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青森県八戸市八幡字八幡丁3。国宝赤糸威鎧所蔵。南部藩ゆかりの総鎮守。
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南部一之宮櫛引八幡宮。
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たまたま櫛引八幡宮の近くにいたところ、突然の大雨にて国宝館へと逃げ込み、国宝館から出た頃には雨が弱くなっていたのでそのまま参拝いたしました。
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狛犬一対(天保6年未7月吉日、願主石橋氏、江戸石工栗屋勘兵エ)。
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正門。切石の礎石を置き、木製の礎盤と唐居敷の上に建っています。
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国指定重要文化財正門(江戸時代 四脚門 切妻造 慶安元年建立(1648年))…『四脚門は平屋のなかで最も格式の高い形式であり、「南部藩総鎮守」の宮の正門としての相応しき構造形式をとっているものである。見どころは、扉部分に当地近隣では珍しい乳金具が付いていることと、本殿と同じ「六葉」の文様が付いている。乳金具とは、その名の通り乳房の形をしており、釘隠しに使われたものである。当時の彩色など復元が待たれるものである。』
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由緒等については過去の記事等を参照下さい。
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運試し矢投げ。
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拝殿。
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桁行15年・向拝3間・入母屋造・銅板葺。昭和59年11月竣工。
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拝殿内へ。
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色々と見応えあります。
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一部だけ紹介します。
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神額。
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屏風。
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獅子頭(権現様)。
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圧巻!
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「敵國降伏」額(180×99cm)。寛政7年8月、盛岡藩十代藩主南部利敬公が奉納した額。延喜年間に天皇が自ら筆をとられた筑前國(福岡県)箱崎八幡宮の額を書写したもの。この時期は、日本各地に異国船が出没し、盛岡藩でも松前や領内沿岸部の警備を命じられています。異国船の退散を祈願したものと考えられています。
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大絵馬「牡丹雉図」。紅白の牡丹に二羽の雉を描いた大絵馬。天保15年3月八戸藩九代藩主の南部信順公が所願成就のため奉納したもの。信順公は薩摩藩主島津重豪の五男(十三男とも)として出生。天保9年に八戸藩八代藩主の南部信真の婿養子となり、天保13年に九代藩主に就任。
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平成2年3月奉納の大絵馬(白馬)の両脇にあるのは、大絵馬「楠公父子図」(写真向って左)と大絵馬「松上鷹図」(写真向って右)。
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大絵馬「楠公父子図」は、楠木正成、正行父子の桜井での別れの場面を描いた大絵馬。文久2年8月に国分氏が奉納。
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大絵馬「松上鷹図」。古来、日本では宮廷や将軍家への献上品に馬や鷹を用いました。この習俗は絵馬のなかに引き継がれ、鷹図絵馬はその勇壮な姿から男児成長・立身出世・大願成就などの祈願に描かれることもありました。奉納年代・奉納者は不明ですが、絵師は江戸幕府の御用絵師を務めた狩野永真安信です。
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拝殿から見た長所(旧拝殿)。慶安元年建立。国指定重要文化財。桁行七間・向拝一間・入母屋造・銅板葺。
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外へ。写真向って右にある木は夫婦杉。
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絵馬掛所。
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絵馬社。
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小祠ですが彫刻が素晴らしいです。
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合祀殿。
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十五柱の神々を合せ祀っています。
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大国主大神。
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大国主大神…『大黒さま、福の神ともいわれ古くから親しみの深い神である。当宮の大黒さまは、多くの人々の数多くの願いを叶えて下さる為に大変忙しく、座るひまが無く立っているとされ、立った姿で描かれる。』
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撫で大国さん。
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こちらは不明。お地蔵さん?
