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八戸市本徒士町(もとかじしちょう)。更上閣(こうじょうかく)。
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八戸市内には「三徒士町」といって藩政時代、足軽よりも一階級上の30~50石取り程度の軽輩武士が住む町内が「上徒士町」「徒士町」「本徒士町」と3ヶ所ありました。徒士は足軽を直接指揮したり、参勤交代の大名行列の際に乗馬せず徒歩で従う武士で、参勤交代時のみ雇われる武士は渡り徒士と呼ばれました。八戸藩二万石の城下町の上組町は身分の低い兵士が住みましたが、一度事ある時は応援に駆け付ける一角の町内が三徒士町でした。「上徒士町」は荒町の南側で、「徒士町」「本徒士町」は荒町の北東側に面する「徒士町」、隣接して「本徒士町」(NHK八戸支局裏手界隈)となり、その東側が堤町、北側が長根堤、南側が二十三日町。本徒士町は徒士町に比べると格式がいくぶん高かったようです。大正末期の世帯数は徒士町で17軒、戦後になって本徒士町で46軒、徒士町が43軒。藩政時代までは軽輩武士が詰めていた町であることは述べましたが、遠藤、成田、鈴木、泉山、松本、稲葉、岩泉、赤沢、須藤家は旧士族であり、それぞれ500~600坪の屋敷におさまっており、本徒士町界隈は泉山醤油合名会社を除けば住宅地となっていました。それが戦後に番長から本徒士町に真っ直ぐ通じる道路が開通してから、開業する医師が増え、小さな町内に八戸産院、村上耳鼻咽喉科、浅水眼科、福井整形外科、松川歯科、阿部小児科などが建ち、戦前まで別名を医者町といわれた番町よりも有名になりました。徒士町いは産馬組合がありました。
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別資料より江戸期からの本徒士町についてです。江戸期は八戸城下の1町で武家地。城下の北西に位置し、東は堤町、西は徒士町、南は廿三日町に隣接し、北は売市村。城下の徒士3町のうち最も早く設けられた町と考えられていますが年代などははっきりしません。諸絵図等に本御徒丁(もとおかちよう)とも記されています。「八戸藩日記」天保4年10月の条によりますと、当町に仕切戸が設けられ、明け六つ時に開け、暮れ六つ時に閉じることと定められていました。明治初年の家数10。明治初年から明治22年まで八戸を冠称する場合がありました。同22年八戸町、昭和4年からは八戸市に所属。明治34年に泉山醤油合名会社が当町南側に開業。旧泉山邸は昭和29年に市民集会所(更上閣)となりました。
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※泉山醤油合名会社について。泉山醤油合名会社の泉山家、淡万の屋号を持つ吉田家の長屋、能庄の屋号を持つ加藤家は、醤油店として初めは二十六日町で営業しており、本徒士町には加藤家の田屋があり、蔵が建っていました。やがて本徒士町で営業するようになります。現在のNHK八戸支局周辺すべてが泉山醤油合名会社の敷地で、現在ある番町から本徒士町に至る道路はありませんでした。そして福井整形外科の辺りに店舗と蔵がありました。敷地が広いのでえんぶりの時期になると糠塚えんぶりが来て一斉摺りをしました。堤町の現在の東北電力の辺りに樽工場がありましたが、昭和恐慌で泉山醤油合名会社が倒産し、熊谷義雄に売却されました。泉山醤油合名会社は、明治32年6月の組合規約により、醤油製造業、商業、銀行貸付業を営むことに決まり、その一つとして醤油製造業を発足。醤油製造業は泉山幸次郎が業務を担当し、中村繁次郎が支配人としてその任に当たりました。明治34年7~8月に準備を完了し、秋に製造着手し創業開始。その後販路拡張、製造量も増えました。本店第一工場は本徒士町10番にあり、後の丸一家具本宅、阿部小児科(ABEビルクリニック)、村上耳鼻咽喉科医院、NHK、福井整形外科(同リハビリテーションクリニック)一帯が泉山醤油合名会社の敷地でした。第二工場は馬場町にあり、後の東北電力、山一商会、浅水眼科(馬場町眼科)、安達内科クリニック一帯が敷地でした。湊支店は湊町本町の湊橋の袂にありました。販路は南は山形県、北は北海道に及びました。銘柄には「泉山」がありました。組合は昭和26年に50周年記念式典を大々的に挙行しましたが同37年に解散。その間の代表社員は泉山幸次郎、泉山惣治、泉山佐一郎。
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更上閣入口付近にあった堤町(堤丁)標柱より…『この町は八戸藩時代の武士町で、主に上中級番士の屋敷地となっていました。現在のスケートリンク一帯が「売市堤」と呼ばれ、そこに面していたことからこの町名になったと考えられます。盛岡藩領であった五戸、百石方面から八戸城下に入る近道であったことから、通行者も多く、そのために堤寄りに売市惣門があり、番所が置かれ、番人が配置されていました。また、売市堤の土手脇には藩主の茶に使う水(御膳水)が湧き出ていました。平成2年3月八戸市教育委員会』
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更上閣は全室和室の集会場施設です。市民の集会所として利用されたり、結婚式場として使用されたこともあるようです。
