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八戸市新井田寺ノ上。曹洞宗貴福山対泉院。御本尊釈迦如来。八戸御城下三十三番十七番札所(千手観音)。
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※対泉院の西側に後庵という住所があります。ここが館跡「新井田古館」の一角で、御庵(五庵、御庵、後庵の文字をあてて)といわれるのはそこに八幡様の祠があり、八幡様を祀った御椀を埋めたと伝えます。また、対泉院や大慈寺が草庵から始まったことに由来するとの説があります(※御庵は対泉院の隠居のいたところともいわれていました。)。大正の中頃まで大きな公孫樹(根元直径一丈位)があり、御庵の公孫樹と呼ばれていました。この銀杏は根城にある公孫樹の株分けで、兄弟木と呼ばれ、新井田川をはさんで田向の毘沙門の公孫樹と対していたともいわれます。松前のアイヌ人の先祖がかつて住んでいた場所に植えた公孫樹ともいわれています。大正の中頃に掛端家が所有していたこの公孫樹を、久慈の人が買って伐採したところ、掛端家では眼病を患うものや諸病に罹るものが出たといいます。
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参道に色々ありました。
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延命地蔵菩薩(享保21丙辰天正月廿二發旦日・貴福山對泉禪院七世南山隆泉代)。
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台座碑文。
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如意輪観世音菩薩(享保21丙辰天正月廿二發旦日・貴福山對泉禪院七世南山隆泉代)。
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台座碑文。
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南無阿彌陀仏を刻む供養塔。
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庚申塔(文化9年8月)。
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橋を渡ると山門。
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山門。
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山門は禅宗様式の三間一戸の二階建楼門形式で屋根は入母屋造。寄進者の名を記した板などにより文化8年に造営されたことがわかっています(十世霊胤玄明代に工事に取り掛かり、十二世聖山英賢の時に完成)。市内で最も古い楼門形式の山門であり、市指定文化財に指定されています。
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二階部分には文化8年に安置された祈祷札をもつ十六羅漢が納められているそうです。
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仁王像には文化8年に寄進したことを記した板が付いています。
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15.5
対泉院山門(市指定文化財建造物・昭和48年1月24日指定)…『貴福山対泉院は、根城南部氏の一族新田氏の菩提寺で、根城南部氏の遠野移封に伴って廃寺となり、その後盛岡の南部利直が再興したといわれています。山門の建立時期については明確ではありませんが、文化8年(1811)には完成していたと考えられています。構造は三間一戸の楼門で、屋根は入母屋造、市内に残る三棟の楼門の中では最も古く、最大規模のものです。桟唐戸や円柱下の礎盤、両側面前間の花頭窓など禅宗寺院らしく禅宗様の手法がところどころに見られます。平成4年3月八戸市教育委員会』
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記念歌碑(昭和58年11月3日)。「天明飢饉餓死萬霊永代供養の為金壹封を奉納す 奉納者南部信克殿」※以下達筆過ぎるため碑文(記念歌)省略
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山門向って右側に餓死萬霊等供養塔。天明4年12月11日建立。天明3年の大凶作の惨状を記した石碑。以前は参道入口付近にありましたが、道路改修のために現在地に移動。その際の工事で碑が破損したため、鉄枠をはめています。裏面には天明3年4月から8~9月までの異常な天候、それによる作柄、人々の食生活、疫病の流行による餓死者の数、社会不安の状況などが記されています。台座からの高さは330cm、正面幅35.5cm、奥行16.5cm。裏面碑文…『粤安永七戊戌年頃自然耕作不宜而天明三癸卯歳大飢饉旨赴者四月十一日朝卯時雷強鳴東北風吹従大雨降以来八月晦日暮迄雨天続九月朔日漸晴天也夏中綿入重服致程寒夫故田畑一円無実青立依而諸人毎日鳥屋部嶽江登蕨根掘海艸山艸不申及稲柄稗柄切粉而食物剰人■■■■■■■■且翌辰年春中御領内一統無高下大疫病時行貧福共押靡而病死餓夥敷死人如山殊御町在々毎夜出火或押込強盗理不尽事共夥敷言語道断也御領内総人数六万五千人余内三万人余死也新井田・十日市・田迎・塩入・岩淵人数男女千四百拾八人内六百九十六人死家二百七十二軒内百三十六軒潰也前代未聞事也後来米穀等相囲可申者也記 相場附 秋田米一貫文四升三合 地古米同三升三合 粟同六升大麦同七升 小麦同六升蕎麦七升 小豆同四升五合 稗八升 大豆同六升五合昆布粉百文 小糠一升五十文塩一升四十文 蕨打糟一升百五十文 大根一本二十四文 酒一升五百五十文 味噌一盃四十五文 造立施主 九世虎山代 松橋又右衛門 中村庄三郎 新井田・田迎・岩淵・塩入十日市・乙名中 松橋孫助備端 