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青森県八戸市売市馬場河原。売市村が記録の登場するのは江戸時代初期の元和4年で、「売市」「新屋村」「あら屋」とあり、根城南部氏の知行地でした。寛文4年に八戸藩領となり、八戸廻に属します。八戸城下の西端を出て売市堤・沢里堤を越えた街道はあらや(荒谷)の南端で北と西に分岐。そうした地理から天和2年に領内制札場の一つになっています。分岐した道は、西が三戸方面、北が五戸方面へと向かいます。荒谷の集落は五戸方面への街道沿いに形成され、集落を過ぎた街道は馬淵川の大橋を渡って長苗代に抜けました。一方、城下の堤町から売市堤の北端の堤防を越える道路もあり、長根を通って大橋に至るもので、城下への近道となることから往来者も多かったといいます。享保の頃の藩の記録では「売市村之内荒屋」と記録。東側の長根と西側の荒谷をくくる総称として「売市」が存在したようです。なお、文久改正八戸御城下略図には荒谷村と長根村が見えますが、売市村は見えません。
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矢止めの清水は馬淵川沿いにあります。
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馬淵川に架かる大橋(国道104号)、八戸南部氏庭園のすぐ近くです。
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「馬淵川流域ふるだとの森と川と海保全地域」。
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わかりにくいのですがあの木がある付近です。
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「八戸地区水辺の楽校 矢止の清水 愛称ピチャピチャランド」
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「みんなで守ろう!ヘイケボタルの生息環境を!!」
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「青森の伝説(森山泰太郎・北彰介)」には次のように紹介されています…『八戸の西を流れる馬淵川にかかる大橋の近くに、矢留の泉というのがあった。源義経が平泉からのがれて、八戸の北、高館に隠れ住んでいた。あるとき、つれづれに放った矢が、ここに飛んで来て突き立ち、そこから泉がこんこんと湧いたのがそれだという。』
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高館に越して間もなく、義経は弁慶に命じて、南方に矢を射させました。矢は馬淵川を越えて売市の地に突き刺さり、矢を抜いたら清水が湧き出て、これを「矢止めの清水」と呼び、この清水で清酒「稲川」を醸造したといいます。
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何か鬱蒼としていてどこから水が湧いているのかよくわかりません。
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紐で囲まれている場所に水が流れているのは確認できますが。
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「伝説」源義経北方コース「矢止めの清水」…『悲劇の名将と世にうたわれた源九郎判官義経は、兄の頼朝に追われ文治5年(1189年)4月、平泉の高館において31才の若さで自害したといわれる。短く華麗だったその生涯を想い、後世の人々は"義経はその一年間にひそかに平泉を脱し、北をめざして旅に出た"という伝説を作りあげたのであろう。当地方に伝えられている伝説によれば、平泉を逃れ北に向った義経主従は、海伝いに八戸に上陸し市内高舘に住んでいた。そのころ、家来の弁慶に矢を射させた。矢は馬渕川を越え三千メートルをへだてたこの大地に深く突き刺った。引き抜いたところ清水がコンコンと湧き出たことから、この地名を「矢止めの清水」といわれるようになった。昔からこの道端を往来する人のノドをうるおすと共に、銘酒「稲川」の酒造りの水としても使用されつづけてきた。八戸観光協会』
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実は矢止めの清水のすぐ近くにある幕末の八戸南部氏庭園に来たのですが開園していませんでした。八戸南部氏庭園は大橋の東、馬淵川に臨む丘にあります。
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どうやら春(5月下旬の4日間)と秋(10月下旬の4日間)の年2回、無料で一般開放を行っているようです。下調べ不足でした。
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ぐぐると「現在営業中」と出てくるので気を付けて下さい。
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八戸南部氏庭園…『この庭園は、薩摩藩主「島津重豪」の13男「信順」が八戸藩に迎えられ、第9代藩主となったことを契機として、弘化4年(1847)に造られました。安政5年(1858)には、信順公がこの地に別荘を建てたことが八戸藩史料に記載されています。庭園は馬淵川を借景として、石組が川面に浮かんでいるかのように造られ、秋から冬には庭園内の落葉した樹木の間から遠く八甲田の秀麗な山並みを眺めることができます。作庭は、薩摩藩おかかえの庭師によるものとも伝えられ、30本余りの松をはじめ、ツツジやサツキ、樹齢数百年といわれる樅の木などが植えられ、築山、石灯篭、橋などがたくみに配置されています。平成18年10月八戸市教育委員会』
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住所:八戸市売市四丁目。面積:5,505㎡(1,668坪)。形式:枯山水の廻遊式庭園。
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