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青森県弘前市大字堀越川合。堀越城跡にあります。堀越城跡のガイダンス施設としても活用されているため、順序的には堀越城跡を見学する前に立ち寄った方がいいかも知れません。入館無料。開館期間4月17日~11月23日、開館時間午前9時~午後4時(※令和2年現在)。
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かつて弘前市浜の町に建てられていた津軽を代表する江戸時代の農家住宅。木造一部2階建、茅葺屋根の建物で、総床面積437.63㎡(1階388.39㎡・2階49.24㎡)。桁行29.59m、梁間11.45m、一部二階建、寄棟造、茅葺、南及び西・北面庇付。
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元々の家主である石戸谷家の家伝によりますと、石戸谷家はかつて鰺ヶ沢町の種里に住んでいましたが、江戸時代の始めに萢中(現在の浜の町)に移り住み、開拓に従事したとされます。以来明治にいたるまで「萢中の大家」と呼ばれ、藩主も立ち寄る家柄であったと伝えられ、座敷に続く東面には貴賓用の玄関跡と思われる痕跡を残します。
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建物は文政5(1822)年の建築と伝えられていますが確実な証拠はないようです。当家に安政6年(1859年)の普請中諸払帳が残されていることや、木部の風食などからみて江戸時代末期の建築と推定。後世における改造が少なく、江戸時代の豪農建築を知るうえで貴重な建物であることから、昭和60年に弘前市指定有形文化財に指定されました。その後、平成16年に弘前市に寄附されましたが、老朽化が進んでいたため、平成21年度に解体保存。平成27~30年度までの4年間をかけて移築復元工事を行い、令和元年度に内装工事、令和2年4月に全面公開されました。
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堀越城ガイダンス施設「旧石戸谷家住宅」(弘前市指定有形文化財)…『◎旧石戸谷家住宅とは…この建物は、かつて弘前市街地の北西に位置する萢中(現浜の町)に所在した、津軽を代表する豪農・石戸谷家の住宅で、木造、一部二階建、茅葺、総床面積437.63㎡(1階388.39㎡・2階49.24㎡)の規模を誇ります。1985(昭和60)年に弘前市指定有形文化財に指定され、2004(平成16)年に所有者から弘前市に寄贈されました。石戸谷家は、家伝によるとかつて鯵ヶ沢町の種里に住んでおり、その後、江戸時代の初めに萢中に移り住み、地域の開発に貢献した旧家です。藩主も立ち寄る家柄とも伝えられ、「萢中の大家」という呼び名が明治時代まで続いていたとされます。住宅は1822(文政5)年の建築と伝えられますが、その根拠は確認できていません。しかし、1859(安政6)年の建築記録が残されていることや、軒の高い構え、木材の風化の度合いなどからみて、江戸時代末期の19世紀半ばには建築されていたと考えられます。重要文化財・旧平山家住宅(五所川原市、1769(明和6)年建築)と間取りは類似していますが、一部に発展した形態を示しており、また、現存する江戸時代の農家主屋として国内最大級の規模を有するなど、大変貴重な建物です。◎移築工事について…弘前市への寄贈後、住宅の老朽化が顕著となってきたため、市は2009(平成21)年度に緊急策として建物を分解し、部材を保存しました。そして、国指定の史跡である堀越城跡の隣接地に移築して公開するとともに、堀越城跡のガイダンス施設としても整備・活用することとしました。組立工事を2015(平成27)年度から2018(平成30)年度まで、内装及び外構工事を2019(令和元)年度に実施し、2020(令和2)年4月にオープンしました。旧石戸谷家住宅は今後も、弘前藩初代藩主津軽為信の最後の居城である堀越城とともに、弘前市の新たな観光拠点として保存・活用されていきます。~設置2020(令和2)年青森県弘前市教育委員会』
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平面図・竣工図。
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中へ。浴室横のニワ(トグチ)が受付になっていました。入口には堀越城の復元模型などがありました。土間の空間(史跡堀越城跡の展示ゾーン)、板の間の空間(来訪者の憩いのゾーン)、畳の空間(農家住宅の展示ゾーン)の3つのゾーンに大きく分かれています。