同孫四郎準甫』※ちょっと難しいので以下に読み下し文を…『粤(ここに)安永七戊戌年頃(より)自然耕作不宜而(よろしからずて)、天明三癸卯歳大飢饉、旨赴(趣旨)者(は)四月十一日朝卯時雷強(く)鳴(り)、東北風吹(くに)従(い)大雨降、以来八月晦日暮迄雨天続(き)、九月朔日漸(く)晴天也、夏中綿入重(ね)服致(す)程寒(く)夫(それ)故田畑一円無実(みいりなく)青立、依而(よって)諸人毎日鳥屋部嶽江(へ)登(り)、蕨根掘(り)、海艸(草)山艸(草)(は)不申及(もうすにおよばず)、稲柄稗柄切(り)粉而(にして)食物(す)、剰(あまつさえ)人■■■■■■■■、且翌辰年春中御領内一統無高下(こうげなく)大疫病時行(流行)貧福共押靡而(おしなびて)病死餓(餓死)夥敷、死人如山(やまのごとし)、殊(ことに)御町在々毎夜出火、或(いは)押込強盗理不尽(なる)事共夥敷、言語道断也、御領内総人数六万五千人余内三万人余死也、新井田・十日市・田迎(向)・塩入・岩淵(の)人数男女千四百拾八人内六百九十六人死(に)、家二百七十二軒内百三十六軒潰(れ)也、前代未聞事也、後来(こうらい)米穀等相(あい)囲(い)可申(もうすべく)者也、記 相場附 秋田米一貫文(に付)四升三合 地古米同三升三合 粟同六升大麦同七升 小麦同六升蕎麦七升 小豆同四升五合 稗八升 大豆同六升五合昆布粉百文 小糠一升五十文塩一升四十文 蕨打糟(かす)一升百五十文 大根一本二十四文 酒一升五百五十文 味噌一盃(はい)四十五文 造立施主 九世虎山代 松橋又右衛門 中村庄三郎 新井田・田迎(向)・岩淵・塩入十日市・乙名(おとな)中 松橋孫助備端 同孫四郎準甫』
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県史跡餓死萬霊等供養塔(昭和63年1月16日指定)…『この塔は、天明3年(1783)の大凶作と4年春の疫病大流行による餓死者、病死者を供養するために新井田村の有志達が願主となって建立したものです。裏側には、天候異変の状況や田畑の作柄、庶民の食生活、餓死、病死者数、町での放火押込強盗による社会不安の状況や八戸領内の餓死病死者数、新井田村の状況、米穀の相場などを克明に刻んでおり、最後に後世のために米穀を囲い置くことを諭しています。平成4年3月八戸市教育委員会』
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三浦哲郎「おろおろ草紙」ゆかりの地…『この作品は、足軽の次三男で結成された鉄砲十六文隊の最年少の隊士である立花小十郎の目を通して、天明3、4年の大飢饉の惨状を描いたものである。哲郎は、「自作への旅」の中で、「この作品を書いている間、何度もおそろしさでペンを持つ手がかじかんだ。一歩も先へ進めなくなったこともある。そんなとき、帰郷して、新井田の対泉院の門前にある飢饉の餓死者の供養塔を訪ね、願わくは我に勇気を与えよと、合掌してひたすら祈ったことを忘れない」と述べている。』
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三界萬霊等(天保15年、徳山傳光居士)。
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山門向って左側に戒壇石(不許葷酒入山門・天明4年12月11日※裏面にある天明5年3月の文字が建立年)。餓死萬霊等供養塔と共に、江戸時代の飢饉(天明の飢饉)の惨状を記す貴重な石碑として県史跡に指定されています。高さ206cm。裏には対泉院寺領内の惨状を伝え、後世の人々に穀物を蓄えておくように教訓が記されています。なお、天明の飢饉により領内総人口の約半分に当たる3万人余が餓死したといいます。
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碑文…正面『不許葷酒入山門 天明四甲辰年十二月十一日』、裏面『天明三癸夘年大凶年當寺拝知百石百性家数四拾七軒之所二拾九軒死明殘家十八軒也雖然家一軒男一人或女二人位助命也総合而男女三百八人之所二百三十二人餓死病死殘而男女七十六人助命也前代未聞也後来人雑穀無油断可囲也 天明五乙巳年三月 造立施主松橋孫助備端 同孫四良準甫 石工信州飯嶋増右衛門 當寺九世虎山叟代』
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23.5
県史跡戒壇石(昭和63年1月16日指定)…『戒壇石の表は他でも見かけられるものですが、裏側には、天明3年(1783)の対泉院領の惨状が刻まれており、「餓死萬霊等供養塔」と同時に建立が企てられたものと思われます。この年の対泉院領では百姓の家が47軒から18軒に減り、男女308人の村人の内76人だけが助かったことが刻まれ、最後に後世のために米穀を囲い置くことを諭しています。平成4年3月八戸市教育委員会』
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根城南部氏の一族であった新田氏の菩提寺。
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正平年間に甲斐国倉見山(山梨県見延町)に建立された小庵が始まりと伝えます。明徳4年に根城南部氏とともに新田氏が八戸に下向したのに従って小庵も移転。当初は新田城(現新井田小付近)の一郭にあったとされます。その後、天文2年に寺沢の地に開山され、慶長9年に現在地に修築移転。
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寛永4年に根城南部氏が遠野へ国替えとなったのに従い共に移転(遠野市においても存続)したため、一時廃寺になるも、同年に新井田に残された寺跡を、盛岡藩初代藩主の南部利直が寺領50石を寄付して再興。遠野大慈寺七世用室(泰存)存心が開山(現在は遠野大慈寺の末寺)。その後、当寺三世林南儀道が中興開山。
