十和田市相坂白上。鎮座地はかつての大坂村。相坂村とも書きます。盛岡藩領。五戸通。藤坂村誌によりますと、江戸初期には「北左エ門佐殿知行所大坂六日町」とあり、北家の所領がありましたが、慶安年間頃から苫米地氏が知行を有するようになりました。天明3年の御蔵高は172石余、給地は苫米地勘右エ門99石余・米田伊左エ門31石余・苫米地丹治18石・川村市郎治50石余・苫米地与太郎10石・苫米地恒右エ門30石余・苫米地治助50石余・苫米地六右エ門30石余などがあり、この状態が幕末まで続きましたがその大半は地内在住の給人(郷土)。集落は奥入瀬川に沿って段丘上に並んでいますが、高清水は本村の北東にあり七戸通境との山守を命ぜられ、また六日町には寛永21年から市が開かれていました。早くから給人層、特に苫米地氏による新田開発があり、奥入瀬川の鮭漁なども行われ、安永5年には酒株を持つ江渡氏が移り住むようになりましたが、「天明年中凶年あげて村民のらに餓死して荒となり」といわれる打撃を受けています。特に高清水は潰村になりかけました。ほどなく回復し、文政年間頃には「此村能き村也、福地とミゆる所なり、酒やも有り、田畑開けたる村里なり、相坂村ハ駅場にハなけれとも駅場の助けとなる所也」といわれました。用水路の掘削も試みられ、文政年間に紋之丞堰の工事がありましたが未完に終わっています。万延元年大光寺堰の掘削計画が始まり、種々の反対を乗り越えて慶応年間頃にはほぼ完成をみましたが、戊辰戦争で中断し明治11年に再び着手。ほぼ中央に大池神社が鎮座。文政5年には火災に遭っています。高清水に高清水神社、白上に白上稲荷神社があります。当白山神社については見えず。
県道45号線(十和田三戸線)から脇道に少し入ったところに一之鳥居があります。一之鳥居の脇にある石碑群。※天気が悪く、暗かったため、碑文は自信ありません。

向って右の碑。「上水明神」(明治24年3月12日、施主向切田村中、俗名栗山利助 行年四十三歳)。

中央の碑。

中央手前の碑は中央に「白山神社」と刻む碑ですが、元は鳥居等の神額かも知れません。

中央奥の碑は…

う~ん…

ちょっと厳しいです。天気が悪くなかったらもう少し頑張って読んだかも。

向って左の碑。

文字がぎっしりと彫られていますね。

読めなくもない状態ですが、日本語版ベルルッティみたいな感じで私には厳しいです。

「南無地蔵」の文字ははっきり見えますね。



興味のある方は現地で解読してください。

参道。

一之鳥居から社殿までは少し距離がありますが、特に勾配も無く歩きやすい参道です。

途中右側に畑があります。


遠くに社殿が見えてきました。

参道右手に石碑。

二十三夜塔(明治35年、施主向切田中)でした。

参道右手に小祠。清水大明神。「奉納大明神」と書かれた明治期の棟札が1枚。その他「清水大明神 昭和33年2月4日」、「平成7年4月2日 棟梁苫米地薫 家主豊川隆雄」と書かれた棟札があります。

小祠の向かい側。かつて小祠があった跡。

参道。


社殿の横に出ます。

社殿。


由緒等については調べておりません。
こちらは手水石なのかな。

一対あります。

台座の文字は読み取れませんでした。

拝殿向拝。

拝殿内。



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