
津軽三十三観音霊場第28番札所(札所本尊:千手観音像。御詠歌:世の人を洩らさで乗する広船の誓いは深し法の山川)。広船村氏神。御祭神は須佐之男命。新撰国誌には八坂神社とありますが、明治初年の神仏仕分の時に八坂神社として認可され、その後広船神社と改称し、明治11年に認可されています。

社号標「廣船神社」(平成4年7月13日)。

大同2年坂上田村麻呂が千手観音を勧請し創建と伝えます。古くから神仏混合し、広船観音堂や弘船寺などと呼ばれていました。一時荒廃するも正長元年再興。正長2年制作の鰐口(正長2年旧7月14日製作。祭主糠部大旦那。青森県宝)や五輪塔が残されています。境内は中世の城である広船城に隣接しており、城主との関係が深かったと推測され、慶長15年には城主の後裔と思われる別浦太郎左衛門信正が社殿を再建。

寛延年間に津軽三十三観音霊場28番札所に選定。明治の神仏分離令により仏式が廃され、御本尊の千手観音像は村頭の仏壇に移されて、明治3年社号を八坂神社に改称、同明治8年に広船神社に改称。廃仏毀釈の気運が静まり、再び千手観音像は広船神社の本殿に安置され、昭和15年に観音堂が建立されて移されています。

旧8月14日に広船神社に奉納される広船獅子(熊)踊(14種の演目)は宝暦7年、現在の岩手県遠野市から外川家が広船に移り住んできた際に伝えられ、現在でも古式を伝える貴重な民俗行事として昭和56年に青森県指定無形民俗文化財に指定されています。広船神社は社宝が多く、棟札、鰐口、五大力菩薩、薬師如来立像、梵鐘は特に貴重なものとして平成18年に平川市指定文化財に指定されています。
以前の記事『広船観音堂(広船神社)& 広船城跡(平川市)』
県重寶指定鰐口之碑…『当廣船神社に古い鰐口が保存されている。この鰐口は直径九寸五分厚さ二寸四分五厘で洞を鋳し左文字で「正長二年七月十四日大旦那敬糠部内金森山祠鋳大工平四郎」と刻銘されている。この銘を裏付ける文献は見当らないが正長二年(今から546年前)の作で金森山祠のものである鰐口は佛前に懸けられ布縄で鳴らされるもので現在の鈴と同じ鳴具の一種である。金森山は廣舩西部にありここに昔弘舩寺があったことは傳承されている。鰐口は昭和31年に青森県重寶に指定されたが文献の乏しい当地における室町時代初めの金石文字の存在は極めて貴重である。このことを永く後世に傳えるため当歳42、33厄年の有志相語らいこの碑を建立した。』

鰐口が彫られています。

裏面「除厄記念」(昭和51年7月13日・撰文齊藤譲(岩館)、書者佐々木如松(森山)、石工大湯清作(石川))。

千年杉と夫婦神木。

『明治21年5月戸数58戸と神社及び境内の古木が焼失した。特に千年杉と大銀杏は今なお惜しまれる。その千年杉は6日間燃え続け、これを見かねた村人3人が木に登り、水を吊し上げて消火に当り消し止めたと当時の日記に記されている。その焼け残り株伐採により、村人の惜しむ心が一層つのり伐根(直径3.5m)の中央に杉を新植した。第二鳥居の傍らの伐根がそれである。この伐根は、その大火で焼失した古木の根(現存)の傍らに2本寄り添って自生した夫婦杉とも称されていたものである。平成3年9月28日の超大型台風19号の被害で境内は惨たんたる光景でしたが崇拝する地域住民の総力により社殿、境内ともに復興した。この夫婦杉他被害を免れた樹々は、今後の危険防止のために村民に惜しまれながらも平成4年、樹齢百数年にして伐採を余儀なくされた。明治21年の大火焼失の根元に2世の夫婦杉が自生し、今この伐根の傍らに3世が自生している。大自然の摂理に感動してここに掲示して長く保存する。平成6年9月吉日広船神社修復委員会』

末社。
末社付近の石灯籠。
石灯籠紀年銘は大正10年旧7月13日。
滝。
社務所と御神木。
手水舎。
名水「観音清水」を引き込んだもので昭和61年に青森県認定「私たちの名水」に選定されています。

歌碑「廣舩の西におろかむ岩木山いまはお堀の亀甲の宅 石山ふみ謹みて」。松堂88才時の筆。石山ふみさんは広船神社社司の奥様で、昭和40年頃広船を離村して弘前に移住する際、記念に建立したもの。
農魂「開畑パイロット・農業構造改善記念」碑。

