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青森県八戸市大字松館籠田。松館川西岸の丘陵地山際に鎮座。八戸公園こどもの国付近、岡田山観音堂の北方。
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かつては蝦夷の集落があり、岡田はアイヌ語で「上の村」「オコタン」といわれ、籠田はアイヌ語で「下の村」「カコタン」と呼ばれていたという説があります。
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こちらは月山神社にさしかかる三叉路にある牛頭天王碑。中央に「牛頭天皇」(※天王ではない)と彫られており、紀年銘は慶應四辰二月十四日。集落内の悪疫退散のため置かれたものです。
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池。
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保存樹林「ヤマボウシ」(第33号・平成27年3月30日八戸市)。樹木は階段を登りお宮の右後方にあります。
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月山神社の由来…『御祭神月夜見命。籠田山は遠くから見ると鶴が翼を広げたような地形なので鶴輪山とも呼び、月山神社を九星寺と称しました。向鶴の根城南部家九曜紋の由来が伝えられています。時は根城南部時代までさかのぼり、応永18年(1411年)十代光経公が秋田征伐の際、陣中で出羽月山に戦勝祈願したところ、その夜二羽の鶴が舞い天空より九曜の星が落ちてきた夢を見ました。これは吉兆の知らせだということで翌日の戦いでは大勝利を得たのでした。十一代長安公は永享8年(1436年)神恩報謝として当地に月山神社の建立を勧請し、毎年旧暦9月29日には必ず藩主が参詣しました。明和5年八戸藩主五代信興公が絵馬を奉納したこと等から「殿様の神社」とも呼ばれました。歴史の深い堂舎それが、籠田山月山神社です。御城下三十三観音十三番札所。御詠歌「はるばるとめぐりて聞けば籠田山大悲のうみをてらすつきがね」平成21年2月吉日』
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階段手前右手に社殿がありました。
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狛犬一対(昭和5年旧9月29日建之)。
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台座。
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松館には、籠田、宮内、新山に権現様(獅子頭)があり、春祈祷、獅子頭アソバセ等がありました。籠田の権現様(獅子頭)は月山神社麓の権現堂に奉納されており、岩淵・白銀の権現様と共に一本の木から造作されたと伝えます。岩淵の権現様と籠田の権現様はよく喧嘩をし、籠田の権現様は耳を噛み切られて、西法光野(三光ストア付近)に埋められたという伝承があります。近くの石橋家の石殿には「奉納明治二十五年七月七日」の碑が建てられています。※中は確認できず、これがその権現堂かどうかの確証はありません。
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八戸御城下三十三観音第十三番札所の籠田山観世音(御本尊見渡し観音)。かつて鶴輪山九星寺(かくりんざんきゅうせいじ)と呼ばれていましたが、明治に入り月山神社と改名。籠田家の管理。根城南部氏十代光経が秋田征伐の戦勝祈願を出羽月山にして勝利。その神恩報謝として当地へ勧請。南部家の紋「向鶴」と九曜の紋の由来所。
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伝承によりますと、応永18年(1411)に根城南部10代当主の光経が秋田征伐の際、陣中で出羽国月山に戦勝祈願したところ、その夜に二羽の鶴が舞い、天空より九曜の星が落ちてきた夢を見たといいます。これは吉兆だということで翌日の戦いでは大勝利を得たといいます。永享8年(1436)に11代長安はその神恩報謝として、当地へ月山神社を勧請したと伝えられています。秋田出陣の際の吉兆により、南部家の九曜の紋と八皿の行事が始まったともいいます。宝暦5年(1755)の堂林寺門間数改書上帳には「籠田月山堂」とあります。明治4年(1871)の神社調によりますと慶長10年(1605)の建立とされ、別当は登善院。月山縁起では永享8年に勧請されたことになっているので、その間には170年ほどの差がありますが、慶長期には社会の安定期の中で大慈寺(松館)の寺領内では多数の堂社が再建されており、籠田月山大権現宮も慶長10年7月に再建されたものと思われます。明治初年の新撰陸奥国誌には月山神社とみえ、この頃現社名に改めたものとみられます。明治30年に八戸御城下三十三番札所巡りの第十三番に定められ、御詠歌に「はるばるとめぐりて聞けば籠田山大悲のうみをてらすつきがね」と詠まれています。
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八戸市史「八戸直政の政務開始」より一部抜粋…『利直は、岩崎一揆鎮圧まもない慶長六年十月に江戸へ上って関ヶ原の戦勝を賀し、翌七年十月頃に帰国した。利直は慶長初年から盛岡城(旧不来方城)の普請を始めていたが、この慶長七年に普請を終え、居城を三戸城(三戸町)から盛岡城に移したとされる。これより、三戸南部家を「盛岡南部家」、その所領と支配機構を「盛岡藩」と称する。徳川家康は、慶長八年二月に征夷大将軍に就任して江戸幕府を開き、十年四月には上洛して子息秀忠に征夷大将軍職を譲り、その世襲を世に知らしめた。これより先の二月二十九日、秀忠の上洛の供奉を命じられた利直は、秀忠の行事の後陣七番に編成されて江戸を発ち、家督継承後初めて上洛した。こうした徳川政権の確立過程に身を処することで自己の権力を固める利直に対し、八戸家は文禄四年八月の八戸直栄死後、家督に就いた三五郎(直栄の弟)が幼少であったため、一度隠居していた父政栄が政務に復帰し、八戸家の動揺期を凌いでいた。慶長十年(1605)七月、八戸氏が崇敬する篭田月山大権現宮(現籠田月山神社)の修復棟札に、「大檀那八戸将主源之政儀亜跡三五郎子孫繁昌」と記されていたように、「八戸将主」、つまり実質的な領主は政栄とみなされていた。しかしこの棟札には、すでに元服を済ませていた19歳の三五郎が「亜跡」と記され、次期当主としての期待が高まっていた。この年二月、三五郎と妻ねね(八戸直栄の娘、のち清心尼)との間に千代が誕生しており、「三五郎子孫繁昌」とはこの千代の繁栄を願ったものであろう。』
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青森県神社庁より一部抜粋…『旧社格:村社。御祭神:月夜見命。例祭日:5月15日、12月14日。境内地180坪。建物:本殿三坪、幣殿三坪、拝殿九坪、参集殿100坪。永享8年(1436)9月、出羽湯殿山・月山の分霊を勧請したといわれる。又、堂、境内地に関しては、宝暦5年の文書によれば、堂三間四方、慶長10年(1605)9月建立、施主別当とあり、更に境内地に関しては、林、東南六百間、西北四百間、西南は松館境、北東は田境とある。社司は慶長年中より修験とある。』
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石灯籠一対(文久二壬戌天六月十五日)。
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狛犬一対(昭和13年5月吉日建立、籠田定憲、籠田政俊)。
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拝殿。
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拝殿向拝蟇股、木鼻、海老虹梁、手鋏。
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向拝扁額。
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幣殿・本殿覆屋。
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ヤマボウシ。
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