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秋田県湯沢市内舘山。市指定史跡。
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中心市街地の東方の古館山と呼ばれる標高約200mの丘陵地帯に築かれた中世の山城。規模は東西約400m、南北約600m。本丸、二の丸、五社壇、馬場、見張台などの跡が今もその地形を残しています。
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ってことで、各所を見て回ろうと思ったのですが、突然の大雨になり断念しました。再訪するかも知れないので、今後の参考のため、現地案内板とパンフレットを紹介し、記録として残しておきます。
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ほんの少しだけ歩いたのですが、道はきちんと整備されており歩きやすい感じでした。
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案内板より…『湯沢城は鎌倉時代の中期、小野寺氏により稲庭城の支城として築かれたと伝えられる。小野寺氏がのちに戦国大名へと成長する過程で重要な役割を果し、1500年代中頃には一時期小野寺氏の本拠となる。文禄4年(1595)城主小野寺孫七郎のとき、最上勢の進攻により落城し、翌5年(1596)から最上の武将楯岡豊前守満茂が城主となる。慶長7年(1602)佐竹義宣の秋田転封に伴い、佐竹南家三代義種が城代となり整備を重ねるが、元和6年(1620)の一国一城令により破却される。』・『湯沢城は鎌倉時代後期、小野寺氏によって稲庭城の支城として築かれたと伝えられる。小野寺氏はのちに雄勝、平鹿の二郡を領有する戦国大名となるが、その成長過程で湯沢城の果たした役割は大きい。しかし、文禄4年(1595)城主小野寺孫七郎のとき、最上氏の軍勢に攻め入られて落城し、以後最上の武将楯岡豊前守満茂が城主となる。関ヶ原の戦いから2年後の慶長7年(1602)、佐竹義宣の秋田転封にともない、佐竹南家三代義種が湯沢城代となる。義種は城の整備を図り、住居と役所を兼ねたお屋敷を麓に構える。元和6年(1620)山上の城は一国一城令により破却される。やがて、城址はお城山と呼ばれ、また、御屋敷の跡に小学校が建てられたことから裏山である中央公園は学校山と呼ばれ親しまれている。所要時間:現在地(力水)→みはり台跡(30分)。現在地→本丸跡→馬場跡→城址線(45分)。』※案内板に掲載されているもの…【本丸跡・五社壇跡・堀切跡・馬場跡・矢場星場・築堤・城址線・馬洗池・帯屋久太郎歌碑・二の丸跡・裏門・杉跡・見張台跡・馬舎跡・舘の一本松跡・傘松跡・清涼寺・佐竹南家塋域(墓所)・八幡神社・七曲・大手口・大手門のあったところ・王子稲荷(即漚寺跡)・お沢の稲荷さん・大堀切・力水・佐竹家・内廊・中央公園・前森舘・細小路】
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『◎五社:天照大神、春日神、八幡神、稲荷神、宮綱神。◎大堀切:敵を防ぐために造った。◎馬場:馬の運動場である。◎築堤:矢場と鉄砲の射撃場にも使用されたと思われる。◎星場:愛宕山の北側の斜面を星場といい、古い絵図に見える星場は鉄砲の射撃場である。◎久太郎歌碑「ふるさとを愛するものはふるさとの土になれよと鳴く閑古鳥」』
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パンフレットより…『湯沢城は、中心市街地の東方「古館山」と呼ばれる標高約200mの丘陵地帯に築かれた中世の山城であり、東西約400m、南北約600mの規模をもつ。城の西端に位置する見張台からは、正面に鳥海山、眼下には湯沢の西部はもとより横手盆地が一望できる。湯沢城は、鎌倉時代後期、小野寺氏によって稲庭城の支城として築かれ、稙道((1487?~1546)の代には一時小野寺氏の本拠となる。稙道の子輝道(1534~97)の代に横手城(朝倉城)に本拠を移したのちも湯沢城は雄勝の中枢として機能した。しかし、文禄4年(1595)、最上勢の攻撃を受け落城し、文禄5年(1596)から最上の武将楯岡満茂が城主となる。関ヶ原の戦いから2年後の慶長7年(1602)、佐竹義宣の秋田転封にともない、佐竹南家三代義種が城代として入り城を整備した。元和6年(1620)、一国一城令によって湯沢城は破却されたが、本丸、二の丸、五社壇、馬場、見張台などの跡が今もその地形を残している。湯沢市指定文化財(記念物/史跡)昭和42年5月30日指定』
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二の丸跡…『二の丸の広さは約36m四方で、城の東北端に位置していたことから「北の砦」と称された。三方崖に囲まれ、自然地形を利用した郭が連なっている。本丸を中心とした主郭域とは幅4m深さ7mの堀切で分離されていたため、北方からの侵入を防ぐ重要な役割を担った。』
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見張台跡…『湯沢城の西端部に位置し、眼下に雄勝・平鹿の平野部が一望でき、周囲からの侵入に対する監視や対面する出羽丘陵側からの烽火を確認する場所であった。』
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本丸跡…『本丸は東西約80m、南北約30mで、城の中核をなし、陣屋を置いた所である。江戸時代の元和6年(1620)に、幕府の一国一城令により破却されるまで、城の主は小野寺氏、楯岡氏、佐竹氏と変わった。』
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五社壇跡…『本丸の東南端に位置し、湯沢城で最も標高の高いところにあり、広さは東西約10m、南北約20mである。ここは、天照皇大神など五社が祀られ、城主が城地鎮護を祈願したと伝えられる。』
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堀切跡…『堀は敵の侵入を防ぐため、城の周囲に掘られた溝のことであるが、山城において尾根を仕切るように作られた堀を堀切という。湯沢城にはここの他に城域の東部に大堀切を、細小路からの大手道の頂上部と馬場の南端にも堀切を設けていた。』
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馬場跡…『城の南部に位置する馬場は、東西約30m、南北約160mの広さがあり、戦に備えた馬術の稽古施設である。また、西南の隅に土手を築いて弓、鉄砲の稽古場である矢場と星場も備えており総合的な武芸訓練の場所であった。』
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