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平川市有形文化財の広船金森山の石敢當。広船金森山中腹にあります。
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ある資料では「広船部落南西の金森山の麓」、また、「金森山と、金森山の麓の金峰結社という法華寺の中腹」等とあり、探すのに大変苦労しました。
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別当金森山勧請寺(廣住院・金森山弘舩寺)の跡地と推測される場所から更に少し登ります。
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特に案内板等はないので見つけるのに苦労するかも知れません。ちなみに広船福田の石敢當は標柱があります。
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なぜここに移されたのかはわかりませんが、いずれにしましても本来の石敢當としての機能を失うような場所です。歴史ある場所であり、また、広船部落を広く見渡せる場所としてここに置かれたのかも知れませんね。また、金峰結社の鐘楼に願主外川小右エ門庸祥があることから金峰結社に関連してここに移されたのかも知れません。
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見えてきました。
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広船金森山の石敢當。広船村外川家8代目外川庸孝建立。広船町会所有。高さは約高80㎝ほどで、正三角形三面の長方形(三角柱、一辺約35㎝)。
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石敢當は近畿以北では珍しいもので、かつては秋田県の鷹ノ巣の石敢當が北限とされていましたが、恐らく広船にある2基の石敢當もしくは弘前市の石敢當2基(1基は現在黒石市温湯の薬師寺門前に安置。大正初期に新寺町の慈雲院から移したものとされています。もう1基は弘前市立博物館前に安置)が北限。
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広船の石敢當には紀年銘がないものの建立者名「外川庸孝」があります(下部やや埋没)。外川庸孝は広船の豪農外川家8代目を継いだ人で、天保元年生まれであり、幕末か明治初年に建立したものと推測されるそうです(石敢當は紀年銘のあるものが少なく建立年が推測できるものは珍しいといいます)。なお、広船部落の外川家は俗に「千人かまど」といわれた豪農であり、青森県人名大事典に収載されている外川家の系譜によりますと、「初代小右衛門庸則が南部遠野より津軽に移住信義に仕え、小知行組となる。後、無調法のことありて在所広船に移り三町八反歩の耕作を始めた」とあります。その後、二代小右衛門、三代小右衛門、四代小右衛門(宝暦7年村五人組頭)、五代小右衛門庸徳(天明4年代庄屋・文化11年代々郷士)、六代小七郎庸祥(天保5年御目見郷士、帯刀御免)…七代、八代となります。
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横にも石塔がありましたが読み取れませんでした。
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