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青森県青森市浪岡高屋敷野尻。西に国道7号線、東に大釈迦川。
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中々広大な駐車場があります。
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駐車場から全体を見渡せます。
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「国指定史跡高屋敷館遺跡」標柱(文部科学省指定平成13年1月29日、建立平成30年11月30日)。
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史跡高屋敷館遺跡…『高屋敷館遺跡は、平安時代の環壕集落遺跡で、指定面積約30,000㎡[南北約500m、東西約90m]を測ります。遺跡の中心部に、空壕[幅約8m、深さ約5.5m]とその外側の土塁に囲まれた集落[南北約110m、東西約80m]を特徴としています。この遺跡は、平成6年(1994)から翌年にわたって、国道7号浪岡バイパス建設工事に先立つ発掘調査が行われ、大規模な壕と土塁とに囲まれた環壕集落であることが判明しました。また、壕と土塁以外にも、竪穴建物跡や金属を加工・製作したと考えられる工房跡など様々な施設が確認され、土器や金属製品、木製品、土製品などの遺物が多数出土しました。発掘調査の成果により、極めて重要な遺跡であることがわかったため、国道バイパスの計画路線を西側に迂回して遺跡を保存することになり、平成13年(2001)に国指定史跡に指定されました。史跡整備では、この遺跡の最盛期である11世紀代の竪穴建物跡・工房跡12棟について平面表示、柵列・土塁・壕跡について立体表示しています。』
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航空写真。
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遺構配置図。
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11世紀代の遺跡復元図。
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高屋敷村天和絵図写。天和4年の絵地図に浜海道とあるのは外ヶ浜街道であり、徳才子村同様、集落は羽州街道沿いに位置。北は徳才子村、南は杉沢村に通じます。『津軽郡中名字』に、奥法郡山辺のうちとして鶴田がみられ、絵地図に枝村鶴田(つんだ)とあるのがそれに比定。東の山裾には7つの溜池が連なります。大溜池の下の萢は既に水田となり、小たつ溜池は現在勘助溜池に、おいの助溜池は卯之助溜池に名称が変わっていますが、昔と同じ役目を果たしています。また地内を六万堰が流れているのが目立ちます。通称西山の山際に、長者屋敷跡があり、そこが村の発祥の地とされています。絵地図には家数27軒、内18軒本村屋敷2軒裏屋、7軒枝村屋敷とあります。貞享4年検地水帳には村高712石7斗3升、うち田方60町2反9畝13歩、634石3斗3升7合、畑方25町8反21歩、88石3斗9升3合とあります。他に池床12ヶ所で7町7反1畝、漆63本、大日堂白山堂があります。小字に大野・安田・福田・野尻があります。明治初年には家数40軒。宅社元にある神明宮(旧村社)は草創年月日不詳。
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高屋敷館遺跡。発掘箇所:浪岡町大字高屋敷字野尻38、外。立地:大釈迦川西岸の梵珠山地に連なる標高25~45mの段丘上。遺跡の北東部分の一部は大釈迦川の氾濫原により削り取られたと推定できる箇所が存在。
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本遺跡は国道七号線浪岡バイパス建設事業に先立って、平成6・7年度に青森県埋蔵文化財調査センターによって調査されました。調査面積は5600㎡、このうち壕と土塁で囲まれた南北80m、東西57mの約3400㎡が主要な対象となりました。検出遺構としては、土塁とそれ対応する環壕、出入口3ヶ所及び環壕に残存していた橋脚跡、竪穴建物跡75軒(住居跡)、鉄関連遺構2棟、性格不明の工房跡1棟、掘立柱建物跡1棟、土杭42基、井戸状遺構2基、溝跡11条、道路状遺構1条、焼土遺構1基などがあります。