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重軽神。
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重軽神…『重軽神は地域信仰或は民間信仰に根ざしたものと考えられ、その名の通り重いか軽いかで吉兆を占うもの。まず願いを掛けて参拝し、その後石(重軽神)を持ち上げる。願いが叶う時は軽々と持ち上がり、逆に願いが叶わない時は力を入れても持ち上がらないと云われている。』
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蒼前神社。
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末社神明宮。国指定重要文化財。元文4年(1739)勧請。一間社流造、銅板葺。
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末社神明宮…『我が国の総氏神であり、伊勢の神宮の主祭神と同じ天照皇大神を祀る。その名の通り一間の大きさで、よく形が整っている。流造は屋根の曲線が流れる様である事を云う。本殿や旧拝殿よりも年代・手法ともに新しいが、今では櫛引八幡宮の社殿として一体のものである。見どころは屋根の流れるような曲線の美しさと、基礎部分が自然石の礎石の上に乗せてある部分である。』
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灯籠や石祠等。
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本殿横の建物。
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本殿。国指定重要文化財。慶安元年(1648年)建立。三間社流造、銅板葺。
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南部一之宮に相応しく、当時の規矩にかなった正規の構造手法が認められるものであり、その構えは壮大でかつ優美であり、屋根の流れの曲線の美しさは特筆に値します。江戸時代前期のものですが、桃山時代の遺風が察しられる名建築。
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鷹にメドツ&カッパ伝説。
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「鷹にメドツ」については過去の記事を参照ください。
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御室。
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御室…『櫛引八幡宮七不思議の一つと伝えるものがこの「御室」である。足下の横板に切られた「栗の形」に似たもので、当宮末社の悶破稲荷神社の稲荷大神の使いの白狐が祀られていると伝わる。かつて八戸の街中が焼け落ちた八戸大火の際、白狐が夜半にこの御室より出て本殿の周りを駆け廻り、その災いを伝えたとされる。』
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こちらはYahoo!ブログがまだあった頃、私の記事によくコメントを下さっていた葛西祥男氏が自ら造って奉納したものですね。
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悶破稲荷神社…『御祭神倉稲霊神。神名の稲荷は、いなりの音「生成り」から来るとも云われ、御神徳は稲のみならず、全ての植物はては万物の成長・商売繁盛・社業繁栄・発展である。また、この悶破稲荷大神の特別な御神徳として、その神社名の通り心の悶々とした苦しみや悩み、迷いを打ち破り、払って下さると云わる。その他一般には「倍返し」の御神徳がある、との民間信仰があり、例えば百円のお賽銭を入れて拝めば二百円の御利益がある、等のもの。よって商店や会社・企業関係の崇敬者が多い。また、会社独自で敷地内に稲荷神社を祀る所も多い。例祭日は毎年4月10日午後3時より盛大に行われ、一般の方も参列(参加)する事ができる。』
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松福稲荷神社…『御祭神倉稲霊神。京都の伏見稲荷大社より御分霊を勧請し、もとは松下ライフエレクトロニクス株式会社(旧ナショナル社)に祀られていたが、平成17年に会社が仙台に統合される為に、当宮に遷された。神社名も、それまでの「八戸ナショナル店会神社」から、福を授ける縁起の良い神社として改称した。毎年6月の第2週目の土曜日に例大祭が盛大に執り行われ、商業工業漁業などを営む方々や多くの崇敬者の参列がある。』
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悶破稲荷神社と松福稲荷神社の鳥居。
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末社春日社。国指定重要文化財。元文4年勧請。一間社春日造、銅板葺。
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末社春日社…『御祭神天津児屋根神。御神徳として、占いや、音楽・歌曲に霊験あらたかといわれ、他に言葉・言霊の神、祈祷・祭祀の神ともいわれる。社殿はその名の通り一間の大きさで、よく形が整っている。奈良の春日大社と同じ様式であり、小規模ながらも正規の一間の春日造の形式をとっている。拝殿に向って右側の「末社神明宮」と同じく、本殿や旧拝殿よりも年代も手法も新しいが、今では一体のものである。屋根の流れるような曲線部分と基礎部分が自然の礎石の上に乗せてある部分も見どころである。』
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境内案内・参拝順路図。
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櫛引八幡宮縁起…『櫛引八幡宮は南部家初代光行公の草創と伝えられる。平泉合戦に戦功をたてた光行公は、源頼朝から糠部郡(ぬかのぶのこおり)を拝領し、建久2年(1191年)に入部したという。その後、家臣津島平次郎と天台の沙門宥鑁に命じ、父信濃守遠光公 (加賀美次郎) が甲斐国南部の郷に仁安元年(1166年)に祭っていた八幡大明神をこの地に勧請し、平次郎の所領六戸の瀧ノ沢村に仮宮を営ませ、更に霊地を求めさせた。神託によって、四戸の櫛引村に延暦・大同の頃(800年頃)に坂上田村麻呂が祭った八幡宮の小社があることがわかり、同神同体なので、ここを社地に定めて、貞応元年(1222年)社殿を造営し、遷宮鎮座した。これより櫛引八幡宮、また四戸八幡宮とも称し、南部領総鎮守として尊崇されることになった。』
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