1
八戸市廿六日町。八戸神明宮とも呼ばれ、地元では「神明さん」として親しまれています。
2
龗神社長者山新羅神社とともに開催する神幸祭 「八戸三社大祭」 で知られており、また、150年以上の歴史があるとされる6月晦日(6月30日前夜祭、7月1日本祭)の「茅の輪祭」も有名です。八戸ではこの茅の輪祭が宵宮の始まりとなります。夜中に茅の輪を拝殿前にかけ、茅の輪の行事が始まると、参詣人はこの輪をくぐり、ちぎりとって体をさすりお祓いをします。切り取った茅の葉は神棚にお供えして家族の安全を祈願します。祭日には町内でぼんぼりを灯し、軒に提燈を吊るし、境内には夜店、亀子焼、サクランボ売りの露店が並びます。八戸三社大祭には明治22年より加わり、お通りでは三社の行列の先頭を務め、巫女行列・子供裃着・高館駒踊りなど子どもが主役となってお供します。
3
3.5
「八戸廻神社書上帳」、「宝暦五年堂林寺門間数改書上帳」、「神社調」、「新撰陸奥国誌」等を読むと、八戸領内では社人持と寺院持の社堂が少ないのに対して、俗別当持や修験持が多かったことがわかります。俗別当とは通常百姓身分の俗人でありながら自村の身近な社堂を管理する半人前の宗教者であり、社堂造営及び遷宮に際しては近在の修験者(山伏)を導師に迎えることが多くありました。城下の規模の大きな神社としては、八戸城の御館神としての法霊大明神(現龗神社)と、新羅大明神・愛宕大権現・虚空蔵菩薩を祀る長者山三社堂(現長者山新羅神社)は修験持の社堂で、神明宮は社人持の社堂でした。神明宮は享保14年(1729)までは修験の宗門に入っていましたが神道に改めました。享保19年に京都に行って神明祠官中居伊勢守を拝領しています。宝暦8年(1758)に社人支配頭となって領内神社の取りまとめを行いました。ちなみに櫛引八幡宮が所在する八幡村は盛岡藩領の飛地で、天台宗僧侶である普門院が管理する寺院持ちの社堂です。社領も1300石余と最大。領内の神社祭礼に際し、藩主の代参が派遣されたのは、城内六社(稲荷・雷神堂・秋葉・摩利支天・床浦明神・新宮稲荷※いずれも廃社)、法霊、内丸八幡(廃社)、長者山三社、神明宮などでした。
4
石灯篭一対。
5
5.5
天保弐年辛卯十一月吉日。願主として「大阪買次問屋柳屋又八」を刻み、藩政時代には大阪との商取引が盛んであったことを知ることができます。※「新編八戸市史通史編Ⅱ近世」のP259「大坂直仕入れ」の項を参照ください。
6
御祭神は天照皇大神。例祭日10月16日(旧9月16日)。
7
往古「九戸の乱」のころ九戸政実家臣三田彦四郎により、八戸郊外の三戸郡金濱村(現八戸市金浜)に遷座され、次に新井田村今町、更に中居林村へ遷座されました。
8
寛文9年10月1日に中居林から長者山へ遷座し、正殿拝殿鳥居などを藩が建立。宝永6年に豊受大神、八幡大神、春日大神を勧請合祀し現在地に遷座。
9
藩の重要な祈願所の一つで、藩命により国家安全、五穀豊穣、雨乞い、日和乞、風鎮等の祈祷を行っていました。以後領主の篤い信仰により、伊勢の神宮同様20年ごとの社殿の建替えが原則されましたが、廃藩によりその制が無くなりました。別当の中居伊勢守は領内の神官を統括する社人支配頭で、安藤昌益の門弟でもありました。
10
神社庁より…『往古九戸の乱のころ九戸政実家臣三田彦四郎により三戸郡金濱村(現八戸市金浜)に遷座。次に新井田村今町、中居林村へ遷座されたが勧請よりここに至るまで年暦は詳しく判らない。寛文9年に南部直政公の御信仰に依り八戸長者山に社殿造営遷座。宝永6年(1709)に豊受大神・八幡大神・春日大神を勧請合祀し現在地に遷座する。藩の重要な祈願所の一つで、藩命により国家安全・五穀豊穣・雨乞日和乞等の祈祷を行っていた。以後領主の厚い信仰に依り、伊勢の神宮同様20年毎の社殿の建て替えが原則となっていたが、廃藩によりその制が無くなった。現社地は町並みの中にあるためしばしば火災の厄に遭い、現社殿は慶応2年(1866)に再建されたものである。明治29年より龗神社・長者山新羅神社と合同の神幸祭「八戸三社大祭」を斎行する。【その他特記事項】◎茅の輪祭…茅を拝受し小さな輪を作り、御守にする風習があり「シンメイさんのおさかり・つきのわ」の愛称で親しまれている。◎御神木「イチョウ」…樹齢600年以上で、交通量の多い市街地では珍しい大樹。「シンメイさんのイチョウ」として崇め親しまれている。』
11
