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八戸市南郷島守門前。南郷島守地区の中心集落の西。臨済宗妙心寺派瑞雲山高松寺。御本尊釈迦如来。糠部三十三観音霊場第四番札所。
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写真は新井田川に架かる赤穂土橋(平成4年12月竣功)。かつては龍興山神社の大鳥居(コンクリート製)が建立されていたようですが、平成12年に新井田川河川災害復旧工事に伴い撤去されました。
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親柱(平成4年12月竣功)。
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新井田川。島守は新井田川中流域の盆地状沖積低地、及び同川支流古里川流域の山間に位置。集落は河川沿いや東南方階上山地に続く丘陵地上に分布。平家の落人伝説や義経伝説が伝わります。地内に残る島守館跡は、天正年間に島守安芸が居館し、九戸政実方に属して南部信直や根城南部氏に対抗していたといわれます。島守氏は本姓を四戸氏といい、四戸氏は南部光行の四男孫四郎宗朝を祖とするとされ、島守氏は天正19年九戸の乱にて滅亡。
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仁王門。
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仁王像。
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表参道石段。
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表参道脇の六地蔵。
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同じく表参道脇の六地蔵。
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石碑には「昭和41年8月坂定雄建立」とありました。
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石段上から仁王門を振り返るの図。
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こちらは裏参道。
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裏参道の門。
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子育水子慈母観世音菩薩。
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再び表参道。
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石灯籠一対。
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感謝の碑…『県南石材社長釜谷源次郎氏の石材寄進によってこの広場を築造す。その功徳に深く感謝してこの碑を建立す。昭和60年7月(西暦1985)当山十七世高田文隆代 責任総代村上寿一、伊藤博、滝沢久之進、松坂武寿、坂本勇一、外総代一同』
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宝徳元年(1449)に廣照が開山し、後に高松寺と改称。寺の始まりについては諸説あります。伝説では京を逃れた平清盛の子である平重盛が建立した重盛山小松寺が前身とされます。平安時代末期には小松殿などと称されて権勢をふるった重盛が、治承元年(1177)に秘かに都を去って島守の地に落ち延びて庵を建立、信仰していた虚空蔵菩薩を本尊として仏門に帰依したといいます。また、島守氏一族が元暦年間(1184-1185)に建立した説もあります。天正19年の九戸政実の乱において小松寺は破壊・焼失され、本尊の虚空蔵菩薩も失われました。その後、三戸南部氏の庇護の下、同氏の菩提寺であった聖寿寺第四世が開山となり、元和4年(1618)に高松寺として再興。
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本堂には福一満虚空蔵菩薩像が祀られています。貞享4年(1687)に八戸藩二代藩主南部直政により、南部家及び領内の安全祈願所い指定された時に賜ったもの。元禄5年(1692)には浅田山の山頂に建立されたお堂(現龍興山神社)に福一満虚空蔵菩薩像が移りました。明治元年(1868)に神仏分離令に伴う廃仏毀釈による破壊を免れるため、一時持ち出され、明治14年に福一満虚空蔵菩薩像は龍興山神社に返されました。翌年に福一満虚空蔵菩薩堂に遷座。現在は普段は高松寺本堂に安置されており、虚空蔵祭りの時にだけ西方に新たに建立された福一満虚空蔵菩薩堂に祀っています。また、奥州南部糠部三十三観音霊場第四番札所である島守高山観音も高松寺に安置されています。舟形光背を含め一木造りで素朴な趣のある観音様です。
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江戸期の島守村についてです。三戸郡のうち。古くは島森村と書きました。はじめ盛岡藩領、寛文5年からは八戸藩領。八戸廻に属します。元和4年の八戸内儀宛南部利直知行宛行状(遠野南部文書)によりますと、「八百五拾七石弐斗六升五合 真木之内嶋森」「七拾壱石九斗壱升 嶋森」とあり、盛岡藩領下では根城南部氏の給地。同氏の給地では河原木(現八戸市)に次ぐ高です。村高は「正保郷村帳」では島森村と見え568石余(田344石余・畑223石余)、「貞享高辻帳」568石余、「元禄10年高帳」1,418石余(田584石余・畑833石余)、「天保郷帳」1,817石余、「旧高旧領」1,263石余。久慈街道(八戸街道)が東端を南北に通っています。「雑書」承応3年6月27日条に「白雀一、八戸ノ内嶋森ニて御餌指又助…取上ル由」と見えます。新井田川からは鮎などの川魚がとれ、運上金が課せられるとともに、しばしば鮎簗改の役人が派遣されました。