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天井。
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ダイドコに隣接するコベヤ。
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階段(裏側から)。コベヤや階段、ナンド等一部は立入禁止です。よって2階へは行けません。
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インキョ。
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ナカザシキ。
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ナカザシキから見たオクザシキ。
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襖絵(複製)。
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襖絵の複製について…『旧石戸谷家住宅の復元工事に伴い、襖等の建具の修復を行いましたが、襖はオクザシキの一部を除き、ほとんどが戦後に張替されたものとなっていました。そのため大半は無地の襖紙へと張替を行っています。その中で、石戸谷家の方より、住宅を市へ寄贈する前に、ナカザシキ北面の襖絵については、菩提寺の鳳松院に寄贈しており、復元工事に際し再移設できないか、とのお話がありました。弘前市では鳳松院のご協力を得て、この襖絵の調査を行い、鳳松院第29世住職で、弘前美術作家連盟委員長等を務めた、洋画家の黒滝大休氏の作で、鳳松院の境内にある松を題材としていること、また、絵の状態は良好であるものの、四曲一双の屏風に打ち直しされていることなどが判明しました。この調査の結果から、市では鳳松院との関係等の歴史的経緯と、襖絵への再復元等の技術的課題等から、原本の移設ではなく、デジタル技術による複製作成を行い、再び襖絵として再現することとしました。』
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オクザシキ。
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掛け軸「高士観瀑図」(複製)弘前藩三代藩主津軽信義筆、弘前市立博物館所蔵。中国の詩人・李白が詠んだ『望盧山瀑布』の情景を描き、「日照香炉生紫煙 遥看瀑布挂長川 飛流直下三千尺 疑是銀河落九天」を書き添えています。信義は宮廷歌壇の中心の中院通茂の門人となり津軽の歌道を振興し、自らも「愚詠和歌集」を編むなど、高い教養を身に付けていたことが知られています。
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オクザシキからエン・ハカマヌギを通った先のべんじょ。
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庭。
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大石武学流庭園です。
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大石武学流庭園について…『大石武学流庭園は、江戸時代末期から近・現代にかけて、津軽地方を中心に盛行した日本庭園の地方様式です。流派には茶道の家元制度に似た「宗家制度」が存在するほか、庭石の配置、石造物の造形などに強い規則性が存在するなど、極めて独自性、地方性の強い庭園様式といえます。石組では、飛石列を「V字」に配することが多く、一方の先には「礼拝石」、もう一方には蹲踞(手水前)を配します。また、蹲踞に対置する位置には「二神石」を配します。礼拝石の先には枯山水または池泉を、その奥に築山と滝石組を設け、その奥に深山石、最奥部に遠山石を配します。石造物では「野夜灯」と呼ばれる自然石を組み合わせた灯籠を用いるのが特徴的です。大石武学流庭園では、飛石列から礼拝石、池、築山・滝石組へと延びる鑑賞上の軸線と、その軸線を挟んで蹲踞と二神石が対置する空間構成という、2つの「決まりごと」が、順守されています。今回整備する本庭園についても、これらの「決まりごと」は順守されていますが、全体的に小さめの庭石、比較的簡素な築山・滝石組や植栽など、大石武学流庭園の中でも古手(明治時代前半頃)の特徴を示す作庭を行っています。』
