山形県米沢市万世町堂森。真言宗豊山派松心山光照院善光寺。堂森善光寺、出羽善光寺とも呼ばれています。御本尊は善光寺式阿弥陀三尊。総本山は奈良県初瀬の長谷寺。県重要文化財として阿弥陀如来立像(鎌倉時代・見返り阿弥陀如来・像高51cm、桂材一木造)、があります。伝長井時広夫婦座像(鎌倉時代)。※慶次清水については別記事にしております。
手水舎。
仁王門。堂森秋月の図(元禄8年)にも見られますが、宝暦13年の火災で焼失し、明和2年再建され、昭和50年に建替えし、現在に至っています。
金剛力士像は明和2年の作。屋根裏には宝暦年間以前の焼けた大きな像が収められているそうです。
善光寺阿弥陀堂の別当として建立され、特に鎌倉時代には地域住民の信仰を集め、室町時代・江戸時代の領主をはじめ領民の阿弥陀信仰の拠点として栄えました。境内の鐘楼堂にはかつて天保9年(1838)7月に鋳造された梵鐘があり、その鐘銘に大同2年(807)に創建されたと刻してあることから、寺歴不詳なれど平安時代以前に開山されたとものと考えられています。
中世期には大般若経の写経事業が盛んに行われており、現在その一部が山形市の立石寺(山寺)に残っています。奥書には出羽国長井荘堂森常住物本聖仁光などの記載があり、延文2年(1357)に当寺の住僧聖仁光が多くの僧の協力を得て写経したことが知られています。しかし宝暦13年(1763)4月3日の火災により本堂焼失。明和2年(1765)3月21日に再建されて阿弥陀信仰道場として栄えました。明治26年(1893)には再び本堂・庫裡等を焼失しており、明治28年(1895)12月9日に再建されるも、2度に渡る火災によって全ての古記録を失っており、現在では寺歴の詳細を知ることはできません。
現在は境内に阿弥陀堂・本堂・霊牌堂・鐘楼堂・十王堂・子育地蔵堂・仁王門・水子地蔵・前田慶次供養塔などが建立されています。
米陽八景・堂森秋月の図(元禄8年)。善光寺・堂森山・月見平・仁王門・阿弥陀堂・本堂・鐘楼堂・庫裡などが描かれています。
阿弥陀堂。間口6間、奥行7間半の御堂。
梵鐘の刻によりますと、善光寺は大同2年に阿弥陀堂の別当として開山されたとあり、それ以前に創建されたものと考えられています。創建当時の御堂を建久年間に益王姫によって中興・改築され、現在の伽藍は江戸時代の延享2年(1745)に再建が始まり、寛延3年(1750)に再興された伽藍。
以前は茅葺屋根でしたが、昭和47年にトタン葺に改修。しかしながら急斜面を滑落する雪と風雨によって傷みが激しく、平成10年5月1日より平成11年3月31日の11ヶ月間をかけて銅板屋根葺替え大改修工事、平成29年改修工事を行って現在に至ります。
唐破風懸魚、蟇股、木鼻等。
鰐口。
本堂。明治26年に焼失し明治28年に再建。不動明王を中心とする五大力尊を奉安する護摩祈祷道場。
本堂前の巨石・石祠等。
光明殿(霊牌堂)。
平成2年に完成。1階は大日如来・不動明王・宗祖弘法大師様を御安置し、椅子席の本堂として、葬儀・御法事など執り行っています。 2階は40畳の和室と位牌堂となっています。
鐘楼堂。
天保9年7月に鋳造された2代目の梵鐘がありましたが、戦時中の金属供出により長年その音色が途絶え、昭和53年に再建。
前田慶次供養塔(前田慶次郎利貞殿供養塔)へ。
前田慶次郎公供養塔前石碑(前田慶次郎公405回忌法要記念・平成28年6月4日)と石仏。
供養塔の建物。
前田慶次供養塔。
供養塔の堂宇に掲げてあった前田慶次供養塔碑文(案内板)より…『前田慶次利貞は加賀藩主前田利家の甥、叔父利家に仕えて小田原攻めに参戦。後己を知る天下唯一の武将として直江兼続を知りその主上杉景勝公に生涯を託した。慶長五年、最上討伐には直江と共に出陣。大いに戦い、殿軍をつとめ完全撤退を果たして戦史に名を留めた。後、この地堂森に居を賜り、邸を「無苦庵」とよび悠々自適この地を愛し郷民と親しみ、慶長十七年六月四日七十才の生涯を閉じた。慶次は天性豪放磊落奇行に富み、文武は勿論広く諸芸道に通じ、無苦庵記、道中日記、亀岡文殊奉献和歌がある。前田邸址、慶次清水、月見平に今も慶次は生きている。松心山光照院善光寺第中興三十五世酒井清滋。上杉家家職山田武雄選並書』
善光寺裏山(お墓(志田修理義秀の墓があります)や配水タンクがある山)は慶次が地域の住民や友人を招いて、月見などの遊山を楽しんだとされる月見平となっています。
