青森県平川市広船山下。旧広船村西部。広船観音堂の西方。入口には「金森山・南無妙法蓮華経」と刻まれた石碑(昭和38年2月19日・外川繁太郎、小笠原政次建立)がありました。目印はこの石碑になります。詳細な場所についてはネット等でも一切紹介されておらずちょっと大変でした。地元の方に尋ねる場合は「金森山」の場所を聞いた方が早いでしょう。なお、金森山についてですが、広船神社縁起に『(前略)昔田村磨将軍夷征伐の折矢捨の麓なる金森と云う処にて剣、鉾、土器の類鍛冶鋳造の旨にて今に古器物類該地より掘りあがり其の所以ヵ字金森と称ふ…』とあり、実際に金森山西麓斜面から鍛冶遺構に付随する遺物が出土していることから、製鉄に関する地名であると思われます。
登っていきます。
周囲の風景。
上から見下ろした階段。
広船神社境内にある廣船村縁起によりますと『(前略)慶長十五年津軽信牧弘舩寺址ニ金森山勧請寺ヲ再興ス棟札今ニ有リ世々廣住院ヲシテ別當タラシム今ノ廣船神社ノ前身トス(後略)』とあり、また広船神社の鰐口の由来として『(前略)「正長二年七月十四日大旦那敬糠部内金森山祠鋳大工平四郎」と刻銘されている。この銘を裏付ける文献は見当らないが正長二年(今から546年前)の作で金森山祠のものである(中略)金森山は廣舩西部にありここに昔弘舩寺があったことは傳承されている。(後略)』とあります。つまり別当金森山勧請寺(廣住院・金森山弘舩寺)の跡地かと推測。そもそも私はこの廣船村縁起の石碑を読んだことがきっかけとなり、この場所を探し始めました。
ちなみに私の地図には「金峰神社」と記されていました。

その他資料では金森山麓の「金峰結社という法華寺」(日蓮宗の結社、開山遠藤日学、二世遠藤妙宣。)ともあります。ただ、資料の写真にある金峰結社とされる建物がどれのことかわかりませんでした。しかし私が下調べしていた内容では、ブロック段を登りつめた部分は平地で、左手に鐘楼があり、嘉永2年鋳工の鐘に「奥州津軽平賀庄廣船邑千手観音堂逆聞往古宮古爰大同二年坂上田村麿公所建而悪魔降伏国家鎮護導場也因茲世上普偈佛皈依法器漸備雖然曽闕於洪鐘弔憂之年久欲為寄附是年終發大願以一已微力器作懸堂前朝暮鳴之欲満二世所願乃至覚衆人無明之垂夢観音声良有以皆得解脱豈 空乎 銘日 声々百慈高通蒼大響之杖若遠徹黄泉功業無記徳幾万年世々欲度衆生無邊佛願 農運長久子孫繁栄七難則滅福壽増長 維持嘉永二己酉 星宿仲春吉祥日本願主外川小右エ門庸祥敬白 別当金森山勧請寺十六世廣住院大越家法印永周 鑄工櫻庭彌太郎清水」と彫られており、境内には昭和38年5月19日建立の「金峰山七面大明神」碑、明治12年8月吉日建立の「南無阿弥陀仏」碑、外川庸孝(外川家八代目弥吉)建立の石敢當があるとし、本堂は南面して建立され、広船部落が一望のもとに見わたせるとありました。つまりここが金峰結社という法華寺跡地かと思われます。


池の跡のように見える部分もありました。たぶん違うと思いますが。

石碑を見ていきます。まず一番立派な造りの石碑。
『金峰山初代掌妙院日學上人』昭和24年9月19日遷化かな。
裏面には『昭和三十七年五月入山十週年記念信者一同建立』とあります。
こちらは『南無阿弥陀佛』しか読み取れず。
紀年銘もありますが微妙に見えず。明治というのはわかります。上部には庚申塔にあるような太陽等の模様があります。
こちらは梵字の下に『金山良仙居士』とあります。紀年銘は明治33年11月7日。やはり神社というよりも完全に寺跡ですね。上記と石敢當及び石碑の一部の内容も一致します。
他にも石碑っぽい石がいくつもあるのですが読み取れませんでした。ちなみに石敢當については別記事にしております。『石敢當(広船金森山)』





眺望。
広船神社の屋根だけが見えます。
広船神社の真西に位置していることがわかります。



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