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八戸市松館古里。根城南部氏の菩提寺とされた松館の福聚山大慈寺。糠塚にある同名の寺院と区別して「松館大慈寺」とも呼ばれております。福寿山大慈寺(八戸市長者)の末寺。入口の門の紀年銘は昭和34年12月吉日。※大慈寺の坂をそのまま東へと上っていくと、旧鳥屋部街道との交差点、農免道路側に金毘羅大権現碑(万延元年8月)、出羽三山碑(種子アーンク)、庚申塔(慶応2年)がありますが、これは往時大慈寺への道標としての役割を兼ねていたものと考えられています。また、文政10年に八戸御城下三十三番札所第三十番に定められていた宮内観音堂(正平21年創建。本尊観音菩薩。弁財天、虚空蔵菩薩、秋葉神を安置)は、大慈寺の西、松館川右岸の古里バス停付近の東の丘陵中腹にありましたが、所有者の都合によって解体されて現存しておりません。「宮内へ詣てて聞けば遠山の木樵のうたも身をすますなり」の御詠歌は有名です。
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糠塚大慈寺十八世祖豪雄禅大和尚により明治20年(1887)中興開山。
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石祠と石碑。
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県重宝大慈寺(松館)山門一棟の標柱(平成21年2月18日指定)。
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大慈寺山門。昭和38年に市文化財、平成21年に県重宝に指定。所蔵している棟札及び平成18年の解体で発見された大斗裏の墨書により文政10年の建立とされます。大工は靏松吉忠。三間一戸、二階建ての楼門形式で、茅葺屋根は四方に傾斜した屋根面を持つ寄棟造。平成18年の解体修理までは、修理がほとんどされておらず(茅屋根の葺替えは度々行われています)、下層は中央間も脇間も扉は無く、当初から吹放。上層では中央間に花頭口を開き、他は羽目板壁。※平成9年に鉄筋コンクリート布基礎にやり替えアンカーボルトで固定。平成18年の解体修理の際には、昭和46年の大幅な葺替え工事で行った津軽風の二段葺きの屋根を当初の南部風の形に直しています。
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本堂前から見た山門(鐘楼門)。
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「山門、老朽化の為、階段の昇降を禁ずる。」
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案内板「県重宝建造物(平成21年2月18日指定)大慈寺(松館)山門」…『根城南部家の菩提寺であった大慈寺は、寛永4年(1627)に同家が遠野へ村替となった際、それに従い遠野に移りました。現在の大慈寺はその後再興されたもので、糠塚の大慈寺と区別して松館大慈寺と呼ばれています。この山門は、寺に残る棟札から、文政10年(1827)に建立されたもので、大工棟梁は松館の靏松であることがわかっています。三間一戸の鐘楼門形式をとるこの山門は、上層に釣鐘を内包する鐘楼を兼ね、屋根は芝棟の茅葺寄棟造で、鐘楼形式の山門としては珍しいものです。下層に扉はなく、両側面を横羽目板壁とする以外、すべて吹放ちとなっており、上層には正面と背面中央に吹放ちの花頭口を開き、脇間は横羽目板壁としています。下層の隅柱及び上層の柱の上部には出三斗が組み込まれています。軒廻りは一軒の疎垂木、軸組は粽のない円柱で、自然石を用いた礎石に置かれた木製礎盤の上に立つなど、総じて簡潔にまとめられています。本山門は、簡素な軸組と造作の上に僅かな反りがみられる茅葺寄棟造屋根を載せ、禅宗様と和様を巧みに組み込んだ小山門として優れています。平成27年9月八戸市教育委員会』
