は文政5壬年6月吉。
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庚申塔の後方に新田城跡の案内板。
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新田城跡…『本城は、新井田川の右岸、標高38mの要害の地にある。建武の新政にあたり、陸奥国司北畠顕家の国代南部師行が、糠部郡を中心に北奥の地を鎮めるため、建武元年(1334)根城を築いた。その後間もないころに、その孫政持が築いたのがこれである。一説にはこの北方約500mの古館に入り、のち当城に移ったともいう。子孫代々、新田氏を名乗り、南部家の重臣として活躍した。三戸の南部信直が豊臣秀吉の小田原攻めに参陣し、本領安堵後は、根城もその支配下に入り、寛永4年(1627)22代直義の時伊達藩との国境を守るため、遠野(岩手県)に移り、新田氏12代義実もこれに随行した。のち八戸藩6代信依の明和3年(1766)隠居信興のために新御殿をここに営んだ。城郭は、本丸と外館の二つの郭からなる。本丸は東西150m、南北130mでほぼ方形を呈する。本丸と外館との間の堀は埋立てられ、一部しか見られない。本丸の北側から西、南側にかけて帯郭と思われる施設が見られるが、これも堀であったかもしれない。昭和56年3月八戸市教育委員会』
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参道。
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新井田川下流域の湊村に接するまでの右岸が新井田村で、東西、南北とも凡そ2kmの広さです。東は大久保村と妙村、西は田向村と類家村、南は十日市村、北は国道45号線北側となる塩入・岩淵を含み、村の南側を東西に新井田街道(浜街道)が通っています。新井田は古くは前九年の役に源頼義の家来の一人としてこの地を支配していたといわれる塩入の武部氏がおり、鎌倉時代に入ると甲斐の南部氏の支配下となりますが、承久の乱以降は鎌倉幕府の執権である北条氏の家来工藤氏や横溝氏の支配下となっています。新井田の名前の起源についてはいくつかの説があり、新井田の地は中世において根城南部氏一族の新田氏の所領となります。14世紀前半に根城南部五代政長の次男新田政持が松館川と新井田川の合流する高台に新田城を築いてこの地に居住。古い時代から新井田(新田)の地名は存在し、また、北側約600m先には新田氏と関係があると思われる平地に築かれた新井田古館遺跡があります。新井田村は藩政初期は盛岡藩領に属していましたが、寛永4年(1627)に根城南部氏が岩手県遠野市に所領替えになると共に新田氏も遠野へ移転し、寛文4年(1664)八戸藩の創設によって同藩領に編入。その後、旧新田城下の商人たちは八戸城下に移住させられ、主に現在の八戸市中心街の八日町・十八日町・二十八日町を形成。新井田村の寺院としては新田城北に八戸藩三代藩主南部通信の生母浄生院を弔うために建立したのが始まりといわれる浄土宗涼雲山浄生寺、その北側に新田氏の菩提寺として建立されたのが始まりの曹洞宗貴福山対泉院があります。永享8年に高館から紫雲山来迎寺が今町通りに移されていますが、八戸藩が誕生した後の八戸城下の町作りの際に二十八日町に移転しています。
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新田城跡は、新井田川と松館川の合流点にある独立丘陵上にあり、城跡内には八幡宮や新井田小学校があります。新田城は根城南部家五代政長の次男政持を祖とする新田氏の居城。新田城の築城及び居住については、根城南部家文書にある建武5年(1338)の浅利清連注進状に、建武3年正月の戦いで南朝方として参戦しており、その時に比内郡凶徒新田彦次郎政持の名で新田氏が登場し、この頃には新井田に城を築き、新田城に居住していたと考えられます。明徳4年(1393)に根城南部家八代政光は、甲州の領地を捨て八戸に下向していますが、新田家二代親光はその政光に従って下向し、新田城に居住するとの記録があり、既に新田城が存在していたことを示しています。新田家と本家根城南部家とは濃い血筋で結ばれており、本家に跡継ぎがない時には新田家の嫡男が養子となり、次男が新田家を継いでいます。また、その逆の関係もありました。例えば根城十一代長安、十三代政経、十八代政栄、二十二代直義は新田家からの養子です。
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新田氏の領域を棟札から考察すると、天正9年(1581)の棟札が残る是川の清水寺観音堂、天文22年(1553)の棟札が残る河原木の小田八幡宮、慶長2年(1597)の棟札が残る松館の新山神社等から、新井田川周辺及びその東側や白銀、湊、階上方面という太平洋岸にかけて、新田城を要として支配していたと考えられます。
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城は本丸と外館からなり、本丸の規模は東西約150m、南北130~150mで、方形を呈しています。外館は本丸の東側に繋がる台地で、東西約160m、南北約150m、現在は新井田小学校があります。城の全体構造は明確ではありませんが、丘陵の北と南の沢を堀とし、二つの沢が狭まったところに南北方向の堀を入れてコの字状に区画しており、城の外堀と考えられます。曲輪は主曲輪と外館とよばれる曲輪の二郭で構成されますが、主曲輪の南斜面及び外館の南・東斜面に多くの段をつけることによって防御性を高めているのがわかります。段は西・北斜面にも部分的に確認できることから城全体にあったと考えられます。主曲輪には北側を除いて幅20mほどの大規模な堀が残されており、平場の南東側縁辺には土塁の一部が見られます。寛永4年(1627)に根城南部氏と共に新田氏が遠野へ移ったため廃城し、その後、八戸藩五代藩主南部信興が別荘を営み隠居所にしたといいます。
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新田八幡宮。
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新田城址標柱。
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鳥居。
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第一回新田城まつり記念奉献者名碑(平成元年9月23日建立)。
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平成17年度から新田城まつりが始まりました。10月第1日曜日に行われる大館地区のお祭りです。大館の歴史や文化に触れながら、地区民参加によるまちづくりを進め、地域の活性化を図ることを目的としているそうです。新しくこの地域の住民となった人々と共に遠野市とまつりを通して親睦も深めています。まつりの中では根城南部氏・新田氏の遠野所領替えの出立行列が再現されます。
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石灯籠一対(天保9戊戌歳3月3日)。