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正面入口。欄間には蟇股の彫刻が施され、屋根には頭貫の技法を用いています。会場として利用できますが(使用料有り)、通常の一般見学はできませんでした。残念。内外を彩る彫刻や意匠は見応えがあるそうです。
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ということで、当記事では写真は外観や庭園のみの紹介となります。
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※もしかしたら新型コロナウイルス感染症の影響かも知れません。余談かも知れませんが、昭和34年夏に、八戸市内で93人の赤痢患者が発生したことがあり、隔離病棟だけでは収容しきれず、この更上閣を急遽、仮収容所として使用したことがあったそうです。本徒士町と徒士町の住民は、住宅地であるこの町内に患者を収容するのは危険であるとして、当時の岩岡徳兵衛市長に談判したそうです。結果として住民側が勝利して幕を閉じ、今後一切このようなことのないようにとの念書を交換しました。
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八戸市更上閣の沿革…『更上閣母屋は、1897(明治30)年に、明治から昭和初期にかけて、呉服商、醤油の製造・販売業や繊維工場及び泉山銀行を設立し、その経営等で財を成し、東北を代表する財閥となった泉山家の邸宅として建築された。建築彫刻の一種「蟇股」や、上に向かって反った形の梁「虹梁形」など寺社建築独特の技法が随所に取り入れられている。大正8年頃、改築により来客接待用広間及び二階和室が増築されたものとみられている。更上閣門は、1919(大正8)年ごろの建造。石材を中心に築かれ、両側の通用口を脇障子風に扱い、頂部笠木の先端部に反りをつけ鳥居のように見せている点に特徴がある。』
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クロマツ(八戸市保存樹木指定第21号・平成23年3月25日)。
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石製正門。大正8年築。石造、間口2.7m、左右袖塀付。敷地東南部に位置。材質は石材が中心。
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両側の通用口頂部の先端にはそれぞれ反りをつけ、鳥居のような形状をしています。脇障子風で小壁を羽目板状につくられています。
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庭園へ。
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庭園から見た更上閣。木造平屋建(一部2階建)、入母屋、鉄板葺、外壁は真壁造、白漆喰仕上げ、建築面積373㎡。
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更上閣は明治時代に呉服商、銀行業により東北地方を代表する財閥であった泉山家が、邸宅として明治30年頃に建築(主屋)したものです。この時の当主が第五代泉山吉兵衛で、大正8年頃に母屋が古くなったため改築し、更に来客接待用広間及び二階和室が増築されています。座敷棟を主屋に対して雁行形に増築。二軒半繁垂木、蟇股や虹梁といった社寺建築の技法を取り入れています。玄関棟の背面に座敷棟が増築されています。その後、昭和初期の昭和恐慌に経営が傾き、八戸銀行に譲渡され、昭和19年からは八戸市が所有、平成15年に主屋と門が国の登録有形文化財に指定。※大正時代の改築・増築以後の改築資料はありませんが、昭和48年に老人いこいの家開設にあたり、旧湯殿を取り壊して、男女の風呂場とそのためのボイラー室を設置する改修工事が行われています。
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ここを会場として毎年2月の八戸えんぶり期間中に開催される「お庭えんぶり」は、八戸せんべい汁と甘酒で体を暖めながら旦那様気分でえんぶりを鑑賞することができ、大変人気となっているようです。
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蔵。
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庭園には推定樹齢百年を超える臥龍の松やイチイ、すずかけの木、紅葉の他、ヒバ、杉、欅などの高木やツツジ、サツキ、ドウダンツツジなどの低木が植えられており、四季による景色の変化を楽しむことができます。
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更上閣北側に回ってみました。
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高低差があるため、ほぼ木々しか見えませんでした。
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