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青森県上北郡おいらせ町東下谷地。近くにはおいらせ町みなくる館や大山将棋記念館があります。十五世名人大山康晴氏には一度お会いしたことがあるんですよね。
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不動明王鳥居。
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日本一の大いちょう…『樹齢1100年以上(町文化財審議会調査)といわれている大いちょうは、母乳不足の母親が乳がでるように祈ればその願いが叶う霊樹として永く伝えられ、安産の守り神として近郷近在に知れわたっている。昔、慈覚大師という坊さんが、人々に仏の道を教えながら諸国を行脚して、恐山に向うため、この地を通りかかった。大師は、川のほとりの小高い丘の上に腰をおろし、しばし沖の景色に見とれていたが、旅の疲れに、いつのまにか手にした、いちょうの杖によりかかったまま眠りこんでしまった。ねむりの中で不思議な夢をみて、やがて、夕日が西の山に沈むころ眼を覚まし、これは遅くなったと急いで立ち上がろうとしたところ、手にしていた、いちょうの杖に根が生えて動かなかった。そこで、大師は、そのいわれを書いた紙片と一体の不動尊像を、杖の根もとに残して立ち去ったといわれている。因に、昭和63年度環境庁の「全国巨樹巨木調査」によると全国で12番目、東北・北海道では1番目で、いちょうの木としては、日本一である。おいらせ町』
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大いちょうは不動明王堂の境内にあります。
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参道。
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二の鳥居と灯籠一対。
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二の鳥居の向こうにいちょうが見えます。青森県指定天然記念物。樹齢1100年以上、幹周16m、高さ32m。
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うん!?思っていたよりかなり小さめ!?
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そもそも日本一の大いちょうといったら…
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北金ヶ沢の大いちょう」じゃないの!?
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どうやら日本一は過去の話で、現在は「長寿日本一の大いちょう」とのことです。
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周囲にもいちょう。
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地上に張り出した根が不動明王堂参道の石畳を通り抜けて…
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小さないちょうに。
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倒木。
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不動明王堂。御祭神は不動明王。例祭日は1月3日、3月3日、8月3日。碇ヶ関は国上寺末寺。中世の根岸館跡の区域の東端に鎮座。貞観4年、この年宇曽利山神社を勧請開基と云われる慈覚大師が、この頃当地に参り、根岸の里で休憩した時、持っていた杖が根付いたものと伝えられる大銀杏が境内にあります。この地にあった曹洞宗高雲寺は永世4年に五戸村下根岸に引き移りましたが、時のお供人であった左エ門次郎は、当根岸部落の人であったと云われています。この周辺は昔の根岸舘跡地。また、浄土宗専念寺が元亀元年に五戸村に移転建立まで、不動明王の北の丘地にあり、この時代、この周辺は当地方の聖地でした。嘉永5年の勧化帳写があり、二代別当林孫右衛門とあります。林家では昭和当初の頃まで土鼻神社の俗別当であり、不動明王社も兼ねていました。不動明王保存の幟として「槌鼻大明神(天保15年9月)」、「正一位槌鼻大明神(安政7年6月)」、「正一位土鼻大明神(安政7年6月)」、「土鼻大明神(弘化3年6月)」、「不動明王(弘化3年7月3日)」、「正一位土鼻大明神(安政7年6月)」、「土鼻大明神、不動明王(嘉永4年6月)」があります。