仁王門付近。
たくさんの石仏があります。
湯殿山碑・戸田緇水師之碑。
石仏がたくさん並んでいる小道(十王堂横)を進むと…
こういった場所(十王堂裏)がありました。
たくさんの小さな地蔵が奉納されています。
子安観音・水子地蔵ですかね。
子安観音。
手前にも水子地蔵。
駐車場付近の石仏。
駐車場付近竹藪に続く石仏。
その先にも石仏。なお、阿弥陀堂裏にも江戸時代の十三仏(石仏)があります。
再び阿弥陀堂前へ…石灯篭、古峯神社、石祠など。
當国観世音供養塔。
慶次の力石。
片手では無理でした。
十王堂。
十王堂内。
堂内案内板…『【十王とは】十王とは人が死後、亡者と成って冥界に行き出会う十人の王の事。亡者の生前の行いを取り調べる裁判官である。亡者は初七日は「秦広王」二七日は「初江王」三七日は「宋帝王」四七日は「五官王」五七日は「閻魔王」六七日は「変成王」 七七日は「泰山王」百カ日は「平等王」一周忌は「都市王」 三回忌は「五道転輪王」と十回それぞれの王の前で取り調べを受ける。「閻魔大王」が以前の四王の取り調べと合わせて、亡者が六道(地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上の六つの世界)の何処に生まれ変わるかを決定する。例えば人間界に生まれても、争いばかりしている所もあれば、平和で豊かな所もある。「泰山王」は亡者が生まれ変わる「個人の条件」寿命、男女などを決定する。七七日の四十九日までの間は「中有」または「中陰」と言い、亡者の霊魂は生前その人が生活していた所に漂っており、「四十九日」が終わって、それぞれ定められた所にいく。又、「悪趣」(地獄・餓鬼・畜生・修羅)に行く事が定められた亡者も、百ヶ日・一周忌・三回忌と供養を重ねる事により誰でも「天上界」(極楽)に行く事ができる。【奪衣婆】「秦広王」の裁きの後、罪深い者は深い淵を、罪の無い者は 「地蔵」に手を引かれて橋の上を、それ以外の者は急流の沢をそれぞれ渡る。それゆう三途の川(葬頭河)と言う。その三途の川を渡った亡者の衣を剥ぐ婆。住職清滋』
子育地蔵尊。
堂森善光寺…『真言宗豊山派の寺院で山号は松心山。大同2年(807)の開基、建久3年(1192)に長田将次の妹益王姫が中興したと伝えるが、数度の火災で古記録が焼失し由緒は定かでない。見返り阿弥陀如来(県指定文化財)は、益王姫を救うため振り返った姿になったという伝説が残る。また、置賜郡の地頭・長井氏の創建ともいい、伝長井時広夫妻座像(県指定文化財)を所蔵している。中世期には、当寺において大般若教の写経事業が行なわれ、その一部が山形市の立石寺(山寺)に残っている。その奥書から、延文2年(1357)頃に出羽国長井荘堂森今善光寺の僧・本聖仁光が中心となり、各地の僧の協力を得て大事業が遂行されたことが知られる。境内の阿弥陀堂は寛延3年(1750)の再建、寺名の由来となる善光寺三尊像と見返り阿弥陀を安置した。また、本堂と阿弥陀堂の奥には前田慶次郎供養塔が建ち、多くの参拝者が訪れる。傾奇者として著名な前田慶次は、晩年は堂森で悠々自適の生活をおくり、慶長17年(1612)6月4日に死去したと伝えられる。堂森の里人と親交した慶次を偲び、昭和55年に建立されたものである。米沢市』
善光寺木造阿弥陀如来立像・木造伝長井時広夫妻坐像(山形県指定文化財(彫刻)昭和30年10月25日指定)…『木造阿弥陀如来立像は檜材の寄木造り、高さ50.8cmの漆箔の立像で鎌倉後期の作である。造りは彫眼、螺髪切付、肉髻珠水晶。左下方を見下ろす姿勢で立つ貴重な仏像で、「見返りの弥陀」ともいわれる。往生者を迎えて極楽浄土に導く際に、後ろについて来ているかを確かめるためにふり向いた姿の、あでやかで美しい像である。木造伝長井時広夫妻坐像は室町時代の作で、欅の一木造りで彩色があり、整った衣冠姿の像は当地方としては珍しい作品である。長井時広は鎌倉幕府の重臣、大江広元の二男で置賜郡長井氏の始祖となり、兄親広は寒河江庄を領した。ともに鎌倉3代将軍実朝の頃の人で「吾妻鏡」という書物に見える。山形県教育委員会・米沢市教育委員会』
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