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青森県八戸市新井田岩淵。八戸セメントの東側、かん子稲荷神社の南方。岩淵別雷神社(岩淵新山権現堂観音)。奥州南部糠部三十三観音七番札所。御本尊聖観音。※壊れた標柱(上の写真・平成14年12月10日建立)ですが、令和元年7月に同神社の御朱印を預かっている小山氏の家の郵便受けに、標柱を直すための足しにして欲しいという主旨の手紙と現金2万円が入っており、これを機に足りない分の費用を氏子総代らが工面して、令和2年7月下旬に新たな標柱が設置されています。
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集落に入ってすぐ左にある朱塗りの両部鳥居から岩山の丘を上ります。
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参道途中の小祠。
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綺麗な石が3つ。
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中には石祠と神鏡、その手前には木彫の蛇と陶製双頭蛇体像、更に狐があります。
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新井田地区の東側に旭ヶ丘団地造成が計画されたのは昭和36年頃からで、その10年後の昭和46年に旭ヶ丘団地の北側と東側を巡らすように、新井田地区と湊地区の間に国道45号線の道路舗装工事が行われ、昭和47年頃に開通。この国道45号線によって湊高台及びその周辺の開発は急速に発展し、人口増加により現在の道路の北側は湊地区の青潮小学校の学区に含まれる地域が多くなります。明治初年の新撰陸奥国誌には塩入は新井田村の支村として、岩淵村は新井田村から湊往来に散居する村として記録されていますが、三戸郡村内誌では塩入(14戸)・岩淵(6戸)ともに新井田村の所属。岩淵の高台である現在の湊高台や旭ヶ丘・桜ヶ丘等は、根城南部氏の時代から妙野の牧と呼ばれていた放牧地であり、岩淵の名前も14世紀前半の「きぬ女申詞書案」に見える古い地名です(正安3年「安藤きぬ女の書上」の中に「いはふち」とあります)。
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明治の初め頃は、湊・新井田・十日市には橋がありましたが、塩入には橋がありませんでした。明治の末から大正にかけて「汐入の仮橋」と呼ばれた粗末な橋が架かっていました。それまでは岩淵に渡し場があり、類家・小中野から妙野の村々へはその渡し場を利用したそうです。
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申神様・山ノ神様・稲荷大明神。
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こちらは読み取れず。
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参道を振り返るの図。
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かつて深山幽谷の修験道場。勧請年不詳。三戸郡村誌によりますと正慶元年(1332)に領主南部政行再宮の棟札を納めたとあります。八戸藩資料では永禄12年(1569)に根城南部氏18代政栄により建立。宝暦5年(1755)の堂林寺門間数改書上帳には「岩淵村新山権現堂」とあり、慶安3年(1650)の建立とされます。寛文5年(1665)の無量院の御立願状には「一岩淵ノ権現鐘諸納事」とあります。延宝6年(1678)に御堂再建し別当は永寿。八戸藩史料には「享保19年(1734)8月20日 岩淵新山権現(本地正観音)の像朽損を修理し、寺下の津要和尚開眼入仏供養あり、別当は永寿法印なり。本堂は永禄12年(1569)4月17日八戸政義の創立なりしを今回再建せらる。」とあります。寛保3年(1743)の奥州南部糠部順礼次第全によりますと「七番札所 岩淵権現堂 真体正観音、前立ハ獅子権現 別当法憧院」とあります。※資料によって年代がまちまちです。
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明治の神仏分離令により別雷神社に改称。御祭神は別雷神、応神天皇。例大祭は観音様の御利益がある日の17日として4月17日、7月17日、お年越しの12月17日に地区の信者が集うそうです。
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青森県神社庁より…『御祭神:別雷神。例祭日8月17日。境内地59坪。本殿2坪、拝殿8坪。寛正2年(1461)3月八戸弾生政義公の創立にかかり永禄14年(元亀2年か?1571)再建、享保19年(1734)再建建築、八戸藩南部家の鎮護神であった。昭和24年8月31日境内地譲与せらるる。』
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灯籠一対(昭和49年12月17日建立)。
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15.5
手水石。
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狛犬一対(昭和46年4月吉日)。
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17.5
社殿横へ。
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八戸セメント株式会社のNSP(ニューサスペンションプレヒーター)タワーが見えます。
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観世音菩薩。「一番地ノ十七番」と彫られていました。
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社殿前からの眺望。
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