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土塁と環壕は、南北の小さな沢に挟まれた河岸台地を取り囲むように構築。壕の外側に黄色の地山が盛られていることから構築時期を推定でき、報告書では、土塁の崩落上下に10世紀前半に降下したとされる白頭山-苫小牧火山灰が存在することから、この火山灰の降下前と以後のどちらかに構築されたと考えられます。ただ、自然堆積である基本層序との関係から白頭山-苫小牧火山灰をみると、火山灰を包含する層の上に土塁を構築した時の黄褐色粘土や軽石層(地山の掻き上げ土と推定)が自然な流れ込みを見せていることから少なくとも土塁に関しては10世紀中頃以後に盛られたと推定。土塁の基部底部は2.1m、高さ約1mで、全長188m。壕は幅5.5~6.2m、深さ2.8~3.5m、土塁頂部からの壕幅は約8m、深さ約4.5~5.5mの大規模なものとなっています。壕の全長は土塁全長より長く約214m。壕の掘り方は全般に逆台形状で、一部V字状(薬研堀)を呈し、部分的に掘り直しをしている箇所が存在。壕の構築時期は土塁の崩落上下に部分的に白頭山-苫小牧火山灰が認められることから10世紀前半以前の構築と想定されるも、埋土の中には火山灰が認められず、降下以後の10世紀中頃以降に造られたと推定。環壕から出土する遺物の面でみると、土師器・須恵器・羽口・木製品などがみられ、年代的に最新の遺物と想定されるものは、内耳土器・把手付土器・土師器砂底坏・土師器甕・土師器壺などが環壕底面から下位層及び覆土に廃棄されており、どんなに古く見ても壕の成立は10世紀末以降であり、12世紀中頃には埋め戻されていると推定。
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出入口は3ヶ所に認められ、調査区からはずれた西側中央、壕底から橋脚と思われる4本の本柱を検出した南東角付近、土塁の食い違いが見られる北側部分で壕の壁や底には橋脚跡と思われる柱穴痕が存在。これらの出入口に関しては当初北側に存在していたものが、いつの頃か閉鎖され、以後西側中央と南東角付近の2ヶ所が出入口として使われていたと想定。西側中央に関しては平成8年に調査していますが不明な点が多いそうです。
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竪穴建物跡に関しては、発掘調査で75棟ほどを調査し、これ以外にも多数の竪穴建物跡が確認されているものの未調査のものが多いです。検出した竪穴建物跡の重複は激しく、4~5期の変遷が想定され、1時期に10軒ほどの竪穴建物跡が存在していたと推定。規模としては一辺が4~5mのものが多く、8m前後の大型の竪穴建物跡も数軒発見されています。後半の住居には壁柱穴といわれる壁際に沿って30~50cm間隔の柱穴配置を示す例が多いそうです。特徴的な竪穴建物跡としては、最も大型な第23号、内耳土器を出土した第19号、錫杖状鉄製品と碁石と推定される製品が出土した第74号竪穴建物跡があります。
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鍛冶遺構は環壕内部の北側地域から2棟検出。1棟は鋼精錬、もう1棟は鉄器鍛造(小鍛冶)を行っていた可能性があります。鋼精錬を行っていたのは約5×6mの竪穴建物跡で壁柱穴を有することから上屋構造。内部には46×60cmの馬蹄形状の炉が構築され、炉の前方や斜め左右には約1.5mの円形の土坑が3基検出され、うち2基には炉壁片や約48kgの鉄滓(精錬滓)が廃棄されていました。鉄器の鍛造を行った鍛冶遺構は一辺が6mほどの方形竪穴建物跡で、改築にともなって平面形約30cmの円形の浅い炉(火窪炉)も3ヶ所改築されています。炉底面には煤が付着していて若干の鍛造剥片が出土。建物内から土師器(坏・甕)と鋤先・鉄斧・刀子などの鉄製品と砥石が出土。性格不明の工房跡として遺構は、鋼精錬の行われていた鍛冶遺構の南側に隣接して位置し、一辺が約6mの方形建物で西壁に造りつけのカマドを有します。中央付近にはカマドと向かい合うように羽口が装着された炉と炉を囲む4個の柱穴が確認されています。鍛冶炉に似た構造ですが炉壁が還元していないこと、鉄滓などの遺物が少ないことから鉄製品以外の生産に関連する工房とも想定。
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その他の遺構としては掘立柱建物跡は南東側で1棟、2×3間の規模で確認。道路状遺構は環壕の外、北側調査区で発見されており幅1~1.5m。覆土上部に白頭山-苫小牧火山灰が存在することから環壕構築以前の遺構と想定。土坑は竪穴建物跡の内外で約40基検出。井戸状遺構は環壕内のほぼ中央と南側環壕に接して2基検出し、形状は円形、深さ2m前後で木枠等は発見されず。溝跡は11条検出。焼土遺構は土塁の外側にありましたが未調査。