寛文7年の請取申川運上之事(阿部家文書/八戸市史)には「嶋森さかひより下いは禰石迄代金弐歩ニ相定」と見えます。寛文12年領内制札建場所の1つとして八戸廻のうちに当村の名があげられています。「八戸藩勘定所日記」延宝3年11月13日条によりますと、当村の百姓が肝煎の取替えを願って藩に出訴。「八戸藩日記」元禄9年11月17日条には酒屋を許可された25人のうちに当村の円兵衛が書き上げられています。同10年2月15日に当村の検地のための役人として奥寺喜右衛門はじめ7名が任命されており、検地は同年3月27日に終わっています。同書元文2年12月19日条によりますと、同月当村の百姓13人が下書と名主の税取立てに不法があるとして藩に直訴。下書は闕所追放、名主は罷免、出訴の百姓たちは軽い処罰となりました。「八戸藩勘定日記」天明2年6月17日条によりますと、総馬改の馬寄場として当村が書き上げられています。同書によりますと同4年の正月から4月にかけ、村内の田山・谷地・薬師堂・堰端・小松・上ノ山などで火災があり、家屋計31軒(うち高持9軒)が焼失。また、「八戸藩日記」によりますと、寛政9年4月19日の村内沢田における火災で民家11軒を焼失。「八戸藩用人所日記」明和9年6月17日条によりますと、名久井・剣吉・苫小地の各村とともに御前米の産地でした。同書安永5年6月21日条によりますと、当村に秣場がないので、田代村孫和山を50貫文で購入したい旨を願い出て、20貫文は村惣高から出銭し、30貫文は馬持の者から出銭することで許可を受けています。神社としては高山の山頂に新山権現堂が見えます。同所には高山の正観音と称され、糠部三十三観音の第4番札書でもある高山観音が見えます。明治5年の排仏毀釈により観音は廃されており、新山神社から高山神社に改称。また、通称虚空蔵山(浅田山)の山頂に虚空蔵堂が見えます。御本尊の福一満虚空蔵菩薩は貞享4年、藩命により京都よりもとめたもので、後に排仏毀釈に際し高松寺に保管され、虚空蔵堂地には龍興山神社が遷座。なお、明治15年、虚空蔵堂は虚空蔵山山麓に再建。寺院としては地内門前に享保18年仏恵の開山という臨済宗瑞雲山高松寺が見えます。御領内寺院来由全によりますと、草創は宝徳元年。同寺については島守氏が菩提寺として小松寺を建立し、龍興山虚空蔵菩薩を祀ったのがはじまりとする説や、平重盛が小松寺を建立して守本尊の虚空蔵菩薩を安置したことにはじまるとする説もあります。寛保4年の諸寺院寺号山号帳には、「盛岡正寿寺末寺嶋守村 嶋森山高松寺」と見えます。
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『青森の伝説』には次のように記されています。「平家の落人では、島守にエボシ畑というところがある。昔、小松内府平重盛が、都から遠くこの島守に落ちのびて来た。そのとき、水吉から市野沢へ出る坂をのぼりきったところに兜を埋めた。それでエボシ畑とよんだ。また、兜の前立てに隠して持っていた六センチほどの虚空蔵菩薩の像を、高松寺に納めたという。この寺はもと小松寺と称し、庭に重盛が手植えしたカヤの木がある。」。また、同じく『青森の伝説』には次のようも記されています。「(前略)島守の虚空蔵堂の裏手に、「重盛手植えの逆さ松」というのがあり、それにつづいて山陰に、小松屋敷という一画もある。このあたりに生えるイワレンゲも重盛が仏を信仰したのでとくに生えるのだという。(中略)島守の虚空蔵堂の裏手の山に、岩肌が露出しているところがある。これを遠望すると、ちょうど畑のうねに見えるので、村人は義経のジュネ畑とよんでいる。それは、昔、源義経が、平泉からここにのがれて来て隠れ住み、ジュネ(荏)を植えたからだ、と言い伝えている。」
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カヤの木。
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イチイ科に属する雌雄異株の針葉樹。樹囲3.2m、高さ20m、推定樹齢800年。昭和42年1月11日青森県の天然記念物に指定。
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南は屋久島、北は宮城県に到る山地に自生しますが、分布北限を越えたこの地で標準に近い生育を遂げ、東北地方まれに見る大木になっています。
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治承元年(1177)、平清盛の子重盛が高松寺の前身である小松寺を建立し、その記念樹として植えたと伝えられます。
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カヤの木(県天然記念物・昭和42年1月11日指定)…『◆樹種:イチイ科カヤ属カヤ◆樹齢:推定800年◆樹高:20m◆幹周り:3.72m。カヤ(榧)の木はイチイ科に属する雌雄異株の常緑針葉樹で、南は屋久島から、北は宮城県に至る山地に自生しています。成長はきわめて遅く、幅広い円錐形の樹形を形成する特徴があります。実は食用のほか、採油などに利用されます。この雌のカヤの木は旺盛な樹勢を誇り、分布北限を越えたこの地で大きく成長し、東北地方ではまれに見る大木となって高松寺の象徴として親しまれています。高松寺は京を逃れた平清盛の子、小松内大臣平重盛が治承元年(1177)、島守の地に「重盛山小松寺」として草庵を結び、信仰していた虚空蔵菩薩を本尊としたことが始まりとされています。また、その時に自ら植えたのが、このカヤの木であると伝えられています。平成29年3月八戸市教育委員会』
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十王堂。
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十王堂内。
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高松寺新築記念碑…『創立月日:宝徳元年 西暦1449年 起工月日:昭和36年8月15日 俊工月日:昭和40年8月21日 総工事費:壱阡七拾九萬七阡円』※寄付者芳名省略
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