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三戸郡五戸町根岸。根岸八幡宮(五戸八幡宮)。通称「根岸の八幡さま」。青森県立五戸高等学校の近くです。八幡宮入口の老松の下に墓石(①根岸山十六世天徳山開山権大僧都 常善院覚重法印 文政七年三月十一日②当院七代 従目至果権大僧都 実法院永法師 文政七甲申年十月十六日③十八世大僧都実法院覚真法印 天保七丙申年九月二十四日④根岸家の墓(明治44年-昭和43年))が点在しているそうです。最後の墓を建てたのは根岸国男で別当の子孫は十和田市三本木町に移住。この中に会津藩士ゆかりの墓があるそうです。「元斗南藩 福井末光 同末雄 同せつ女 明治4年7月1日 明治4年12月28日 明治6年2月14日」と刻まれた墓石。日没前で先を急いでいたので確認はできず、詳細はわかりませんが、たぶんここじゃないかな。ちなみにこの社号標付近にもかつては鳥居がありましたが現在はその痕跡のみ。
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二之鳥居(※現在一之鳥居)。
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石灯籠一対。
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紀年銘は嘉永6癸丑年3月15日。
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貞応の頃、市川村轟木にあったものが、永正4年に五戸上新井田に社殿が移り、これが五戸八幡宮のはじめといわれます。神社を守っていたのが根岸別当の一族ではないかといいます。かつての八幡宮は三間四方の古いもので、床下が高く階段が付き、お宮の前には古いオンコと小さな池、御手洗石があり、後ろには屋根をかけた2基の石像(お菊の墓)があったといいます。昭和初期に善蔵が新築工事に着手して立派な社殿が完成すると同時に廃殿となって、鈴木某が住んでいたこともあるそうです。例大祭は9月11日、社宝弁財天。
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この神社付近に関する言い伝えがあります。①藩政末期に五戸村沢の若者と娘が親の許さぬ恋仲になり、薄暗い杉林の中で首つり自殺をして、そこに愛染明王の碑が後日建立されたといいます。鳥居の近くにあった碑を社殿新築と同時にオンコの木の近くに移転したそうです。②当社には古い秘物があり、ある時、根岸別当が村に出かけることになりました。お宮の近くに八幡丁の与五郎爺さんの一族が住み、根岸別当が用事で外出する際「この中の品物はみるなよ」と言って外出。八幡丁の工藤のおんちゃま(弟分)が不在中にお宮の大切にしている仏像を開いてみたとたん失明したといいます。恐らく仏像に植物から採った防腐剤が塗ってあり、その粉が飛んで目くらになったのではないかといいます。③明治初期に一人の農夫が鍬を担いで通り過ぎました。そこに2人の斗南藩士が大手を振って通り過ぎました。士農工商制度が生きている世の中であったため、ぶれい打ちになるところでしたが、この農夫は鍬でこの刀を受け止め、切りかかってきた侍を痛めつけ、ゆうゆうと帰っていったといいます。この六郎は櫛引道場では文武両道に優れ、明治31年7月28日に亡くなっています。戒名は憲光良翁居士(専念寺)。斗南藩士の名は不明ですが恐らく実話であるといいます。④川原町の長者に一人娘がいて、どこか良家に嫁にやりたいと八幡宮にお参りしました。この様子を怠け者の若者が耳にし、鳥居の脇の老松に登って「娘は川原町の若者にやれ」と天狗を真似て伝えました。長者は神様のお告げと勘違いして準備を整えました。しかし乳母は怠け者の若者にやるのは反対し、生まれて半年足らずの子牛を駕籠に乗せて若者の家に届けました。怠け者の家は真っ暗闇で燈もない貧乏者。若者は「さあ、嫁に来たら出て下され、そう恥しがらなくてもよいから」と声をかけ、駕籠の戸を開けると「モオ」となきました。駕籠から出して座敷にあげ、頭に手をやると2本の角があります。若者は嫁が竿をさしてきたと喜びました。夜があけて見たら、娘ではない子牛に怠け者は驚いたといいます。
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資料が多いため内容が少し被りますが、五戸月山正八幡宮建立の由来記によりますと、元暦の頃(1184年)羽州羽黒山の中腹に一人の鍛冶職があって銘を月山といいました。山中で刀を鍛えること数十年、常に八幡宮を信じ尊守を守っていましたが、ゆえあって貞応の頃(1222~23年)、三戸郡轟木に住み、永正4年(1507年)上新井田村に社地を移したのが始まりとされています。最初は小さな祠でしたが、その後6m四方の社に改め、昭和になって立派な鳥居や拝殿が親切されました。
