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青森県八戸市大字沢里字上沢内。
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沢里村ですが、近世初頭は根城南部氏知行地で元和4年の南部利直知行宛行目録(南部家文書)に「沢里」とあります。村高は「元禄10年高帳」では八戸通村の枝村沢里として159石余(田80石余・畑78石余)、「旧高旧領」141石余。用水に白山川からの沢里堤があり、北の売市堤(長根堤)とともに城下、沼館、柏崎方面の灌漑用水として利用されました。売市堤の下堤に対し、上堤とも呼ばれたそうです。「八戸藩勘定所日記」元禄6年9月の条に、水門を石垣工事とする旨の通達がみられます。「八戸藩日記」寛文7年8月の条に「沢里村てんや甚三郎、去十六日二女房・同娘・同男子せおい子右四人走居」とあり、典屋が家族を引き連れ欠落したとあります。「八戸藩史料」によりますと、寛延2年8月に長苗代村民によって当村の上久保山へ鹿島社が造立されたといいます。同山からはしばしば木材が切り出されたことから植林も行われ、文化14年3月に田面木村・売市村・櫛引村・是川村などから469人を動員し1人3本宛、計1,407本の松が植えられました。文久3年には売市村との境に足軽が配備され、新組町の誕生をみています。このため沢里堤は新組堤とも称されました。寺院は曹洞宗の三級山竜源寺があり、白山川沿いには元禄7年建立の白山神社が見えます。
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白山神社…『白山川の中流付近に位置する。祭神は伊邪那岐命、伊邪那美命など。八戸藩日記の元禄7年(1694)4月9日に「上久保山白山権現建立御堂入」とあり、八戸城下十六日町の高橋吉左衛門が本社白山堂、末社弁才天・大日堂・不動堂・観音堂・尾畑明神堂を、上久保山に建立したのが始まりとされる。吉左衛門の子孫が神職となり、高橋大和守と称し、寛保2年(1742)には領内社人頭を務めており、安藤昌益と交流があったことでも知られる。(白山神社の鳥居の前)庚申、金精様、魂精神』
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稲荷神社。
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古い案内板…読み取れず。でも安心してください。
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新しいのがあります。内容については神社で頂いた由緒等が書かれている紙と同じだったので省略します(※一番下に記しておきます)。
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白山神社は沢里白山権現とも称され、白山川の麓にあり深い渓谷に囲まれています。往古は白山川の上流の白山台地にあり、広大な社領を有していたといわれます。草創は鎌倉時代の文永の頃といわれ、越前国の白山の霊山に参籠し、霊験を得て当山に勧請したのが始まりだといいます。それから約350年後に根城南部氏が寛永4年(1627)遠野へ国替となり、一時往昔の面影も薄れましたが、八戸藩の住人高橋吉左衛門(後の大和守藤原正久)が貞享元年(1684)に再建し、その後は吉左衛門の子、与五右衛門が社職を継ぎ、宝永7年(1710)に上京して神職となり、高橋大和守となりました。寛保2年(1742)7月に神号を正一位白山大権現と称するようになりました。天保2年(1831)10月に、白山大権現堂の再建を願い出て許可されています。
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高橋大和守正方は安藤昌益の門弟でした。男女平等等思想の先駆け、増穂残口の教えを受けていたといわれます。宝暦7年(1757)9月7日に仙台領亀岡八幡宮へ勉学のために倅を連れて八戸を出ています。そのために白山宮司は不在となりましたが、翌8年に白山社職を社家の弟沢田権太夫に引き継いで現在にいたります。
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霊山白山は祖霊の宿る聖山聖域と信じられ、霊山を源流とする川は加賀平野を潤し、豊かな実りをもたらす聖地として農民に篤く崇められています。また、近隣の沢里三級山龍源寺の近くにも白山神社(根城三丁目)が分霊されており、農家の人々は山の神さま、農神さま、種神さまとも呼んでいます。旧暦3月16日には、農神さまと雪神さまの交替の日にあたり、この日はウキウキ(小豆だんごのおしるこ)やオコワ(赤飯)などを支度する日でした。社の笹藪の笹竹を折って持ち帰り、田の水口や畑の畝や畦に挿し立てて、山の神さまの依代にしました。
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石祠、石碑等。
