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八戸市大字沢里古宮。この地区近郊は白山台(東白山台、西白山台、南白山台、北白山台)と呼ばれているようです。
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沢里村について…『馬淵川から南側の斜面に広がる地域で、長根リンク脇を流れる白山川(土橋川)が東側を北流する地域である。地名はこの地形から「川の流れる沢のある里」という意味にも受け止められる。当地域の中でも北部の街道に接するあたりは比較的早くから拓けていたものとみられる。馬淵川から南に続く緩やかな斜面が、急斜面になって海抜百メートルほどの高まった丘陵となる部分もその領域とするが、丘の先端部分にあるのが鹿島沢古墳である。田面木遺跡や湯浅屋新田遺跡など同時期の比較的大きな集落遺跡が近くにあることから、被葬者は、地域の有力豪族と考えられている。根城を構成する諸郭の一つに沢里館があり、戦国期には根城南部氏の重臣沢里氏が所領していたとされる。江戸時代の初めには根城南部氏知行地で、記録として現れるのは元和4年(1618)の「南部利直知行宛行目録」に「沢里」とあるのが初見である。寛文4年(1664)に八戸藩領となり、八戸廻に属す。白山川沿いの谷間は「沢内通」と呼ばれ、水田地帯として利用されていた。谷間の下流側は沢里堤となっていた。周辺の山からはしばしば木材が切り出されたことから、文化14年(1817)には田面木村・売市村・櫛引村・是川村など村人を動員して植林も行われている。幕末の文久3年(1863)には売市村との境に足軽町が配置され、新組町の誕生をみている。これもあって沢里堤を新組堤と呼ぶこともあった。寺院は曹洞宗の龍源寺がある。また、白山川沿いには元禄7年(1694)建立と伝える白山神社がある。沢里の領域は、白山川の沢を越えた東側、糠塚平中から南に伸びる上(登)り街道に接する地域も含まれる。現在の長者中学校の所は「沢里字休場」となっており、参勤交代の行列がここで旅支度を整え直し、藩の出迎えもここまで出て行われたとされる。この坂は「一の坂」と呼ばれる急坂だが、この坂の途中の西側には、「福田山」と呼ばれる場所があり、そこに江戸時代の僧侶で、算学者として有名な真法恵賢の墓がある。明治初年の「新撰陸奥国誌」には沢里の地のことを「民家は高いくぼみに架かり、田は少なく畑が多く、土地の状態は下の下で、蕎麦や稗を植えている。」と記している。昭和50年、一部が根城1~8丁目となっている。この地名が根城になるに際しては、沢里の由緒ある地名を残すべきだという声も強く、市議会でも取り上げられたが、結局は根城の地名を付けることになった経緯がある。』
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灯籠一対。
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4.5
狛犬一対。
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5.5
台座には「建立五十周年記念・平成元年旧九月吉日」とありましたが、恐らく台座のみの紀年銘です。
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6.5
地図には「古宮神社」とだけありますが、近くに鎮座する正一位白山宮の古宮になります。白山宮の説明によりますと、「白山宮で鎌倉時代・文永の頃に鎮座した白山宮の参拝坂、男坂・女坂の登り途中の所々に末社の祠があり祀っていました。それは、現古宮の場所であり、現在はこの現在地に遷宮しております。」とあります。
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向拝神額。
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「古宮白山神社」
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本殿。
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