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本堂。創建は応永18年。根城南部氏が秋田安藤氏との合戦に赴いた際、敵の様子を教えて勝利へと導いてくれた僧に報いるために、松館にあった庵の旧跡を復興する形で建立。合戦後、南部光経は家臣坂本雅楽を秋田に残し、その僧(鹿角郡柴内の万松寺の宝山正弥和尚)を探し出すよう命じました。そしてその僧を招いて住職とし、根城南部氏の菩提寺としました(※「家伝記」)。寛永4年に根城南部氏が遠野へ国替えとなると、それに従って共に移転(遠野市においては現在も存続)。一方で松館に残された寺跡は、盛岡藩主南部利直により同じ名前で再興。寛文4年の八戸藩成立後は領内十ヶ寺の一つ。延宝年間に檀家の利便を考えて町に近い長者山南麓に宿寺を開設して住職は兼務。近代に入り、宿寺制度が廃止されたのに伴って明治21念い相互に分離し、長者山麓側は糠塚大慈寺などと称されて現在に至ります。
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応永19年9月21日付の八戸大慈寺鐘勧進奉加帳には大慈寺の鐘鋳造のために、長経・光経の他に新田親光・中館政経、更に政光が馬を一疋ずつ大慈寺に奉納したことを記しています。根城南部氏にとって大慈寺創建は一族をあげて慶賀すべきできごとであったといえます。それ以前より菩提寺としての役割を果たしていたのは成福寺ですが、新たに菩提寺を建てて一族の結束の要とし、八戸を拠点として糠部に活動の基盤をうち立てたといえます。※庵の旧跡…松館の松月庵跡。松月庵は寺地嘉兵衛の妹である霊照未山尼が建立し、死者を弔ったとされる草庵。松館松月庵については「三翁昔語」に天授2年の根城南部信光(沙弥聖光)の寄進状が引用されており、これによりますと、信光は松月庵に「山之ひしりのあと」と松館の田一町および在家を寄進しています。松月庵の前庵主は「山の聖」と呼ばれた僧侶であり、この寄進状により信光は新庵主に従来からの権利を保障して一層の保護を与えたと思われます。同じく「三翁昔語」に載せる応永6年の什物目録によりますと、薬師如来図像一幅を本尊とする草庵で、庵主は天訴であり、天授2年の寄進状は天訴に与えられたものと考えられます。そして天訴の没後にその後身として大慈寺を建立したと思われます。松館松月庵は従来から地域の人々の尊崇を集める信仰の中心地であったと推測されます。
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東善寺館に所在した祈祷寺東善寺(真言宗)、八戸家の菩提寺である松館大慈寺(曹洞宗)、成福寺(時宗)の3ヵ寺は譜代之寺院と称され、いずれも寺領100石。福聚山大慈寺は松館とも呼ばれており、中世以来、松館村を一円支配してきました。元和7年の知行宛行状では195石余の寺領を有していました(※南部利直は知行宛行状を発給する際に中世以来の有力寺院の権力を抑え、八戸直義の当主権を強化させるため、大慈寺・成福寺・龍穏寺・禅源院らの寺領削減を清心尼に命じ、大慈寺は寺領195石余から100石に減知され、その際に篭田・十日市・岡田の集落などが直義の蔵入地として接収)。新井田川の支流松館川沿岸の複数の小集落と田畑が寺領で、松館村だけではなく十日市村にまで寺領が広がっていました。大慈寺は応永18年に龍伝惠金を開山として創建されましたが、三世要岩正的(天文22年寂)の後に衰退し、根城南部信長の三男四世正棟(天正4年寂)の代に中興。再建されて、五世外山恕心(慶長2年寂)を経て、六世(中興三世)の海翁種南(慶長16年10月寂)の代の慶長期、社会の安定期のなかで寺領内では多数の堂社が再建(篭田月山大権現宮、十日市村熊野宮、岡田山天台寺)。岡田山天台寺再建の際には、堂の屋根に使用する茨150駄が寺領内から寄進されており、住職種南の功績が大きかったといいます。