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石灯籠一対。紀年銘はたぶん昭和15年。暗くてよく見えず。っていうか急激に暗くなってきて焦っています!!上記①のような言い伝えがあるので尚更です。
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神社庁より…『御祭神誉田別命。例祭日9月15日。境内地1890坪。本殿1坪、拝殿19.5坪。元暦年間刀工山は湯殿山中に於いて異人に逢って誉田別命・玉依姫・神功皇后の三体の御神体を御授りになった事に縁起しているといわれる。永正3年(1506)南部家城代木村杢氏が武運長久、国土安全のため神社を建立し、神饌・燈明料を寄附したことによって、刀工その他の業を廃し宮守となって爾来世襲神主として奉仕する。安永4年(1775)8月15日南部大膳大夫利雄公が武運長久子孫繁栄のため御開帳の儀があり、地方の民等の尊崇が非常に厚かったと伝えられている。昭和22年4月23日神社制度改正により、宗教法人の届出をして現在に至る。』
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狛犬一対(昭和10年8月15日建立、三浦善蔵)。
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大きいです。
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社殿。昭和9年再建。木造平屋建。入母屋、鉄板葺、正面千鳥破風、平入、桁行6間、正面1間軒唐破風向拝付。外壁は真壁造り板張り。向拝木鼻、欄間、懸魚、衝立などに精緻な龍の彫刻が施されています。社殿の彫刻も素晴らしかったので見せたかったのですが、暗くて写真がすべてボケボケで使い物になりませんでした。元々暗めの境内なのに…天気が悪い夕方な上…昨年買い替えようと思いつつ使い続けている私のボロデジカメ…
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拝殿向拝下。
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拝殿内。中も真っ暗。
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本殿覆屋。
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拝殿前から見た鳥居。
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社殿前石灯籠一対(昭和9年8月15日)。
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御手洗石。
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井戸かな。
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暗くて焦っています。
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境内社。
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稲荷神社のようです。
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裏参道鳥居。
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狛犬一対(願主三浦金治、三浦吉五良。文久2年7月15日)。
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愛染明王。高さ90cm(台座30cm)、幅30cmの自然石。紀年銘は弘化4年3月21日で、願主は鳥安右衛門。昔は30mほど下にあったものを土地所有者である三浦善蔵さんが現在地に移したといいます。
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上にも記しましたが、次のような由来が伝わっております。「相思相愛の女と男が五戸村沢に住んでいました。男は21歳、女は18歳。2人は親の許さぬ恋になって人目をしのんでは秘かに密会を続け、どうすることもできずに死場所を昼でも杉の大木で薄暗かった八幡宮境内に求めました。参道には300年以上老杉が2列に並び、裏参道は小杉の林で小道が通っていました。谷間になって付近は住む人もなく、乞食が神社の床下に居たこともあったそう。2人は永久の別れ場所として裏道の木の下で溢死(首吊り)しました。封建時代の心中事件。心ある人々の力によって碑が建設されました。」
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八幡宮のイチイ(八幡さまのオンコ)。樹齢300年。胸高直径95cm、樹高7.2m。