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狛犬一対。
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手水石。
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社殿。
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拝殿向拝。
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正一位白山宮で頂いた説明書きには御祭神と末社の御祭神の説明が事細かに書かれており、神社検定の復習になりました。
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以下に転記しますが各御祭神の説明については省略致します。
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●御祭神:伊邪那岐尊、伊邪那美尊、菊理媛尊(主祭神三座)
●白山宮末社:金山彦命、田力雄命、市杵嶋比売命、少名毘古勅命、猿田毘古命、天照皇大神(八幡大明神、春日大明神※三才幣として中央(天照様)、右(八幡様)、左(春日様))、保食明神、星宮(経津主命)、若宮(遠岐津彦命、於岐津姫命)、聖徳太子、尾幡明神(白虎)、二荒大明神(大己貴命)、諏訪明神(建御名方命、八坂刀売命)、住吉明神(底筒之男命、中筒之男命、上筒之男命)、月読社(月読命)、鹿島明神(武道瓦雷尊)、大神明神(大物主命)、素戔嗚社(素戔嗚命)都合十八社。
●白山宮で鎌倉時代・文永の頃に鎮座した白山宮の参拝坂、男坂・女坂の登り途中の所々に末社の祠があり祀っていました。それは、現古宮の場所であり、現在はこの現在地に遷宮しております。遥か以前に有った事を在った事として感じる事、十年前、五十年前、百年前、地球が出来てからを想像すると、現代は、気忙しい様なもう少しゆったりしてもいいような気持ちが起こります。色々な八百万の神々を解釈するには言葉は全く足りませんが、興味を持って下さると幸いです。
●来歴…草創は鎌倉時代、亀山天皇、文永の頃(1264-1274)越前の国の七つの峰の住人霊峰加賀の白山に登り参籠。7日7夜にして霊験を得、当山(奥州南部八戸縣糠部郡根城の南西に沢里と云う山あり:現古宮)に勧請、白山に鎮座、白山様と敬われる。室町、安土桃山、江戸時代と星霜幾年を経、御水尾天皇、寛永4年(1627)根城南部家遠野へ国替えとなり、後西天皇、寛文4年(1664)八戸南部家創設となる間、来歴知る人無く往昔松杉も倒れ朽ち失せて山荒れ谷水絶へて参詣の人気も少なければ蛍燈をかかげ、露香を燻へて狐狼の外に又かつぐ者なし。時に八戸縣の住人、高橋吉左衛門(後の大和守藤原正久)不測の霊瑞を蒙り、霊元天皇、貞享元年(1684)白山社を再興す。更に東山天皇、元禄7年4月8日(1694)八戸城下の御助請を頂き新築・遷宮(第2回目:現在地)。其の後、総領元亭古障ありて跡を継がず、孫、式大夫上京、卜部家吉田神道より三檀十八の神式を授かり神主の号を許され祖父の名を改めず大和守藤原正方と名乗る。中御門天皇、享保12年(1727)社殿修復、神徳を広め諸人の信心の助力により、享保16年4月5日(1731)神祇官領当長上正二位卜部朝臣兼敬卿より正一位の御神階を奉授、宗源の宣旨極意の神宣により正一位白山宮となる(草創より460余年)。大和守藤原正方、思想家安藤昌益の門下弟子となり、桃園天皇、宝暦7年9月7日(1757)仙台領亀岡八幡宮へ倅、式大夫を勉学の為連れ八戸南部藩を出る。そのまま帰らず正一位白山宮宮司不在となり、翌宝暦8年戌寅(1758)御改め、立合役人、寺社奉行、吉岡権蔵、御勘定所、玉井平蔵他御山目付、御代官、御山奉行、御勘定方、連名にて白山宮境内検地、御改絵図弐枚を記し、正一位白山宮社職を弟権太夫に引き継ぐ。仁孝天皇、天保2年(1831)社殿移設、新築遷宮(第3回目:南に約百米の地)弘化4年(1847)社修復、大正15年(1926)新築遷宮(第4回目:現在地に戻る)。平成19年8月29日増改築(2007)竣工式、斎行、現在に至る。
●御祭礼日(旧暦15日前夜祭、16日本祭でしたが新暦で祭典斎行して居ります)…春大祭(4月16日午前11時祭典執行)。秋大祭(9月16日午前11時祭典執行)、引き続き神楽舞奉納。歳末大祭(12月16日午前11時祭典執行)。
●神道裁許状…澤田相模正藤原為行(寛政四年九月廿五日(1792)神祇官領長上徒二位卜部朝臣良倶)、澤田丹後正藤原定行(文化七年五月十一日(1824)神祇官領長上徒二位卜部朝臣良長)、澤田佐渡正藤原政本(元治元年十月九日(1864)神祇官領長上徒二位卜部朝臣良来)
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