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秋田県湯沢市小野小町。
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史跡小町塚。小野小町生誕の地と伝えられる里の人々が、小町が愛した芍薬をこの場所に植え、いにしえの小町を偲んでいたことから芍薬塚と呼ばれていましたが、小町を奉る小町堂が建立された頃から小町塚と呼ばれるようになりました。
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小町堂前にある小野小町歌碑…『花の色はうつりにけりないたつらに我身世にふるながめせしまに』
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小町堂は小野小町生誕伝説にちなみ、小町を祀るために建立されたものです。
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明治時代には芍薬塚として小町神社が鎮座していましたが、明治40年頃には御神体である木彫りの小町像が神社統合のために熊野神社へ移され、その後、昭和28年7月に旧小野村の青年婦人有志によって建立された旧小町堂に戻り、再びこここで祀られることとなりました。
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扁額(東大長老公照)。
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平等院鳳凰堂を模して移築(約30m)・再建された現在の朱塗の小町堂は平成7年に完成したもので、御神体は再建のために前年には熊野神社に一時的に安置され、完成後に再び戻されています。
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御神体の小町像は十二単衣と思われる装束で、顔は正面を見てやや伏し目がち、左手を腰、右手を胸の辺りに当てています。顔料ははげ落ちており、左肩から腰の辺りまでひび割れが入っております。座像の製作者や年代については解明されておりませんが、神社縁起からの推定では江戸初期頃の製作と推定されるそうです。
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また、御神体の小町像を納める厨子は院内地区から運ばれたケヤキの大木(直径約1.5m)の空洞を活かして作られているそうです。年に1度の小町まつりの際に御開帳されるそうです。
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旧雄勝町の小町まつりは、古くから芍薬塚(小町塚)で行われており、その舞台となるのが小町堂で、現在も6月の第2日曜とその前日に催されており、その年に市内から選ばれた市女笠の小町娘7人による和歌の奉納が行われます。
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小野小町生誕の地(小野小町遺跡)案内板より…『「花の色は、うつりにけりな いたづらに わが身世にふる ながめせしまに」(小野小町)。小野小町は大同4年、出羽国福富の荘(湯沢市小野字桐の木田)で生まれました。幼い頃から美しく13歳の頃、京にのぼりその後20年程宮中に仕えました。その容姿の美しさや才能の優れていることなど、数多くの女官中ならぶ者がいないと言われ、時の帝から寵愛を受けました。しかし小町は36歳にして、故郷恋しさのあまり生地小野の里に帰り、庵をつくり歌に明け歌に暮らしておりました。京から小野の姿がなくなったので、小町に思いを寄せていた深草少将は急ぎ東下りをし、長鮮寺に仮の住いを求めました。そして百夜通いの逸話を残し99日目の夜、降り続いた雨の中森子川にかかった橋とともに流されて亡くなってしまうのです。これを聞いた小町は嘆き悲しみ少将の遺骸を森子山(二ツ森)に葬りました。その後小町は、岩屋堂に住み世を避け香をたきながら一人自像をきざみ、92歳で生涯を閉じました。「小町まつり」は、毎年芍薬の花香る、6月第2日曜日に、七小町による和歌朗詠、稚児行列などが、盛大に行われます。湯沢市』
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小町堂前の池。
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イチョウ。
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『小野小町は、大同4年(809)出羽国福富の荘桐の木田(秋田県の雄勝町小野字桐木田)で生まれた。大変美しく、幼少より歌や踊り、琴、書道に通じ13歳頃、都にのぼり、都の風習や教養を身につけた。その後、宮中に任へ、容姿の美しさや才能の優れていることなど、多くの女官中並ぶ者がないといわれ、時の帝からも寵愛を受けた。後に、宮中の生活に嫌気がさし、36歳頃故郷である小野の地に戻るが、深草少将は小町を追い身分を捨て、郡司代職として小野へ向かい、小町に想いを伝える。小町の返事は、百夜続けて自分の元に通い、亡き母の好きだった芍薬を植えてほしいという。小町が少将を避けたのは疱瘡を患い百日経つ頃には回復すると思っていた。少将は百夜目に橋と共に森子川に流されて亡くなってしまう。小町は少将が仮の宿としていた長鮮寺に住んで92歳まで少将を弔って暮らした(「百夜通い」)。』・『小町は大同4年に出羽郡司小野良実の娘として、良実の家居である福富の荘で生まれました。その土地は当時この土地では珍しい桐の木が生えていたので桐ノ木田と呼ばれていました。生母は地主の娘ともいわれていますが、菅江真澄が書いた日誌「小野のふるさと」では鹿とされています。そして小町が生んだ後体調をくずし早くして亡くなりました。そのお墓が「姥子石」と呼ばれています。13歳にして京都の宮中に上がり時の帝に仕えましが、その後36歳になり再び小野郷(雄勝町)へ帰って来ました。「小野のふるさと」では9歳で宮中に上がったとあります。深草少将は小町を思うあまり、願い出て出羽郡代職に着き長鮮沢にある長鮮寺に居を構えます。ここで小町と深草少将の恋文のやり取りが行われ、現在でも隣の集落は御返事という名称が付いています。その頃小町は疱瘡を患っており、少将とは直接会うことが出来ず、小町は毎日芍薬を1本づつ植え、100本になったら直接会う約束をしました。その間、小町は毎日磯前神社にお参りし、境内から湧き出る泉で顔を洗っていたといわれています。しかし、99本植えた後、暴風雨となり少将が橋を通った時川が氾濫し、橋ごと少将が流されて亡くなりました。小町は少将の亡骸を二つ森に埋葬し、晩年は岩屋堂に篭もり自像を彫ったと云われています。』
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向拝。
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裏側に行ってみます。
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裏にも門がありました。
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菅江真澄耒訪弐百周年記念標柱…『天明5年(1785)4月14日菅江真澄小野のふるさとを訪れる』
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門の外へ。
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シダレヤナギ。
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菅江真澄…『江戸中期の民俗学者、紀行家、本名、白井秀雄、三河の人、1784(天明4年)31才出羽へ入国、東北各地を巡遊すること40年、当時の民間記録を含め、貴重な資料が蒐集されている。その中の「雪の出羽路」小野のふるさとには、当時の小野村に伝わる小野の小町の郷土伝承が刻明に描かれている。1829(文政12年)7月、76才、角館にて死去する。平成2年6月小野小町遺跡保存会』
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石塔が並んでいました。
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古そうですがじっくりと見なかったので何かはわかりません。
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じっくりと見たかったのですが…
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猫少尉に追いかけられたため断念しました。
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ってことで、小町堂の近くにある道の駅「おがち小町の郷」(湯沢市小野橋本)へ行くことにします。なお、近くには小町の郷公園や小町芍薬苑などもあります。
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道の駅「おがち小町の郷」は以前にも紹介しております。
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以前の記事『道の駅おがち 小町の郷
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レストラン二ツ森へ。東鳥海山(777m)を一望できるレストラン。地元の新鮮な食材を使用した自慢の料理や、趣向をこらしたメニューを豊富に揃え、丁寧に手もみした地産の山菜ぜんまいを卵とじにした特製「手もみぜんまい丼」が一押しメニュー。とか言いながら…比内地鶏白湯ラーメン。
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屋台へ。
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三梨牛牛串焼きにも魅かれましたが…
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焼き味噌たんぽ!
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ドルチェはこまちカフェボスコにてブレンド珈琲とソフトクリーム。
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