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寺領は順次加増されて、寛文4年の八戸藩成立時に一時150石となりました(八戸城の御殿の普請が竣工した承応元年から4年の間、重直は八戸での鷹狩のたびに当寺に立ち寄り、三世林安儀道を厚遇するようになり、50石であったものが、承応3年20石、明暦2年30石、万治3年20石、寛文4年30石と加増。万治3年の時は中山(岩手県一戸町)以北の奥郡の曹洞宗寺院を管理する僧録に任命されたことによるもの。)。拝知は、松山・重地・石動ですが、これに門前・後庵も加えて寺分と呼ばれています。
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藩政時代は領内十ヵ寺の一つに数えられ、藩命によりしばしば雨乞いなどの祈祷を行いました。天明3年の飢饉では、当寺住職が鍛治町の救小屋に窮乏した人々を収容し粥を与えています。
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明治43年に付近の家からの類焼により本堂及び経蔵を焼失。
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30.5
昭和25年にようやく再建。照山頼石の献身的で経済的に支えた功労により、先代からの本堂新築の大工事を果たしました。なお、火元となった家の少年(中村松太郎)は母親の嘆きを見て、宮大工として寺を再建することを決意し、修行の末に大工の棟梁となって、41年という歳月をかけて再建に貢献しました。このことは八戸市民オペラでも取り上げられ、日本の名工百人にも選ばれています。
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裏から見た山門。
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鐘楼。
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六地蔵。
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常恒會之碑(昭和16年11月吉日・對泉廿世惠範識)※裏面碑文省略
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『昭和廿五年五月丗一日縣南戦死病没者慰霊大祭來場久邇宮朝融殿下御手植槙』
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拓魂碑(陸軍大将正二位勲一等功一級伯爵奥保鞏書)。
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慰霊碑(青森縣知事津島文治書)。
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灯籠と小祠。
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稲荷社のようです。
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狐一対。
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41.5
石が積まれております。
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本殿内。南無貴福稲荷大明神とあります。
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照山会館。
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本堂前石灯籠一対(昭和9年5月吉日建之、小中野町石工林孫太郎刻)。
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45.5
山田宗徧歌碑「陸奥に流祖のながれつたはれり祝ひぞいわふ道の栄えを」(茶道宗徧流家元 不審庵 山田宗徧建之・昭和58年7月10日)。
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茶道宗徧流家元山田宗徧御夫妻手植松。
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金剛杵。
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池。
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太古のいのち大賀ハス…『大賀一郎博士(明治16年~昭和40年)(蓮の研究で世界的植物学者)が昭和26年千葉市浪花町26東京大学検見川厚生農場内の地下四米の青泥層の中から、多くの人々の善意と無償奉仕により、延べ2500人、50日間の日数と数拾万円(当時)の費用をもって三粒の古蓮実の発掘に成功した。そしてこれが昭和27年7月19日に開花し、同年11月に米国ライフ誌の表紙となり2000年前の古代蓮として全世界に報道されたのである。名づけて大賀ハスと言う。【発掘の経緯】昭和22年前記場所から古代のカヤの丸木舟とハスの花托が浮かび出たと言う。考古学上、2~3千年前の舟と判定された。花托が有る以上ハスの実が有るに違いないそれが見つかり発芽すれば間違いなく世界最長のいのちである。大賀博士の執念の始まりである。しかし、掘るにしても老学者一人の手に負える事ではなく博士は、当時近くの(農林省)印旛沼干拓工事中の八戸市出身の穂積建設㈱穂積重二社長(明治28年~昭和29年)に頼み込み直属の近藤組(近藤泰次郎他八戸出身者25人)とふるい出しに千葉市第七中学校校長他生徒40数名の協力を得てようやく発掘作業へ取りかかる。昭和26年3月の初めである。予想を越え作業は困難を極め、千葉県からの補助金6万円と1週間の予定をとうに使い果たし、追加費用捻出のめども立たないまま途方に暮れたのである。干拓工事の現場の方も当てのない蓮の実にいつ迄も関わっていられる程、余裕があった訳ではない。その時、社長の穂積重二氏は「このせせこましい世の中に夢を掘るのもいいじゃないか」とその後の費用の援助と共に作業の続行を命じたと言われている。しかし、尚、湧水と崩壊との闘いが続く。