廣船村縁起…『津軽平野ノ南盡沃地舸船形ニ邸陵ニ湾入スル所廣舩村アリ古来鹿角道路ノ要地ニシテ歴世諸豪ノ蟠踞スル所宇麻ノ坊廣舩舘熊屋敷古舘等ノ遺蹟指顧ノ間ニ数フ可ク土石器五輪塔石棺等ノ遺物昭々乎トシテ観ル可シ應永三十三年七月九日村民一寺ヲ建立シテ千手観音ヲ安置ス惠心僧都ノ作ト云フ後正長二年七月糠部ノ大旦那左文字ノ鰐口ヲ寄進今ニ存ス天文五年津軽郷村西ニ弘舩寺アリ蓋シ本村ノ異名ナリ戦國末阿部兵庫廣松舘ニ據リシカ後別浦太郎左衛門目屋櫻庭村ヨリ移リ来リ後弟信光ヲシテ沖舘城ヲモ監理セシメテ去ル何レモ藩祖為信ノ麾下タリ弘船寺ハ後弘前最勝院門下ニ遷リ明治初年廃サル慶長十五年津軽信牧弘舩寺址ニ金森山勧請寺ヲ再興ス棟札今ニ有リ世々廣住院ヲシテ別當タラシム今ノ廣船神社ノ前身トス津軽三十三観音第二十八番ノ札所ニシテ御詠歌ニ世の人を洩さで乘する廣船の誓もしるし彌陀の浄土へトアリ地方民ノ信仰今猶衰ヘス此ノ村元旧尾﨑組に属セシガ明治二十二年竹舘村ニ編入セラルカ古来僻陬ノ寒村ニシテ僅カニ農利ヲ以テ業トセシカ明治二十五年外川平八翁林檎畑一町歩ノ試作セルニ嚆矢トシ逐次全村其ノ業ヲ擴メタレハ村勢頗ニ揚リ今や全村ノ耕地反別百餘町戸数百八十人口千二百六十餘ニ及フ仰ケハ矢捨ノ秀峰巍然トシテ中空ニ聳エ俯セハ平原ノ果鯨森ノ古蹟糢糊トシテ傳統ノ夢ニ誘フ一木一草皆史談ヲ孕マサルハ無シ而モ近代的文化愈々榮エテ千載ノ繁盛ヲ約ス噫美シ里廣松楽土行ク里廣船昭和二十四年秋此ノ村ノ除厄ノ諸氏謀リテ村ノ縁起ヲ碌シ此ヲ後世ニ傳ヘント欲シ来リテ余ニ撰文ヲ請フ即チ撰スト爾云フ 青森縣史蹟調査委員松露山人 葛西覽造撰 高山松堂書 昭和二十四年十一月三日』裏面には除厄者8名(石山市太郎、小笠原武司、外川忠造、中嶋福太郎、工藤貞一、工藤東一、小笠原勘作、外川三千郎)

旧手水石かな。隣の石碑には『奉納昭和22年御手洗水工事42才記念』とあり5名の名前が刻まれていました。

『祝高齢九十九』(外川きのへ昭和九年七月八十八寿文堂書)。

滝造園記念(奉納除厄記念42歳・33歳、昭和53年7月13日、造園者広船小笠原祐作)。広船地区以外では青森市、弘前市、横浜市、長野市、日立市、室蘭市の人の名前も刻まれていました。

社殿前石灯籠一対(昭和36年10月)。
狛犬一対(昭和46年7月14日)。
石灯籠一対。
狛犬一対(大正元年旧9月17日)。
石灯籠一対(明治41年9月17日)。
社殿。
拝殿向拝蟇股・木鼻等。
拝殿向拝扁額。
本殿前狛犬一対(明治26年癸巳二月朔旦・外川庸齊)。
広船獅子踊由来碑(青森県無形文化財指定記念碑)。

碑文…『大永年間八ツ股鹿子踊と称し南部遠野地方より伝播されたという。然るに広船部落は、中世台密系熊野修験者の蝟集により、その信仰厚く、後に津軽熊獅子の発祥の地と称される。その踊り音律は、右手を虚空に指し、神仏の降臨を仰ぎ精霊化す。祖霊崇拝と農耕儀礼悪魔払いを主とし、幽玄にして、且つ古色蒼然たるをもって、他の追随を許さぬものがある。よって青森県無形文化財の指定を受けたる次第である。時に昭和五十六年六月一日』
長くなったので『広船観音堂(平川市)』に続く…



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