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山形県酒田市日吉町。日枝神社下日枝神社)の東参道。かつての日枝神社は東向きであったため、今町からの小路が旧表参道になります。
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旧臺町(上・下)…『一面の砂山であったのを明暦2年(1656)から家作りが始まり、天和3年(1683)には上・下二町、裏町二丁となった。町名は高台であったところからと思われるが、町奉行中臺式右衛門が町割りをしたからともいう。山王社の表口として栄えた。平成23年3月酒田市教育委員会』
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大正末期の地図では下台町と上台町の間を「山王小路」、上台町と今町・傳馬町の間を「観音小路」「観音堂小路」と記しています。享保20年には観音堂で黒川能が興行されています。相馬樓と香梅咲の間から光國寺前へ抜ける道は「姿見小路」、更に「姿見小路」の先は「弁天小路」・嚴島神社へ通じています。山王小路は下日枝神社(表参道)、観音小路は光國寺(今町の観音さん)、姿見小路は舞娘(舞妓)。遊女らが崇拝する弁財天が元禄大絵図に見えますが、その弁天堂への小路を弁天小路と称しており、弁天小路は嚴島神社(今町の弁天さん)から名付けられていることがわかります。
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ちなみに現在は山王小路から観音小路の付近を通称「舞娘坂」と呼んでいるようです。
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おくりびとロケ地(#4日吉町・石畳)…『酒田の素敵な景色の一つ、趣のある石畳の道路で大悟の生まれた街の美しい景色として1シーン登場しています。奥に見える赤い鳥居の上には酒田の観光名所の一つ、光丘文庫があります。その先の遊歩道を歩いていきますと、NKエージェントの社屋として設定された、「旧割烹 小幡」の前へとつながっていきます。』
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おくりびとロケ地案内板と同じ場所の写真。
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香梅咲。
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江戸末期、安政元年創業(旧芳香亭、出雲大社第80代宮司千家尊福が表門の梅の香りにひかれて香梅咲と命名)の老舗料亭です。
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詳しくは公式HP等をご覧下さい。雰囲気の割には意外にお手頃価格に感じました。
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うなぎ割烹治郎兵衛。明治10年創業。うなぎ料理を始め、酒田市近郊で水揚げされる魚を使ったお刺身、焼き魚定食や天ぷらなど様々な料理を堪能できます。詳しくは公式HP等をご覧下さい。
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治郎兵衛の前にある姿見小路。治郎兵衛から行くと左手に香梅咲、右手に相馬樓。光国寺境内に通じています。
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その名称は、芸者が手鏡で姿を見たからとも、客と別れがたく姿を見たからとも伝えます。
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舞娘坂。
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舞娘茶屋・雛蔵畫廊相馬樓。北前船の船主や商人たちが利用した料亭です。
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文化5年に建てられ創業した料亭相馬屋を改装して開館。相馬樓は江戸時代より料亭相馬屋として賑わっていました。米の集積地と積出港となった酒田港は、天下の台所大坂と直結し、上方船の出入りが急増。天和3年(1683)には、川船も含め約三千隻の船が入港したと伝えられています。北前船の往来によって全国とつながった酒田は、華やかで自由闊達な湊町文化が形成されました。茶道や俳諧、生花が教養の一つとして盛んになり、茶屋文化、料亭文化と共に風流を競いました。商業活動も活発になり、鎧屋をはじめとする豪商が次々と出現、人口も増加し、賑やかさを増した酒田は煌びやかな時代の薫りに包まれました。
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現在残る木造の主屋は、明治27年の庄内大震災の大火で焼失した直後、残った土蔵を取り囲んで建てられたもので、平成8年11月に国の登録文化財建造物に指定されています。平成12年3月に修復され、1階の20畳の部屋を「茶房くつろぎ処」とし、2階の大広間は舞娘さんの踊りとお食事を楽しむ演舞場になり、かつての厨房は相馬樓酒田舞娘の稽古場となっています。
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樓内及び土蔵には雛人形や古美術品の展示のほか、竹久夢二美術館も併設されています。
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中へ。結構混んでいたので写真はほとんど撮っていません(一部撮影禁止)。是非とも現地で酒田舞娘をお楽しみください。
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詳しくは公式HPもご覧下さい。
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※下の写真はパンフレットより一部抜粋。
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再び舞娘坂。
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石畳のゆるやかな坂道は非常に趣がありますね。
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寺町通り。この先は旧寺町でたくさんの仏閣があります。
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坂上(奥)が下日枝神社、右手に相馬樓。
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今町遊処の片隅にある小さな鳥居と松。県道353号今町通り沿い、相馬樓のすぐ近くです。
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願掛稲荷神社でした。
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夜になればライトアップされるのかな。
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由緒等は調べておりません。
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最後にマンホール。城輪柵跡・白鳥、山居倉庫と千石船、トビシマカンゾウ・イヌワシ・飛島、木造六角灯台・千石船。
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