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手水石(嘉永4辛亥年4月15日)。
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参道。
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新田八幡宮は新田城鎮守の神で、建武3年頃に新田城主政持が新田城を築いた時に祈願所として建立したと伝えます。最も古い棟札としては文禄2年に新田小十郎を願主として再建された時のものがあります。本丸跡に鎮座しておりますが、元々どこに建立されていたかははっきりとしておらず、在城当時は西側の八幡淵と呼ばれる新井田川岸にあったとも伝え、松橋孫助の先祖が本丸揚巻之間に祠を移したという記録は残されています。寛永4年に十二代新田義実が遠野へ所領替えとなったときに、八幡宮は総角間跡にとどめ、村民に与えられ、松橋孫助が社守になったといいます。
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八戸藩勘定所日記の明和3年9月14日条に「新井田館八幡」とあり、五代藩主南部信興が病気療養中のため、祭礼日の鐘は静かにつくようにという指示が出されています。藩政期には新井田村の豪商松橋家が度々願主となって造営に当たっています。
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棟札によりますと、寛文8年・貞享元年・正徳3年・宝暦3年・安永9年・寛政7年・安政4年に修復。享保8年に津要玄梁が彫刻した八幡大明神の木像を安置。別当は大学坊。社司は寛文年間より修験で、初代不動院、二代大学院、三代不動院、四代俗別当左内、五代常教院、六代林山、七代了山、八代大学院と続き、九代大学坊が復飾し新井田貞尾貞安と改名。
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社号標「八幡宮」(享保3戊戌歳5月吉日)。
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こちらは灯籠かな。状態は良くありません。
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紀年銘は安永5年9月吉日。
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御神木。
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手水舎。
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手水石。
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神社庁によりますと、御祭神は誉田別尊。例祭日は8月15日。旧村社。境内地196坪、本殿3坪、幣殿1坪、拝殿12坪、参集殿22坪。
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由緒として『元弘建武正平の昔、国土が乱れている時、南部又次郎師行公が、北方鎮護の任に当り、根城を築いた後、正平の頃師行の嗣男政長の第二子政持公が新田の館を保有し、嫡家の祭神誉田別尊をお祀りしたのである。寛永4年(1627)に社殿を村民に与え、松橋氏社守となり村民心を協せて奉斎し今日に至る。』とあります。
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天照大神、八幡大神、牛頭天応が合祀されています。祭礼は3月3日、9月15日、12月3日。
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ここで一つ伝説を紹介します。八幡川原のメドツ一太郎です。むかし、大館地区の新田八幡宮の西を流れる新井田川に八幡川原があり、一太郎と呼ばれるメドツが棲んでいました。旧暦の8月14日は新田八幡宮の前夜祭で、境内では相撲大会が行われ、近村から力自慢の若者が集まって相撲をとっていました。いよいよ決勝戦というところで村では見かけない若者が飛び入りしました。体は小さく痩せているのに力は強く、この若者が優勝しました。新井田村の若者たちは負けた悔しさと、力の強さに驚いて、若者の身元を調べることにし、大会終了後に若者を追いました。優勝した若者は「人間どもは馬鹿だな。おらの腕は引っ張れば、すぐ抜けて負けるのにな」と言いながら、八幡川原の川中に入って行きました。この若者は新井田川に棲むメドツで、人間に化けて相撲をとりに来たことが分かりました。8月15日の本祭りの日も相撲大会が行われ、再び昨日の若者が土俵に上がりました。相手は新井田一の力自慢の春吉でした。春吉はパッと立ち上がると、いきなり若者の右腕を掴み、グイグイ引っ張りまわしました。若者は苦しくなってメドツの姿に戻り、腕がスポンと抜けて敗れ、春吉が優勝。その日の夜中、メドツが春吉の家にやって来てお願いをしました。「春吉さま、わたしは八幡川原に棲むメドツの一太郎です。これから悪い事はしませんので腕を返してください」春吉はメドツが可哀相になり腕を返しました。メドツは「今後、新井田の人々にいたずらしません」と約束をしました。春吉は「お前の好きな食べ物は?」と一太郎に聞くと、「キュウリです」と答えました。春吉は「それでは毎年お前にキュウリをあげよう」と言いました。
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拝殿向拝蟇股・木鼻等。
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手鋏。
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拝殿向拝神額。
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拝殿内。
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左大臣右大臣。
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拝殿から参道を振り返るの図。
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幣殿・本殿覆屋。
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石灯籠一対(昭和13年旧6月14日)。
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狛犬一対(昭和2年旧6月15日、新井田中町々内、八戸町石工元祖十二代目安藤幾久米刻)。
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石灯籠一対(昭和2年旧6月15日)。
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