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受付裏のニワ・イナベヤへ。ニワには為信と堀越城の紹介映像を放映する映像コーナー&歴史体験ワークスペース。イナベヤには石戸谷家から寄贈された物が展示されていました。
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箪笥。
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味噌樽。
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刀箱。
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展示エリアへ。かつてのウマヤです。「為信と堀越城」、「堀越城とは」、「発掘された堀越城」、「城内の様相」、「よみがえる堀越城」、「企画展示」という6つのコーナーがありました。天井には床を兼ねた板が置かれており、かつては飼葉置場や刈子(作業員)の寝泊まりの場に使用されていたようです。それでは一部だけ紹介します(順不同)。
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堀越城の歴史を語る出土品…『【Ⅰ「堀越城」以前の堀越】…過去の発掘調査では、本丸・二之丸・三之丸の各地区から、縄文時代から平安時代にかけての土器などが出土している。明確な地面の痕跡(遺構)が伴うようになるのは、弥生時代中ごろである。この頃は国史跡垂柳遺跡(田舎館村)などで大規模な水田跡が見つかっており、津軽平野南部で広く水田稲作が試みられたと考えられている。次に明確な遺構が確認されるのは飛鳥時代の終わり頃で、三之丸からは津軽地方で検出例の少ない竪穴建物跡が確認されている。なお、平安時代になると城内全域で遺構や遺物が確認されるようになる。【Ⅱ堀越楯から堀越城へ】…鎌倉時代から、堀越楯(館)が築かれたとされる南北朝時代にかけての陶磁器が、城内から出土している。なお、奥州藤原氏の時代(平安時代の終わり頃)の希少な中国産の白磁も出土しており、この頃から城内に何らかの施設が存在した可能性もある。その後の室町時代には継続的に陶磁器が出土するが、1500年代に入ると、急激に出土量が増大する。特に為信が活動し始める1500年代後半からは遺物の質・量ともに充実する。この頃は、瀬戸・美濃(愛知県・岐阜県)や越前(福井県)などの国産の陶器のみならず、遠く国外(中国・朝鮮半島)から運ばれた陶磁器も多量に出土する。【Ⅲ古城の時代】…1611年(慶長16年)、二代藩主津軽信枚が弘前城へ引っ越しする際、堀には屋根材や建築部材など、大量の木製品が廃棄された。この廃棄層には、金箔押の武具や、鋸や刀を模した形代なども含まれており、何らかの儀式行為が行われた可能性もある。城として使用されなくなった江戸時代には、遺物量は急激に減少し、堀へ流れ込む木製品の他、少量の陶磁器が出土するのみとなる。』
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絵図(弘前并近郷之御絵図(部分、貞享2年)、堀越村書上絵図(部分、天和4年))。
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出土品から見た堀越城築城『【Ⅰ堀から出土した木製品】…堀越城の堀からは大量の木製品が出土する。特に、堀底の少し上に堆積した層からは、屋根材や建築部材、道具類など大量の木製品が出土する。これらの木製品は、出土する陶磁器の年代と、建物の柱材などの大型のものがなく、壊れている製品も多いことなどの様相から、1611年(慶長16年)の弘前城への引っ越し時に、廃棄されたものと推定される。なお通常、土などに埋まった木製品は、時間とともに腐り、失われる。しかし、堀内には地下水位が高く、外気から遮断された湿潤な環境にあるため、400年を経てもなお、多くの木製品が腐らずに残っている。【Ⅱ土木工事に関わる出土品】…土を掘ったり、盛ったりする道具として、鍬の柄のほか、スコップのように用いる鋤が出土している。また、下草などを刈ったと思われる鎌の柄も出土した。【Ⅲ建築工事に関わる出土品】…建物などを建てる際に用いる製品として、柱と貫や梁などを固定する際に、部材の間に打ち込む楔が出土している。大小様々な大きさがあることから、用途に応じて使い分けされていたようだ。また、柱材の一部や、釘なども出土している。柱材は、途中で折れているものだけが出土しており、再利用が可能な長い部材などは、次の弘前城へ運ばれたものと推定される。なお、二之丸では金属を熔かす「るつぼ」や、鍛冶工房の跡が見つかっており、城内では金属製品の生産や再加工も行っていたようだ。』