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昭和7年、八幡宮再建の時に、境内の整地作業でイチイの根元から1mの高さまで埋めたそうですが、他の樹種であれば枯死するのに、このイチイは枯死することなく旺盛に繁茂。
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植えられたのは五戸代官木村秀晴の頃で、境内には杉の巨木も参道に沿ってずらりと並木に植えられていましたが、戦後は切られて根株だけを残します。イチイを保存していたのは八幡宮の信徒や土地所有者の三浦善蔵。
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戦前戦後を通して境内では桜の花見酒が酌み交わされ、このイチイの下がその会場に選ばれており、約100人の町民が車座に利用していたそうです。現在は片枝が6mまで伸びて、10ヶ所に支柱が付けられています。イチイは昭和49年に町木に決まり、各家庭においては庭の石垣がわりに植えられたそうです。
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建物が2棟あります。
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こちらの建物は何かわからず。
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小祠の中に石が祀られております。
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こちらは薬師堂です。
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五戸町の開祖といわれている木村杢の妻菊女の墓標もあり、地元の古老たちからは薬師様と呼ばれて崇められています。高さ1.2m。『奉安置阿弥陀如来台軀 元禄三庚午五月吉日 木村秀晴妻菊女』と刻みます。
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薬師堂の横。
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猿田彦太神・天鈿女太神。
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境内案内板「五戸町指定文化財」より…『◆天然記念物イチイ…県内のイチイは樹齢300年、胸高直径95cm、樹高7.2m、枝の張りは町内随一である。昭和9年八幡宮再建のとき境内の整地作業で根元から1mの高さまで埋められた。ほかの樹種であれば枯死するのに、このイチイは60年たった今でも旺盛に成長を続けている。この木が植えられたのは、五戸代官木村秀晴のころで、境内には杉の巨木が参道にそってずらりと並木に植えられていたが、戦後全部伐採され根株だけが残っている。イチイは今では片枝が6mまで伸び、支柱で支えられている。イチイは昭和50年7月1日「町の木」に指定されている。(昭和49年9月20日町指定)◆史跡三十三観音…三十三観音は、今から約146年前、町内の分限者(金持ち)によって建立された石仏である。寄進された観音像には年号と寄進者の名前が刻まれ、一番古い石は嘉永5年(1852年)7月15日、新しい石は翌年9月吉日と刻まれ、一時、八幡宮境内の広場を利用し二列横体に並んでいた。昭和2年金比羅様を頂点に右17体、左16体が現在地に移された。観音像は江戸中期から末期にかけて、死者への供養や、極楽往生を願うため、西国霊場巡りをまねて作られたものらしく、五戸地方では唯一の三十三観音である。(平成10年3月26日町指定)◆史跡菊女の供養塔…菊女の供養塔には次のように刻まれている。「奉安置阿弥陀如来台軀 元禄三庚午五月吉日、木村秀晴妻菊女」。木村秀晴は当時の五戸代官であり、その代官に菊という愛人がいた。代官自ら水田開拓に必要な高度の技術を学ぶため盛岡に出張していたが、帰って見ると愛人が身籠もっており子供が生まれるのを待たず処刑したという。胎児の墓は舘稲荷神社境内に、菊の墓は八幡宮旧堂跡に建てた。その墓の施主が菊女、つまり「本妻と愛人」は同じ"菊"だった。本妻が夫の愛人に同情して墓を建てたと伝えられる。正面には釈迦如来像があり、京都で木村秀晴の妻菊が元禄6年(1693年)春に作らせ翌7年7月6日開眼供養を行ったと蓮台に刻まれている。この供養塔建立には高雲寺四世、鉄窓三牛和尚が出席したとある。(平成10年3月26日町指定)五戸町教育委員会』
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日没が迫っているのに…
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三十三観音ですって!
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しかも山上に向っています!!