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出土遺物には土器類(土師器・須恵器・擦文土器等)、土製品(土玉・勾玉・土錘・羽口・支脚等)、鉄製品(鉄斧・刀子・鎌・鍬先・紡錘車・鉄鏃・錫杖状鉄製品・鍋被片等)、銅製品(銅鋺・用途不明製品)、木製品(菰槌・竪杵・箸状木製品・椀・板状木製品・橋梁木柱等)、石製品(碁石推定品・砥石)、鉄滓、鍛造剥片。特徴的な遺物等についての詳述は浪岡町史第一巻を参照下さい。その他参考文献-青森県教育委員会1997青森県埋蔵文化財調査報告書第206集「高屋敷館遺跡発掘調査概報」、同第243集「高屋敷館遺跡発掘調査報告書」
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現地案内板「竪穴建物跡[第23号住居跡]」より…『壕で囲まれた内郭からは、平面形が方形を呈する竪穴建物跡が70棟ほど見つかっています。このうち最も大きな竪穴建物跡「第23号住居跡]は、直径9m前後の規模で、床面積は約84㎡を測ります。建物の中央に4本の主柱穴があり、壁際には多数の壁柱穴が検出されました。また、中央の床面には粘土が貼られ、踏み固めによって硬化しており、赤く焼けた所が2か所確認されています。カマドは、東壁の中央よりやや北側の地点から1か所見つかっています。この建物内からは、平安時代の土師器・須恵器・擦文土器などの土器、ミニチュア土器・土鈴などの土製品、鉄鏃・棒状鉄製品などの鉄器が出土しています。』
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大型竪穴建物跡[第23号住居跡]。
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大型竪穴建物跡[第23号住居跡]平面図。
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現地案内板「鉄器生産関連遺構[第2号鉄器生産関連遺構]」より…『鉄器生産関連遺構は、壕で囲まれた内郭の北東に位置し、東側は崩落した状態で検出されました。平面形はほぼ方形を呈し、6m前後の規模で、床面積は約40㎡を測ります。この建物には、改築された痕跡が確認され、改築前後とも西壁と南壁に壁柱穴が検出されました。中央からやや南東の位置で炉跡が見つかっており、床は炉跡の西側が特に踏み固められた状態でした。鍛冶の痕跡である鍛造剥片が出土していることから、継続した鉄器生産が行われた施設であったようです。』
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鉄器生産関連遺構。
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鉄器生産関連遺構炉跡。
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鉄器生産関連遺構平面図。
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現地案内板「土塁・壕・出入口」より…『土塁は、壕の外側に壕を掘り下げた土を盛って造られています。幅は2.1mで、総延長は約188mを測ります。壕は、土塁の内側に総延長約214mにわたって掘られています。空壕と考えられ、雨水等は東側の大釈迦川へ流れ込むようになっています。土塁頂部を含めた壕の規模は幅約8m、深さ約5.5mと大規模なものです。壕の断面形は、全般的に逆台形を呈し、内側がなだらかで、外側が急傾斜となっています。環壕内部への出入口は、3か所確認されています。北側(C地点)は土塁で塞がれていますが、西側(A地点)では土塁が虎口状に途切れており、橋脚のない木製の橋が架けられていたものと考えられています。大釈迦川に面した南東側(B地点)では、壕の底から橋脚と考えられる4本の柱が見つかりました。この木柱の樹種は、3本がヒバ(アスナロ)、1本がクリでした。ヒバ材について酸素同位体比年輪年代法で分析したところ、これらの木柱は12世紀初頭に伐採され、使用されていたものと推定されています。』
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高屋敷館遺跡の3か所の出入口。
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土塁断面。
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壕断面。
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橋脚木柱検出状況(B地点)。
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