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「為信の城づくり、始まる~堀越城の大改修工事」~より、文禄3年以前の図と文禄3年以後の図。文禄3年に津軽為信は大浦城から堀越城へ居城を移す際、城の大規模な改修工事を行いました。大改修ではそれまでの曲輪を並べる構造(群郭式)から、中心的な曲輪(本丸)を中央に配置し、その周囲を他の曲輪で取り囲む求心的構造へと変更。求心的な構造はそれまでの津軽には存在しなかった城の姿でした。
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城内の暮らしを映す出土品『【Ⅰ食と生活の風景】…城内からは、当時城内で使用されていた器のかけらが多数出土する。碗や皿などの食器としては、中国江西省景徳鎮などで生産された、陶石を原料とする白磁や染付などの磁器、そして現在の愛知県や岐阜県などで生産された陶土を原料とする陶器が使用された。また、擂鉢などの調理具、壷や甕などの貯蔵具には、現在の福井県などで生産された陶器が使用された。その他、桶や樽、曲物などの木製品も使用されている。なお、天目茶碗や茶臼なども出土しており、城内では「茶の湯」も嗜まれていたようだ。【Ⅱ戦の風景】…城内からは戦争に関わる出土品として、鉄砲玉や、小札と呼ばれる鎧の一部などが出土している。特に、本丸からは鋳型から取り出したままの、連結した状態の鉄砲玉が出土しており、当時の製作過程を示す出土品といえる。なお、二之丸の外堀からは、下あご(下顎骨)のない、成人の頭骨のみが出土している。弘前藩官撰史書「津軽一統志」には、家臣による反乱の記録も見られることから、その痕跡となる可能性もある。【Ⅲ祈りの風景】…1611年(慶長16年)の引越しの際、堀内に廃棄された品の中には、何らかの祀りや祈りに使用されたと考えられるものがある。内堀からは、壁に懸ける仏像である懸仏や、木で作られた鋸(形代)などが出土している。なお、同じく内堀から出土した金箔押の武具は、非常に精巧なものであるが、籠手と思われる部分のみが本丸東門の前で出土しており、単なる不要物の廃棄ではなく、地鎮などのために意図的に堀内に置かれた可能性がある。』
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旗指物(所蔵高照神社)複製(企画展示)。
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太刀銘友成作(附糸巻太刀拵、国指定重要文化財、所蔵高照神社)複製(企画展示)。ちなみに本物は高照神社に隣接する高岡の森弘前藩歴史館に展示しています。
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豊臣秀吉と津軽為信~鷹・太刀・坐像が語る両者の関係~『【Ⅰ大名「津軽為信」の誕生と鷹外交】…1589(天正17年)、為信は窮地に陥っていた。この頃までに津軽から南部氏の勢力を追い出し、実効支配するに至っていた為信は、同年出羽北部を拠点とする安東(秋田)実季と手を組み、比内(秋田県大館市)の浅利氏を挟撃した。この動きが南部氏を通じて、豊臣政権に伝わり、1586年(天正14年)に秀吉が示した、大名間の私戦を禁じる「関東・奥羽両国惣無事令」違反とみなされたのだ。そして、同年8月には、豊臣政権の重臣前田利家の書状に「叛逆之族」と記されるに至る。この窮地の中、為信は「鷹」を秀吉に送り、挽回を図る。鷹献上は室町幕府や戦国大名間で頻繁に行われた儀礼であるが、特に秀吉は鷹を好み、鷹献上を諸大名に積極的に求めたとされる。この「鷹外交」が功を奏したのか、為信は同年12月、秀吉から鷹献上の礼状を貰い、そして、翌1590年(天正18年)には大名「津軽為信」として、津軽の領有を認められることとなった。【Ⅱ太刀銘友成-秀吉と為信をつなぐもの-】…高照神社所蔵の重要文化財「太刀銘友成」は、平安時代中期から鎌倉時代初期まで数名が名を継いだ古備前の名工友成の作である。この太刀には、螺鈿や精巧な彫金が用いられた拵があり、その鍔や石突金物などには「桐紋」が施されている。この太刀は、弘前藩の初代藩主津軽為信が太閤秀吉から拝領し、最後の藩主である十二代藩主承昭により高照神社に寄進されたと伝えられている。