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公式HPより一部抜粋…『応永17年(1410)、南部の嫡家十三代守行は隣国出羽の領主安藤鹿季が、守行公の領内に侵入して来たため、根城南部九代長経十代光経に出撃を要請。ところが地理に暗い南部軍は、苦戦の連続。そんな折に、1人の老僧が陣中を訪れ「この先に秋田側では、伏兵を配置して待ちかまえています。用心なさい」と言い立ち去りました。この老僧のおかけで南部軍は勝利をおさめ、帰国することができました。この敵の様子を知らせてくれた寶山正彌(珍)(ほざんしょうや・ちん)和尚を尋ね求め、八戸に招いて八戸の松舘に一寺を営構して「福聚山大慈寺」と号し田料百石を寄進して、根城南部氏の菩提寺としました。このことにより大慈寺は松館の地に根城南部九代長経を開基殿として開山しました。寶山は師僧の龍谷寺(石川県金沢市)二世龍傳慧金大和尚を開山和尚に勧請し、自らは2世となりました。応永18年(1411)のことです。ところが、寛永4年(1627)盛岡南部初代利直の命により伊達領との境を守るために根城南部は岩手県遠野へ国替えになり、大慈寺も共に遠野へ移ってしまいました。明治36年発行の『糠部五郡小史』によると「その後の八戸は盛岡南部領となるも八戸殿移封により人家まばらになり大慈寺の住持も無く廃れつつあったところに、盛岡南部利直公が寛永5年(1628)に鹿角(祝融山)萬松寺三世虎山玄龍和尚を招き五十石を寄進して中興開山とした」と伝えられています。その後江戸時代の寛文4年(1664)になると、幕府の指示で八戸藩(二万石)が生れ、大慈寺は寺領五十石をおくられました。八戸の城下町が整備され発展するにつれ松舘は遠くて不便だというので四世の明岩幡察和尚は糠塚(現在地)に宿寺(出張所)を建てました。さらに十六世の文要和尚は、天保年間の初めの頃、現在の地に大慈寺を建て、本寺を松舘から糠塚へ移すことにしました。松舘は檀家の関係もあり、末寺としてそのまま残すことにしました。祖院とも考えられる松舘と、糠塚と両大慈寺が同じ名前のまま独立し、正式に本寺と末寺になったのは、明治21年のことでした。ちなみに、現在の山門(八戸市文化財)が完成したのは、棟札によれば天保2年(1831)4月と書きしるされています。』
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堂内。
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市指定文化財(昭和48年指定)の地蔵菩薩像を所蔵。正徳3年作。高さ80cmの立像。田子出身で大慈寺六世住職になっている奇峰学秀作。体は丸みを帯びており、洗練された衣文表現が見られるものです。裏面の銘には父母の霊が幽界を脱することを願い彫ったとの墨書あります。その他、根城南部氏時代のゆかりを示すものとして慶長10年の銘がある破籠を所蔵。南部家の当主が来た際に食物を供するために用いたとされますが、仏具の一つとする見解もあります。また、丸に桐紋を配した丸膳も所蔵しており、こちらも南部家の当主が参詣した際に用いたと伝えられています。その他、岩井重良兵衛による八戸御城下三十三番巡礼札があり、「御城下三十一番 松館大慈寺観世音 源愛秀敬白 石上ふるきむかしのしたわれてすへたのみあるみてらなるらん」と刻まれています。
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江戸期からの松館村についてです。三戸郡のうち。はじめ盛岡藩領、寛文5年より八戸藩領。八戸廻に属します。元和4年の南部利直知行宛行目録に「松館」とあり、近世初期は根城南部氏の知行地でした。村高は正保郷村帳159石余(田85石余・畑73石余)、貞享高辻帳159石余、元禄10年高帳では松館通村と見え510石余、内訳は松館318石余(田159石余・畑159石余)、金山沢191石余(田32石余・畑158石余)、天保郷帳299石余、旧高旧領250石余。八戸藩日記寛文8年11月の条に「追鳥被仰付松館通ニて雉子弐拾弐羽取上」とあります。領内制札場の1つで、天和2年切支丹・捨馬禁止の2枚が掲げられました。雑書承応2年8月の条に「八戸之内是川・松館、川目・十日市・新田・湊迄、洪水ニて田畠押成ノ由」と洪水の記録が見えます。