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八戸市櫛引一日市。国道104号しらはぎライン。
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櫛引橋。一日市橋ともいいます。馬淵川下流に架かる橋。右岸の八幡と左岸の一日市を結んでおり、国道104号が通ります。
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明治初期までは船で行き来していました。この渡しについて明治13年の「県治一覧表では「川幅20間、馬船1」と記載。
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明治24年に馬淵川左岸に日本鉄道(青い森鉄道線)が開通、同26年に櫛引橋が完成して両岸の行き来が自由になりました。同34年に川の両岸にあった八幡尋常小学校と一日市尋常小学校が合併して明治尋常小学校と改称(元八幡小学校の地)。昭和50年に櫛引城の川縁に川中島ポンプ場(取水場。川中島の地名はかつて馬淵川の川中に島があったことを意味していると推定)、同55年には村内の丘陵上南側、南部町境に近い場所に櫛引清掃工場が完成。現在の櫛引橋は平成2年に完成したもので、長さ165m、幅13.5m。
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一日市交差点。
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明治初年の新撰陸奥国誌によりますと櫛引村は「馬淵川の東に沿い、南北に住まいし、支村である烏沢に越える道がある。三戸への通行の古い道で、今は本村の北端より馬淵川を渡る本道」とし、「土地は菲薄で水田は少く、畑が多くて耕耘を専らとしてほかの産物はなく、僅かに馬渕川に網をかけて魚を捕り、また小店を開いて、畑には粟や大豆がある。」と記しています。
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村内の寺院としては、櫛引に常安寺、烏沢に涼雲院、蒼前に火産霊神社(蒼前神社)、一日市に朝日神社、烏沢北川の寺沢に瀧神社がありますが、当神社についてはよくわかりませんでした。よってこの地方の出羽三山参りについて以下に記しておきます。
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出羽三山参りは農作業が一段落し、作柄の目安もつく7月から8月にかけて行われました。戦前の三山掛けには厳しいしきたりがあったといいます。集落の川のそばに行屋堂が建てられていることが多く、三山参りの前にここで2~3日くらいのお籠りをしました。お籠りは肉魚などの生ものを避け、水垢離する慣わし。行屋堂での煮焚き、炊事に水が必要であり、それ以上に水垢離に清浄な水が必要でした。本来は潮水がよいとされましたが、潮水のないところでは食塩を口に含みました。白衣、白足袋、草鞋などの白装束を竹行李に納め、菅笠は背負いました。南部地方は羽黒山の霞の支配下でした。真田延命院では、住民に祈祷のお札や牛王宝印を配り、田畑への虫除け、火伏せ、病気回復の加持祈祷をするなど庶民とのつながりが続いていました。参拝当日には延命院から来た先達の行者がつき、行者の案内で山掛けが行われました。お山全体が清浄な場所であったため、出発を前にご不浄を済ませ、お山での小水などをできるだけしないように心掛けました。早朝に出発して、羽黒山から月山に向かいます。先達の音頭に合わせて「さんぎ、さんぎ、ろっこん大師、はごろ山、だいごんげ、御しめにはつだい、どうし一つらいはい、なむ、きめいちょうらい」と唱えます。月山に一泊して湯殿山をお参りして、3日間の山掛けは終わります。お山掛けは村中の安全、五穀豊穣、大漁満作、商売繁盛など人生百般に及びますが、その都度、祈祷を捧げて護摩を焚いたり、湯殿山のお岩に仏の往生を願う供養の御幣を貼り付けたりしました。
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御札や、御守り、絵札などを授かり、持ち帰って家の神棚に祀り、分家、親類、縁者、近隣にお土産として配りました。出羽三山を10回掛けると肩掛けの太多須嬉を贈られました。これは大変名誉なことであり、贈られた人が亡くなると葬儀には太多須嬉を棺桶に掛けて、棺台にのせて墓場へと運んだそうです。三山を掛け終わり、帰りには山形県の龍澤山善寶寺にお参りをしました。この寺の雌雄の竜神に祈願を掛けることで、海上安全や大漁祈願を成就できたそうです。戒脈寺の御札を授かり、舟小屋(番屋、浜小屋)に簡易な神棚を造り安置。建て網の型枠を入れるときに、大漁を祈願して漁場に納めました。出羽三山へ一度でも出かけた者の葬儀には、栗の柱を刻んで五輪塔を造り、空(青)・風(黄)・火(赤)・水(白)・地(黒)の五色に着色した塔婆を立てて供養しました。白銀から階上、岩手県の種市方面にかけては現在でもこの風習が残っているといいます。出羽三山にお参りできない者には平燈篭賭塔婆の栗の五寸角柱塔婆を立てました。
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出羽三山碑。
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石灯籠一対(弘化4丁未年10月15日)。歴史を感じます。
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社殿。
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社殿向拝神額。
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拝殿内。
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大きな神前幕には「昭和62年旧12月8日行者一同」と見えます。その上部に飾られている写真は恐らく出羽三山参りのものでしょう。
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社殿横にも階段がありましたが、隣の家の庭先へと繋がっているようです。立派な松がありますね。
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眺望。
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