太刀としての価値もさることながら、秀吉と為信の関連を示す、貴重な資料といえる。【Ⅲ秀吉にとっての為信-最果ての大名、肥前名護屋に在陣する-】…北奥において、九戸政実らの九戸一揆が鎮圧された直後の1591年(天正19年)10月、豊臣秀吉は肥前名護屋城(佐賀県唐津市他)の築城を開始、翌年4月には、この肥前名護屋城を前線基地とし、第一次朝鮮出兵(文禄の役)を開始した。出兵中、肥前名護屋には全国の諸大名が在陣しており、為信も陣屋を構えた。なお、為信の陣屋は秀吉の本城のすぐ横に配置されていた。これは最果ての大名である為信を自身の近くに置くことで、日本の支配が完了したことを示す意味があったと考えられている。』
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津軽、日本を駆ける為信~大名「津軽為信」の誕生~『【Ⅰ「叛逆之族」から近世大名へ】…1589年(天正17年)、津軽での支配を確立した為信は、それまで争っていた檜山城(秋田県能代市)の安東(秋田)氏と和睦、比内(秋田県大館市)へと出兵する。この出兵が、1586年(天正14年)に豊臣秀吉が示した大名同士の私戦を禁じる命令(関東・奥羽両国惣無事令)に違反するものとされ、同年8月の豊臣政権の重臣前田利家の書状には、安東氏とともに「叛逆之族」として記されるなど、為信は窮地に陥った。しかし、その後為信は鷹献上などの外交工作で巻き返しを図り、1590年(天正18年)夏頃までには、豊臣政権から津軽支配を認められたようだ。【Ⅱ為信と秀吉、西国大名】…大名として認められた後、為信は急速に豊臣政権の支配体制に組み込まれる。1590年(天正18年)7月に前田利家による領内検地(石高の確定)、同年12月に妻子とともに上京、さらに翌1591年(天正19年)には南部領で反乱を起こした九戸政実討伐にも動員される。なお、この1591年より、書状の宛名が「南部右京亮」から「津軽右京亮」へと変化しており、この頃に「津軽」の名乗りが確立する。為信は秀吉による朝鮮出兵(文禄の役)にも動員されており、その前線基地である肥前名護屋(佐賀県唐津市他)に陣屋を構える。この在陣時、前田利家からは「表裏之仁(油断ならない人物)」と評されたり、その家臣と言い争いとなるなど、西国大名とのつきあいには苦労していたようだ。【Ⅲ1594年、居城「堀越城」誕生】…1594年(文禄3年)、為信は大浦城(弘前市)から、堀越城へ「寺社仏閣・家中諸士・商工宅居」とともに居城を移したとされる。調査でも16世紀末ころに城の姿を一変させる大改修が行われ、本丸を中心とする城郭構造や礎石建物の導入など、当時の織田信長・豊臣秀吉政権下で発達した城郭技術が取り入れられていることが判明している。また、現在の堀越集落とほぼ同じ範囲に、城戸(門)で区画された城下町が形成されたと考えられており、この頃に為信の居城「堀越城」と「堀越城下」が誕生したことは確かなようだ。』
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旧石戸谷家住宅(※内容がかぶるため一部抜粋)…『◎住宅の価値と特徴…(前略)1859年(安政6年)の建築記録の存在や、軒の高い構え、木材の風化の度合いなどから、江戸時代末期には建築されていたと推定される。重要文化財・旧平山家住宅(五所川原市、1769年(明和6年)建築)と間取りが類似しているものの、一部に発展した形態も示しており、また、現存する江戸時代の農家主屋としては国内最大級の規模を有するなど、大変貴重な建物である。◎展示エリアはかつてのウマヤ…(省略)◎よみがえる豪農のすまい…住宅の移築工事は2015年(平成27年)12月から、2019年(平成31年)3月までの40か月間実施された。工事では、古材を必要最低限修理・修復し、再利用するとともに、部材調査などに基づき、現代での改変箇所を復旧し、近代頃の姿に復元した。なお、地盤改良や耐震補強など、可能な限り目立たない形で、活用のための補強も行っている。◎旧石戸谷家住宅とは…(省略)』
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浜の町に所在した頃の旧石戸谷家住宅。
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パンフレット。
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文章は内容がかぶるため省略。
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