3月30日、博士は、これ以上発掘作業の人々に迷惑をかける訳には行かないと、明31日をもって作業の打ち切りを申し出る。その日、古蓮実の一粒が(午後5時10分頃)第七中学校女子生徒西野真理子さんの篩(ふるい)の中にふるい出されたのである。正に奇跡としか言い様がなくこれに力を得て更に堀り進め、4月6日二粒が出土し合計三粒が発掘された。作業開始後35日目である。その後この古蓮実は、5月6日府中市の大賀博士の自宅に於いて播種され5月9日に発芽する。2000年前の眠りから覚めたいのちの神秘である。【八戸市への移植】この事業が当八戸市に関係ある人々によって成功を見たと言うことは、誠に感慨深いものがあり、以上の様な縁由により昭和44年4月是川清水寺へ分根されたが、湧水が冷たく枯死し、昭和45年4月再び此処対泉院貴福池に移植したのが、翌年8月開花し今日に至るまで毎年8月には古代蓮特有(一重咲き、淡紅色、二十四弁のやや細長い花弁)の美しい花を見せてくれている。平成4年8月』
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貴福池は自然を活かした庭園として知られており、池の中では毎年美しい花を咲かせる古代ハスが人々の目を楽しませてくれます。また、明治43年の火災以前は三千種にも及ぶ菊を有しており、「菊寺」とも呼ばれていたそうです。月刊東奥(昭和16年9月号)の県下庭園巡りの連載の中で葛西覧造によって紹介されていますが、その内容は「営造物に付属していない庭はいつでも物足りないものだが、この庭もその例にもれず何か侘しいものを感じさせられるが、それにしてもなんといふ天然の巌だらう。こんな巌は深山幽谷には見うけられる事はあるが、人家近くにこんなものが恵まれて居る事は全国でも珍しい事であらう。・・・その巌に是亦自然に生えた松の姿態は人工を超越した自然の風格を備え、その下蔭には千曳の巌を思はせるいはゆる千枚鮮が點々と自然の錆を湧かしている。」と誉め、「これだけのコンディションがあったら前庭とバックを少し整理すれば天下の名園になる。」という言葉で結んでいます。
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2000年以上前に地層より発掘された種子から発芽した大賀ハス。ハス研究家である大賀一郎博士が昭和26年に千葉市浪花町にある東京大学検見川厚生農場内の地下4mから、2000年前古代ハスの実わずか三粒の発掘に成功。その発掘を支援した八戸市の穂積建設株式会社の穂積重二社長の協力により、そのハスの種を対泉院の貴福池に移植することができたのは昭和45年のことです。翌年8月には古代ハスは開花し、以降毎年8月に淡紅色に染めた細長い花弁が美しい彩りを飾っています。
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本堂横の石段。
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かなりの広さです。
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本堂も大きい。
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55.5
本堂裏手に建つ北辰妙見堂には獅子頭が奉納されているそうです。
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本堂裏には立派なお墓がたくさん並んでおります。
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57.5
第一第廿五成田丸慰霊碑。
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金色に輝く観音様が見えました。
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59.5
交通安全守護觀音。
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願主は八戸自動車運転者協会で昭和38年9月28日建立、八戸地区交通安全協会が平成7年12月1日に再建。
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藤田紫水歌碑「交通の事故に果てける和ぎみ魂安かれ我等世を正すべし」(昭和42年9月28日)
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茶筅塚。
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茶筅炉。
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扇塚。
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甦扇炉。
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扇塚建立の由耒碑。碑文省略。昭和53年5月2日建立。泉流家元泉徳右衛門。
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心経塚。
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68.5
心經塚由耒碑。碑文省略。昭和53年11月20日建立。貴福山対泉院廿一世照山賴石識。
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「昭和50年開設以耒一心に写経し現在までに写経を壱千枚以上ご経塚に奉納された方は左の通りです。昭和63年11月3日…(以下省略)」
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御堂(秋山熊五郎寄進)。
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