パンフレット「三社の祭礼と山車まつり」より一部抜粋…『江戸時代には、八戸藩の最も重要な祈願所のひとつであり、藩命により多くの祈祷を行った。寛政二年(1790)二月には、毎年正月中、国家安全・五穀豊穣・漁乞の祈祷を行うように命じられた六寺社中のひとつでもあった。八戸藩日記によると、寛文九年(1669)中居林から長者山の東北隅へ「御伊勢堂」として遷座している。さらに、宝永六年(1709)になって、何らかの事情により長者山より遷宮することになり、町奉行や吟味役・目付・勘定頭などの立ち会いによって、この御伊勢堂の建立場所を見分している記録が見られる。そして、この年の六月に普請奉行が任命され、八月には立柱式がなされ、九月に上棟式だったらしく、豊山寺で棟札の祈祷がなされている。この棟札は今も保存されている。この時の普請によって、神明宮は現在の場所に遷座する。』
12
拝殿向拝蟇股。
13
拝殿向拝神額。
14
拝殿内。
15
15.4
15.6
15.8
横から本殿4坪、幣殿4坪、拝殿11坪。
16
絵馬掛所。
17
神札授与所
18
手水石。
19
壬辰天保3年7月吉日。
20
狛犬一対(昭和3年6月30日)。
21
21.2
21.4
21.8
神楽殿。
22
22.5
境内社の鳥居と御神木。
23
境内社。
24
小祠・石祠。
25
切株。
26
境内社。
27
石灯篭一対。紀年銘等は見えず。
28
28.5
向拝に祀られていた石。
29
二十三夜塔。「龍神」「稲荷大明神」とも彫られています。
30
社殿裏手。
31
社務所。
32
裏参道鳥居。
33
神明さんの銀杏。
34
御神木(イチョウ)…『この木は樹齢600年以上といわれる御神木(イチョウ)で、地上から約1.5メートルの高さの部分で幹まわりは約6.5メートル、樹高は25~30メートルあります。イチョウは神社・仏閣・城址などに多くみられますが、交通量の多い市街地でこの木ほど大きなイチョウの木は珍しいともいわれています。イチョウは枝・葉ともに水分を多く含み燃えにくいため、防火の役割も果たします。八戸では何度か大火がありましたが、この御神木が火事の広がるのを防ぎ社殿も類焼から守られたと言い伝えられています。また古くは葉の色付き・散り具合によって吉凶を占ったともいわれています。この木は雄で銀杏の実はなりませんが、春夏秋冬の季節ごとに様々な表情をみせ「しんめいさまのイチョウの木」と崇め親しまれており、憩いの場になっています。』
35
確かに市街地にあってこの大きさは珍しいですね。
36
36.4
36.8
幕末期は全国的に相次ぐ災害に見舞われました。安政年間には2年10月の江戸安政地震を筆頭に地震が多発。翌3年7月には八戸地方を大地震が襲い、湊や小中野を津波が襲い、溺死者26名を数えています。
37
元治元年(1864)12月28日には八戸城下が大火に見舞われています。廿三日町から出火し、折からの西風に煽られて、町屋316軒、武家49軒と当時の八戸の3分の1が焼き尽くされました。天聖寺、本覚寺、願栄寺、神明宮など城下にある寺社も焼失。現在の神明宮社殿は大火の後、慶応2年(1866)に再建したものです。年末の火事であったため、正月の飴市やえんぶりも中止となりました。
38
38.5
井戸。
39
庚申塔。
40
中居嘉治満先生紀念碑(明治16年1月)。
41
神明宮社司の中居嘉治満は廿六日町の私宅にて、文久3年(1863)1月から明治元年(1867)12月まで寺子屋を開設していました。指導は中居が一人で当たり、生徒は男70人、女24人。入退学は自由で、年齢も決まっていませんでしたが、男女とも9~10歳で入門し、4~5年間通う場合が多かったといいます。主に教えていたのは読み書きで、「読み」は中居が読んで教え、わからない生徒は中居に尋ねて学びました。「書き」は中居が書いた手本を見て草紙に練習。学習時間は春夏が午前8時から午後3時、秋冬が午前9時から午後4時まででした。
42
この寺子屋の行事としては、旧暦5月25日と9月25日に、半紙5枚位継ぎ合わせた紙に「奉納天満宮 年月日 氏名」と書いたものを竹竿に結び付けて1人で1本持ち、長根の天満宮へ奉納しました。また、旧暦6月14日には、半紙5~6枚継ぎ合わせた紙へ「奉納八坂神社 年月日 氏名」と書いたものを長者山下の八坂神社に奉納しました。また、旧暦7月6日の晩は、竹に五色の色紙を切りつけて飾り、1人で1本あて持参し、行列して大橋から流しました。謝礼は旧暦正月5日と5月5日の2回支払いました。明治16年(1883)、中居の習字門人が遺徳を偲び、「中居嘉治満先生紀念碑」を神明宮境内の大銀杏前に建立しました。
43
にほんブログ村 地域生活(街) 東北ブログ 東北情報へ