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青森県八戸市根城1丁目。かつて江戸への上り街道の起点となっていた場所で、長旅の安全、留守家族の安全、藩内の大漁、豊作を祈願する場所でした。
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2.5
案内板「桝形」(昭和55年3月)より…『藩政期の八戸には城下防衛の拠点として現位置に桝形、惣門町に番所がありました。桝形とは土居(土塁)や石垣で方形のマスガタ状地域を作り、城門の外から内部が見えないようにし、攻め入られた場合敵の勢いがにぶるようにする役目をもったものです。八戸城下の南端に位置するこの桝形もそうした役目を持っていました。また、この桝形は上り街道(江戸への道)の出入り口にあたり、藩主の参勤交代の見送り出迎えの場所でもありました。この桝形の構造は、道がコの字形になるように土居を築き、道路の見通しがきかないようになっていました。そして土居の上には二本貫の柵が設けられ、内側には杉が植えられ、足軽の家が並んでいました。また入口には白山川が流れ、これに橋がかけられて大杉平、上り街道とつながっていました。そしてこの白山川から桝形の東と西に水を取り入れて堰としていました。八戸藩史料には、この桝形は貞享年中(1684-1688)から小規模なものがあったのを寛保3年(1743)に改築して大きくし、柵を設けたと記録されておりますが、現在残っているのは西側の土居の一部です。この図は文政12年(1829)ごろと推定される八戸城下図の部分です。』
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案内板の裏側には今も桝形跡(土塁跡)が残されています。※向かいはコンビニ。
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桝形略図。
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桝形稲荷神社案内板より…『月例朝拝毎月3日6時半。例大祭10月2日(前夜祭)、3日(土)本祭。右ご祭事を宮司、総代のみで執り行ないます。協賛行事は中止させていただきます。』※令和2年度。新型コロナウイルスが関係しているかも。
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神社庁より…『天正19年(1591)5月7日櫛引河内守清長の居城。櫛引城落城の際、其の家臣上野左衛門、館村の居宅より、其の家敷神稲荷の神体を奉じ此の地に落ち来り。宝暦3年2月(1753)神社を造営して奉祀(現在の神社の後側、この地を俗称古宮と云う)、野氏は代々此の地に住し奉仕。其の子孫足軽となり、神社側に屋敷を賜う。慶応年間(1865-68)は上野市太郎と云う。天明2年(1782)7月5日足軽の居宅を惣門町より舛形(現、上組町)に移転して、舛形の警備をせしむ。同年舛形の鎮護として、当社を古宮の地より現在地に遷座す。天明3年(1783)上組町小頭、沼館与助他5名、京都伏見稲荷に至り、其の分霊を奉じ、帰郷後奉祀す。慶応元年秋田の三吉神社の分靈を合祀す。』
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社号標「正一位桝形稲荷神社 御大典奉祝記念」(皇紀2650年・平成2年6月吉日建之)。
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鳥居。
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狐一対。
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昭和8年旧4月2日建之、世話人亀本繁太郎※台座紀年銘
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恐らく台座のみが古いものと思われます。
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狐一対(昭和46年10月3日、施主豊巻徳也・マツ)。
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狐一対(天保13年壬寅7月吉日)。
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手水石(天保13年壬寅7月吉日、願主上下両組惣女連中)。
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御神木。
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松。
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社殿。
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18.5
御祭神は宇迦之御魂神。例祭日10月3日。境内地263坪、本殿0.5坪、拝殿9坪。
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19.5
『稲荷神社沿革』によりますと、天正19年5月7日に櫛引河内守清長の居城である櫛引城が落城した際、その家臣である上野左衛門が館村(八幡)の居宅から、その家敷神である稲荷神の御神体を奉じてこのあたりに落ちて来たといいます。その後、宝暦3年2月に現在の神社後方に堂舎を造営し、稲荷神を奉祀したといいます。現在でもその地を俗称古宮と呼んでいます。上野氏は代々この地に住んで神社に奉仕してきました。その子孫は足軽となり、神社側に屋敷を賜り、慶応年間は上野市太郎が任されていました。天明2年7月5日には、足軽の居宅を惣門町より桝形(上組町)に移転して、桝形の警備も行いました。同年桝形の鎮護として稲荷社を古宮の地から現在地に遷座。翌天明3年、上組町小頭の沼館与助他5名が京都伏見稲荷に参詣し、その分霊を帰郷後に奉祀。また、慶応元年には秋田の三吉神社の分霊を合祀。
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人型に家族の名前を書き息を吹きかけ、身体の弱いところを撫でて厄を祓う「人形」の風習は、以前は神明宮に持って行って納めていましたが、戦後、稲荷神社でも行うようになりました。
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本殿覆屋。
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本堂下の御室(狐穴)。
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石が祀られていました。
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眷属神使である狐が出入りする場所。
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神楽殿。神楽堂は昆惣之助が戦前に小学校から払い下げを受けてきたものだといいます。神楽があったわけではありませんが、例祭の時には演芸会の会場として使われました。子どもたちは普段ここで将棋を指すなど遊び場としても使用していました。お祭りが近づくと子どもたちが灯籠作り(一尺四方位)をし、家内安全、豊年祭り、武運長久などと書いて道路に立てたそうです。
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三吉社(俗称三吉さま)。梵天祭りで有名な秋田の三吉神社に由来。かつて桝形稲荷神社の大祭では草相撲が奉納されていました。
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岩手県北にある観音林近くの横枕で生まれた岩ヶ関金太夫という相撲取りは、三吉さまと相撲を取り、三吉さまが竹のまわしをしていたので、指がとれたという伝承があります。
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28.5
裏面。2人の願主名が刻まれ、その横に明治2己巳年正月吉祥の紀年銘、更にその下に3名の名が刻まれています。
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力石。木村千代治の力自慢の証と伝えます。台座に「勲八等功七級木村千代治」と刻まれています。
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昔は力自慢の若者たちが力石を持ち上げて歩き、その歩いた距離を競っていました。石を腰や肩まで持ち上げて、そのうえ何歩、何間歩いたなどにより褒め称えられました。この石カツギの行事はかつてどこの神社においても行われており、若者たちの楽しみの一つでもありましたが、昭和30年前後から見られなくなりました。
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試しに持ち上げてみましたが、まぁまぁ重かったです。
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