三浦琢二家文書には「不動神社ハ根岸村ノ東部ニアリ。不格社ニシテ土人オ不動様ト称ス。祭神ハ不動明王ニシテ毎年正月三月七月ノ三日ヲ御縁日トナシ近在ノ老若参詣スルモノ多シ。不動神社ノ由緒来歴ニ関シテハ確カナル旧記ノ存スルモノナク其ノ詳細ヲ知ルヲ得サルモ甚ダ古キ創建ナルハ各種ノ事情ニヨリテ(各種ノ事情トハ一ニハ一千年以上ノ生命ヲ有スル銀杏ノ今尚生存セル事、一ニハ根岸ナル名称ノ考証的見解トヨリナリ俗別当林家ノ古キ事ニヨリテ)想像スルヲ得。左ニ村越清太郎氏蔵ニ係ル勧化帳ヲ抄録シテ同神社ノ縁起ニ代フ」とあります。そして勧化帳の内容です…『五戸通北郡百石村鎮守槌鼻青竜大明神本尊不動明王之儀ハ人皇四十五代聖武天皇之御宇天平年中ヨリ同四十七代慶帝天皇御宇天平宝字年間之頃慈覚大師大日本国中披遊御巡国天下万世泰平為御祈之深山幽谷ノ地ナリ霊地之場所御見立神像仏像御手作御造営御安置披遊千世末代衆生之信心堅固ヲ起カセ玉フ由然ルニ当御国北郡田名部宇曽羅山御開基御下向之不砌百石村槌鼻江杖ヲ曳玉ヘシ不砌南面ノ遠岳東北之海面ヨリ村里之方御眺メ有内不図御目下ノ沼端ニ銀杏之古木有之ヲ披為御覧是常之木ニ非ス万世当村之守護神ト可成木也ト有面御自作聖□動尊不動明王之尊像ヲ為彫作玉ヘ銀杏ノ根際エ御安置遊サレ候由此ニ社地根岸ト名付候也其時或夜太師ノ御夢ニ千歳ヲ経シ蛇沼ヨリ登リ出今度尊太師難有尊像ヲココニ御安置披下候神徳ニ因リ我モ是ヨリ五□三□乃苦痛ヲ満□□ベシト云カト思エバ太師御夢覚サレ玉ヘ仍而不動明王ヲハ本地ト定玉ヘ蛇ヲバ頓而当地之守護神タルベシト御引導有而則青竜大明神ト奉号候由仍而銀杏今ニ枝葉倍茂リ合近国ニ無隠大古木ト栄居候不動明王者象生心□エ入玉ヘ疫病災難救除去サシメ玉ヘ青竜大明神者海上安全漁事繁有ヲ為守給フ事前代ヨリ之申伝ニ御座候得共小村之鎮守殊ニ俗別当之私ニ御座候得者自力ニ及兼候処ヨリ不得止事当御時節柄茂不顧御願申上候儀ニ御座候間御信心之御方々様不拘多少ニ御寄進披下度俯而奉願上候御陰ヲ以必成就仕候ハバ明神ニモ愛憐ヲタレ玉ヘ御家運長久御子孫繁昌ノ御守護可有御座奉存候俗別当之私ニ御座候得共祈念拝祷之作法等ハ存知不申候得共朝夕御寄進御方々様御武運長久御子孫繁昌之儀諸口上ニテ奉祈上候間何年分成就仕候様披成下 奉願上候己上 嘉永五年子五月 百石村槌鼻明神俗別当孫右衛門』
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蟇股・木鼻。現本堂の建立は定かではありませんが、1800年代初期(天保12年再建・当村三ヶ村氏子中)のものとされ、その後、明治37年に大改修、昭和58年12月3日に再建されています。
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お不動様の由來…『慈覚大師奥州巡錫の砌秋の或る一日、根岸東端の小丘に来かゝれり。旅の疲れと風景の佳なるとにより、其處なる石に腰かけて休息せり。伴に携へ耒りし銀杏の杖を頬杖にして、うつらうつらと、しばしまどろみたり。夢の中に老翁あり。大師に呼びかけて願ふ。大師見るに異形の老翁なり。その所用を尋ぬるに、曰く我は阿光坊沼の主なり、大蛇なり、近耒交通開け、沼日々に埋められ、せばまりて、我居住に苦しむ。願はくは老師の威徳により、我に安住の池を與へよと、大師即ち夢中に彼に告げて、曰く、是より東方海岸に大なる沼あり、明神沼と称す。彼處の池、水廣くして底深し、汝行きて彼處に住めと、老翁喜んで去る。大師夢覚めたり、日漸く西に傾く。立たんとして見れば、杖何時の間にか根つきて地上に立てり。杖は銀杏の枝にして太き方を手にせるなれば、枝倒しまになりて根つけるなり。大師奇異の感あり。遂に一不動尊を刻し、此不動尊像を刻せる由を記して像を包み、根づける銀杏の木の根元に置き去れりと。謹言。昭和34年旧3月3日根岸村中、三浦達郎氏より語聞』
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堂宇内。
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巡見使道(境内案内板より)…『この道は藩政時代、数多くの巡見使が通行した公道で、南部藩主第33代利視公を始め、松浦武四郎など有名人が往来した道路です。百石村は北郡浜通り(上北、下北)両郡への玄関口として昔から要衝の地点に在り、また此処根岸地区は本村発祥の地と言われ高雲寺や専念寺を物語る歴史が残っています。昭和58年12月3日。おいらせ町教育委員会・おいらせ町文化財審議会』
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