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悩んだ末に…
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巡る!「必殺!腹式の呼吸!!」※すいません。「鬼滅の刃」はまったく読んでおりません。
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三十三観音。嘉永5~6年に寄進されたもので、かつては現在の老オンコの後に八幡宮社殿(四間四方)があり、社殿と崖の間に一列横隊三十三の石仏が湿地に並んでおり、川原町の青年たちがこの石を力試しに担いで三十三個をまわったそうです。ある年のこと、境内に置くと一基につき年貢米一升ずつ取るということになり、各家庭や墓地に運んだことがあるそうです。昭和2年になって金比羅様を頂点として現在の坂道に並べられました。観音像は台石とも三尺、正味二尺二寸の身形光背。
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寄進者子孫等。
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1.菊池覚兵衛は川原町西裏の人。
2.鳥谷部安右衛門は蛯川の人。
3.田村勘四は田村製材所。川原町西裏で町の政治家たちが木材工場を開いた時、隆一が帳場をやり、その工場が経営不振によって潰れました。その後、独立して製材所の発足、五戸駅前に移転、地蔵平へ移転。
4.石田清之助
5.三浦定吉は山玉のかまどで、上大町村越専助の所で下駄屋を営みました。息子万吉、武らがあり、電柱の請負をしたこともあります。子孫は博労町に住み、川原町では時計屋の曾祖父と呼びます。
6.鈴木惣吉、善右衛門と続きました。
7.三浦庄七は元町長益三さんの曾祖父。同町リンゴの草分けで、明治天皇が東北巡幸の折三本木で御意を受け本県林業の父といわれました。
8.川邑藤松は川覚。山崎病院の所に住み、大地主でしたが、世の中の移り変わりと共に博労町では旅館を営み、その後は他町村を移りました。
9.田畑辰二は新丁で銅屋をやりました。五戸地方の半鐘がこの家で製作されました。五戸から田名部、そして八戸に住み、田畑鉄工所を開きます。
10.三浦安右衛門、屋号だぼし。
11.櫛引龍作、大西理助は川原町の人。大西は大喜で、理助の孫は名校長の喜三郎、その子が農業を営む喜一郎。
12.中村大治右兵衛門は下大町の菓子屋「キヨコ」菊勘の所に居ました。喜助は青森へ。連れ子の大次郎の子孫が町に住んでいます。
13.伊賀屋勘兵衛は伊賀商店。光一郎は手代をして早死、春男は小間物屋の手代として修業、独立したもので康司が引き継ぎます。
14.大邑萬太郎
15.鳥谷部忠助
16.三浦健造
17.高奥は川原町で石像は当時のものと違います。
18.菊池万之丞は菊田屋で菊万のことです。
19.奥寺英門ほか4人
20.三浦久次郎は二代久次郎、次郎八県議、章(久次郎)
21.三浦儀右衛門
22.下森吉太郎ほか1人は八戸の人。九州から来た鉄砲かじ。流行病があった時に寄進。八戸南宗寺に7基の墓石があり、孫2人は五戸町。
23.松橋右衛門は上大町の人。子は五小の校長を務めました。
24.田中理右衛門
25.板垣文治左門ほか3人は博労町の人。
26.三浦吉治郎
27.三浦仁衛門は三浦道雄県議の曾祖父。重吉は養子で三伝宅の帳場をし、30石の士分となりました。善蔵、種良、道雄、雄一と続きます。
28.三浦利吉は仁衛門長男で、銑太郎、徳太郎、栄之進、栄一、栄造。
29.工藤利助
30.米田喜八
31.十八世高雲寺は大円祖流、十九代旭海虎雄、二十代太田祖海、二十一代大竹保順、二十二代箱石鶴文、二十三代祖庵泰心、二十四代村松幸栄。大竹和尚の時に寺が火災で焼失。
32.高橋直
33.新屋万吉は浜市川の綱問屋。
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上まで来ました。
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道は続いていましたがこれ以上は未確認。
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和気清麻呂像があったのでここまで。
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和気清麻呂像。
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安政年間の金比羅大権現が山の頂上にあるそうです。明治24年頃、三浦善蔵宅で金比羅の小屋を修理。小屋の中には大きな石があったそうです。大正元年になって不心得者3人が祠の中で牛肉を食べて小屋を焼いてしまったそうです。その後、昭和10年頃に和気清麻呂像(高さ4.5m)を立てて、一大公園に夢を抱いて八重桜の木を植えたりしましたが、終戦とともに神社の荒廃がひどく、老杉が切られ雑草が生え、年々さびしさを増したそうです。
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こちらが金毘羅大権現かな。小屋は残っていませんが、小屋の中にあった大きな石という感じですね。
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暗かったせいもあり、文字等は読み取れませんでした。
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ってことで、真っ暗になる前に下ります!もっとゆっくりしたかったですね。近くに行く機会があったらまた参詣したい神社です。
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