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舘野熊野神社(六戸町)』からの続きです。
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御祭神は伊弉諾尊・伊弉册尊。社殿は出雲大社を彷彿させる切妻造り妻入りの大社造りを一部取り入れており、拝殿が間口9間に奥行6間、幣殿4間に2間半、10段の石段を経て本殿2間4方。
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本殿の中には1間4方の内御堂。内御堂の梁の裏面には昭和4年3月31日の紀年銘があり、彫刻部分に昭和4年4月吉日(彫刻師中村隆造)の紀年銘があります。
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かつて権現名を名乗っていた犬落瀬明土の熊野神社元宮は明治6年5月に廃仏毀釈にて廃社に追い込まれ、この地へ復社。つまり当熊野神社の前身は明土の熊野神社元宮であり、歴史的経緯を考えますと、勧請自体は承和11年まで遡ることができるといえます。
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神社庁によりますと…「恒例祭九月第一金、土、日。坂上田村磨蝦夷平定の勅命を奉じ陸奥の地へ下向、此の地に滞在の際延暦二十三年、住民をして一の堂宇を建立せしめ雌雄の鷹の羽にて作りし拝領の矢二本を伊弉諾伊弉册二神の御霊代として鎮祭し、熊野大明神と称え奉り崇敬の古社なりしも、明治五年神仏仕分の際手続の不備の為明治六年五月廃社となり、明治十三年復社出願し同年八月九日無格社として聞届けられ、昭和六年三月十九日村社に列せられる。昭和六年八月神饌幣帛料供進の神社に指定される。昭和二十一年宗教法人となり神社本庁に所属す。昭和二十二年法律第五十三号に依り境内が国有地であったのを昭和二十五年一月三十一日付を以て神社有地に無償譲与される。」とあります。
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それにしても立派な拝殿ですね。
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拝殿横にも社務所。前回紹介した社務所とは別です。こちらは拝殿と繋がっています。
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拝殿神額。
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拝殿内。権現様がいました。
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社殿前石灯籠一対。
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社殿前狛犬一対(昭和15年9月5日)。
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熊野神社新改築記念碑…『当熊野神社は、征夷大将軍坂上田村麿が地方鎮魂のため東征の砌、桓武天皇より賜りたる男鷹女鷹の羽根にて作りて矢を、伊邪那岐伊邪那美の両神に象り、祭神として創建されしと伝えらる。爾来地方民の氏神として崇敬され代々祭祀を怠らなかった。明治初年維新の大業を記念し、杉山克己翁の主唱のもとに大字各部落民相謀り、眺岳府川の此の地を相して、松杉を植え櫻木を配して社殿を造り、本宮より遷宮し、村の鎮守として春秋の祭を司って來た。今日明治百年を記念し戦後の愛国敬神の魂の衰退を憂ひ、また尽忠報国の至誠に燃えて散華した幾多の英霊に報えるために、其の志を継ぎ、敬神崇祖の兮と郷土愛の涵養を念願して、茲に総工費参阡伍百余万円を以って、社殿を新築し、吾等の意を後世に伝えんとす。昭和46年4月15日』
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田中和吉翁之碑。
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裏面碑文…『翁は犬落瀬部落に山林なきを憂ひ、御料地下久保の原野に赤松の育成を思ひ立ち、部落民に諮り幾多の困難を克服し、遂に二百余町歩の美林の造成に成功せり。大正八年十月拂下げ完了を記念しその徳を偲び建碑す。残照に映ゆる赤松の美は翁の労苦を語り。樹鳴の風はその功績を永久に讃えん。大正8年10月下久保山主一同』
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表参道落成記念碑(平成2年7月吉日)。
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境内にあった石。
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社殿向かって左側へ。
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幣殿・本殿覆屋。
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御大典記念碑(昭和4年4月23日)。
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御神倉。
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橘道忠公塚(橘公塚)へ。
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以下、六戸町HPより一部抜粋。
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『社殿に向かって左側の一角にブロックで囲まれた聖地がある。囲いの中は、1.5メートル四方の土まんじゅうの塚が築かれ、その上に50センチメートルほどの卵形の石が安置されている。石は苔むして、何も刻まれていないが、昔から「橘公塚」と呼んでいる。当地方に伝わる『六戸郡姉戸沼崎観世音縁起』による次のような物語が展開されている。白雉5年(654年)のころ、橘中納言道忠という公家が、世をはかなんで東北行脚の旅へ出た。そして、小川原湖の倉内付近に草庵を営み、自ら観音像を彫刻して、読経三昧の日々を送っていたという。そのころ、都には道忠公の娘、玉世・勝世という姉妹がいた。姉妹は、父恋しさに、進藤織部・駒沢左京之進という家来を従え、小川原湖へやって来た。ところが、すでに父は亡く、悲しさのあまり、玉世姫は姉沼へ、勝世姫は小川原湖へ入水し、沼の主となったという。したがって、今日の姉沼は玉世姫のことを指し、小川原湖は勝世姫で、妹沼とも呼んでいる。そして、進藤・駒沢らは、彼女たちを供養するため、この地に住みついたのである。その後、道忠公の奥方が、織笠兵部・根井正近らの家来を引き連れて小川原湖へやって来た。奥方は道忠公の草庵跡へ海向山専念寺という寺院を建立し、尼となり、現在の天ケ森(尼ケ森)に住みついた。そのため、小川原湖近辺には、この物語に登場する進藤(新堂)・駒沢・織笠・根井ら、家来たちの名が、地名として今日も残っている。ところが、その長い歴史の間には、寺へ賊が入ることもあった。ある時、住職は、難を避けようとして、道忠公が彫った観音像を背負い、近くの湖沼へ入水した。現在、その沼を仏沼と呼んでいる。その後、村人によって2体の観音像が仏沼から引き揚げられ、一体が現在、五戸の専念寺へ、もう一体は六戸の民家(杉山家)へ納められるようになったという。その石は道忠公が、都を思い出して、舘野のさつき沼の霊水を使い、石へ思いのままを書きつけたところ、その文字が都の屋敷の庭石に浮き出たという。それを見た奥方が逆に、庭石へ字を書いたところ、橘公塚の石へ文字が浮き出てきたという逸話も橘公塚伝説として残っている。今日でいうレタックスのような役割を果たした石であるが、昔の人々が小川原湖を取り巻く夢と信仰に根ざしてこのような縁起が書きあげられたのであろう。史実ではないとして捨ててしまわず、伝承も意義あるものとして大切にしなくてはならない。』
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橘公塚。
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社もありました。屋根が立派です。
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熊野神社社殿向かって右側には裏参道入口鳥居があります。
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案内板「熊野神社」より…『御祭神:伊弉諾尊・伊弉冊尊。元旦祭1月1日。祈年祭4月15日。例大祭9月5-7日。新嘗祭11月23日。年越祭12月31日。「神の恵みと祖先の恩とに感謝し、明き清きまことを以って祭紀にいそしむこと」「世のため人のために奉仕し、神のみこともちとして世をつくり固め成すこと」「大御心をいただいてむつび和らぎ、国の隆昌と世界の共存共栄とを祈ること」宮司』
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