天明7年6月にも洪水に見舞われており、揚用水が半壊したほか、川沿いの田畑が押し流されて大豆・小豆・蕎麦が皆無作となりました。大慈寺は寛永4年根城南部氏の遠野移封により同地へ移りましたが、盛岡藩2代藩主の南部利直が50石を付し虎山を中興開山として当地に再建。八戸領内10か寺の1つで外5か寺のうちに含まれます。神社は雑書承応2年4月の条に「八戸籠田月山ニて去廿日御湯立」とみえる月山神社のほか、応永元年の棟札(県重宝)を有する宮内観音堂、寛保3年の奥州糠部三十三観音順礼次第全に「籠田岡田観音堂舎」とあり、糠部三十三観音第3番札所とされる岡田観音堂があります。月山神社は地内籠田にあり、根城南部氏10代光経が応永18年秋田出陣に際し、陣中で出羽月山に祈願したところ、霊夢に現れた2羽の鶴によって勝利に導かれたとして、永享8年に11代の長安が勧請したといいます。別名鶴輪山九星寺とも称し、南部家九曜の紋の由来を伝えます。江戸期には観音堂のほかに岡田薬師堂もあり、寛文7年には八戸藩初代藩主南部直房の母が参詣。明治初年月山神社に合祀。明治初年の国誌によりますと、家数は本村61、支村の細越8、地内の状況を「山を負、松館川に沿て住し、南の方は地高低あり。十区に分れて寺池(地)・風張・東門前・古里・夏川戸・奥沢・大筋味平・籠田等の小名あり。土地下之下、田少し。農隙には草履を織蒲脛巾を製て余産とす」と記載。古木として臥竜梅が知られ、明治27年の八戸琹草に「閉伊穴ニ至ル一二町ノ前路平坦ナル畑地ニ一幹ノ老樹屈曲蜿蜒シテ潜竜ノ天ニ冲セントスルカ如キ万朶直径十二三間東西南北ニ伸ヒ、純白ノ小花枝モ見ヘ又迄咲キ充テ馥郁数里ニ達スル」とあります。明治17年松館小学校が開校。明治12年の共武政表によりますと、戸数66・人口456(男245・女211)、学校1、寺院1、牛1、馬124、物産は麦・雑穀・蔬菜・酒・麻糸・鳥類・米。同22年大館村の大字となります。
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この先は…
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歴代住職墓所でした。
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南無釋迦牟尼佛。
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子安地蔵尊。台座碑文「胸にはせまる嘆きあり母には母の涙ありこの世の縁は浅くとも深く契らん次の世に」
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墓所入口の灯籠一対。
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南無観世音菩薩。
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最後に大慈寺に関わる馬峠の伝説について紹介します。馬峠は大茂館の南東にあり、昔は八戸への往復路であったといいます。延宝の頃に松館大慈寺の和尚が宿寺であった糠塚の大慈寺に本尊の観世音菩薩を移すために、馬の背に乗せて鳥屋部街道まで来たところ、馬は本尊を振い落として一歩も動かなくなりました。和尚は本尊を再び馬の背に乗せ、縄で結び付け、無理に馬を引き立てましたが、再び本尊が転がり落ちて馬は一歩も動こうとしません。和尚は途方に暮れて馬の向きをかえると、馬は松館大慈寺の方へ歩き始めました。「これは観音様が御遷りになられたくないのだ」ということで、本尊を移すことを諦めたといいます。このことがあってから、この尾根続きの道を馬峠と呼ぶようになったという話です。ちなみにこの本尊は現在どちらの大慈寺にも遺されていないといいます。※妙の傳昌寺にも似たような話があり、馬が立ち止まった場所に傳昌寺が建てられているといい、大慈寺の仏像の話だという共通点があります。
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