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青森県八戸市松館岡田。籠田岡田観音(岡田山観音)。御本尊聖観音。
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鳥居。
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参道。
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本堂に至る途中のイチョウの大木は平成23年3月に八戸市保存樹林第24号に指定されています。幹周5.1m、推定高22m。
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松館川下流の西側の山際にあります。「藤右衛門の小絵馬」で知られており、古くから人々の信仰を集めております。寛文5年(1665)の無量院の「御立願状」(常泉院文書)に「一岡田ノ観音、右同断ノ事」とあり、岡田観音堂に絵馬を奉納していることがみえます。
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寛保3年(1743)に天聖寺則誉守西上人が、糠部三十三番札所巡りの第三番に定められています。また、文化10年(1813)の八戸御城下三十三番札所では第二十九番に、明治30年(1897)佐々木恭岑が定めた八戸御城下三十三番札所では第十四番に定められています。12月17日が御開帳日。御開帳日以外にその姿を見ると眼が潰れると云われているそうです。
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伝承によりますと、大同2年(807)に初代橘藤右衛門が出羽国庄内から一寸八分の黄金仏千手観音を奉持し、山頂にお堂を建立したといいます。岡田観音のある山は鶴林山という修験道場の山でした。代々橘家が別当として管理して藤右衛門を襲名。御本尊は千手千眼大菩薩でしたが、現在は籠田の月山神社に移安され、現在の御本尊は一尺五寸ほどの木彫聖観音坐像です。
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岡田観音堂には絵画的に優れた小絵馬があり、昭和初年に民俗学者の小井川潤次郎によって紹介されました。別当の名を冠して「藤右衛門の小絵馬」と呼ばれています。元禄から正徳・享保・延享・宝暦にかけての絵馬が多数ありましたが、今は橘家と八戸市博物館に僅かに残っているだけです。
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また、直径約30cmの鰐口には「天臺寺」という文字が見え、それ以外は書かれていません。御堂改築の際に新井田の松橋孫助が使用されなくなった二艘の千石船の帆柱を寄贈したという話が伝えられています。
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堂宇内。
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岡田観音堂…『伝承によると、大同2年(807年)、初代、橘藤右エ門が、出羽国(山形県)庄内から、一寸八分の黄金仏千手観音を奉持して、山頂に御堂を建立、代々、橘家が別当として、管理し、藤右エ門を襲名している。寛保3年(1743年)の天聖寺即誉守西上人糠部三十三番札所巡りの第三番に定められている。御詠歌に「かご岡田大悲の御堂拝すれば三垢消滅身意柔軟」と唱われている。八戸城下三十三番札所の第十四番にも定められている。祭礼12月17日。▲昭和元年(1926)御堂礎石改築の際、発見した「橘藤右エ門の小絵馬」は全国的に勇名である。この絵馬は全国でもまれにみる優秀なものでその描法は馬産を誇る当地方を物語るかのように生き生きとした素晴らしいものである。現在は八戸市立博物館に展示されている。この観音堂改築の際、新井田の豪商松橋孫助が長年使用してきた2隻の千石船を解体し御堂の柱にしたと言う伝えがある。』
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松館散策マップ。ちなみにこの後、地図にある「①大茂館蒼前神社」へと向ったのですが、一之鳥居より先がすべて立入禁止区域となっており参拝できませんでした。理由はわかりませんが私有地のため立入禁止となっております。参考までに。大茂館蒼前神社を紹介できそうにないので、ここでついでに大茂館について少し述べます。馬を祀る大茂館蒼前神社の地です。大茂館は一説には新田城の前身ともいわれる館跡で、土塁や30mの三重の堀跡が残されています。ここに白米城の伝説というものがあります。八戸市では大茂館の他に田面木の王城林や上長地区の蒼前山に伝わるものです。城が攻められ籠城した際に、敵軍に水不足を知られないように蓄えておいた白米を水のように流してみせ、敵軍を欺くというもので、落城して滅んだ人々への哀悼や死者の霊を慰める意図もあり、密告者は殺害され、子孫は祟りを受けて不幸になるといいます。大茂館の白米城の伝説では、老女によって秘密が漏れて落城したといわれています。『むかし、妙野の大茂館の殿様が、十日市の茶立場に陣どった根城城主二十二代南部直義に攻められ、館が包囲されて落城寸前となった。大茂館軍は食料は十分であったが、水の手が断たれてどうにもならなくなり、根城南部軍の囲みを解かせようと図った。そこで、馬を洗うために、手桶に入れた白米を「ザーザー」と流して、水があるように見せかけた。茶立場から見ていた南部軍は「城の中には水が溢れるほどある。これでは城が落ちるまで囲んでいられない」と囲みを解こうとした。しかし、茶立場で茶を立てて売っている妙の婆様は、「あの城には、水は一滴もないでしょう」と言う。そこで、「あの白いのは水ではないか」と尋ねると、婆様は、「いや、あれは米じゃい」と答えた。南部軍は、それではということで激しく攻めたので、ついに大茂館は落ちた。この戦いで敗れた妙の侍の目に矢が当たったが、丹内の薬師堂の清水で目を洗ったら、もと通りに治ったという。ある時、さきの茶立場の婆様が、妙の的場を流れる馬渡川で洗濯をしていた。その的場の近くに馬場があり、新田城の流鏑馬が行われていたらしい。その流れ矢が婆様の額に当たって死んだ。それで、この地を額沢と呼んだという。』
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更にこの地図の④にある新山神社(御祭神は伊邪那岐命)についも少々述べます。明治以前は新山大権現社と呼ばれており、神社調によりますと慶長2年9月19日に勧請されており、例大祭は9月19日。元々は修験の道場であり、新山権現神楽を伝承してきました。祭壇の下には古くからの棟札や絵馬が保存され、宮内観音堂に保存されていた明徳5年銘の棟札は元々この新山宮の棟札であり、本県最古の棟札として県重宝に指定されています(昭和30年)。棟札には「先御造永正平二十一年十一月十八日 御造栄明徳五年甲戌歳極月廿日」とありますが、明徳5年は7月5日改元しているので、極月(12月)はすでに応永であり、応永元年に新山宮を造営した棟札になります。先の造営が正平21年であることや、再建した旦那が平朝臣守長であることが分かります。根城南部の南部政光が、一族郎党を引き連れ、甲斐の国から八戸に移ってきたのが明徳4年であり、貴重な資料となっています。上幅14cm、下幅13cm、長さ114cm、厚さ2cm。
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以下は岡田観音堂と無関係ですが、八戸市湊町のみなと食堂です。
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メニューも豊富ですが、何度来ても悩みに悩んで…
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結局「平目漬丼」(もしくは平目えんがわ半々漬丼)にしていまいます。
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もちろんせんべい汁セット。
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