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青森県弘前市堀越。
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詳しくは過去の記事を参照ください。
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写真は外堀、中土塁、二十堀。
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堀越城跡(弘前藩初代藩主津軽為信最後の居城。国指定史跡・津軽氏城跡)…『堀越城は、弘前藩の初代藩主である津軽為信が、最後の居城とした城です。為信が大浦城(弘前市五代)から居城を移した1594年(文禄3年)から、2代藩主信枚が、高岡城(のちの弘前城)へ居城を移すまでの約17年間、津軽の中心として機能しました。1985年(昭和60年)の国史跡指定後、弘前市は1998~2013年(平成10~25年)に発掘調査を実施、この成果を踏まえて、2012~2019年(平成24~令和元年)に整備工事を実施し、2020年(令和2年)4月より全面公開を開始しています。◎堀越城と津軽為信…文献上で「堀越」の名が現れるのは、南北朝時代の1337年(建武4年)のことで、「堀越に楯(館)を築く」と記されています。しかし、この「楯」の詳細は不明です。堀越が再び文献に現れるのは、16世紀後半、「南部右京亮」為信、後の津軽為信が、当時津軽を支配していた南部氏から独立を図る過程においてです。1731年(享保16年)、弘前藩によって編さんされた「津軽一統志」によると、1571年(元亀2年)、為信は堀越城から石川城主南部高信を奇襲、攻め落としたとされます。この頃から、為信による津軽切り取りが開始されたようです。その後、為信は大光寺城浅瀬石城などを攻略、津軽の支配を進め、1591年(天正19年)頃までには、豊臣秀吉から大名として認められたようです。1594年(文禄3年)、為信は大浦城から堀越城へと本拠を移転します。その後、為信の跡目を継いだ2代信枚が高岡城(のちの弘前城)へと本拠を移転する1611年(慶長16年)までの17年間、堀越城は津軽氏の居城として栄えました。◎「為信の城」の様相…過去の発掘調査から、現在残る堀越城の形は、津軽為信が1594年(文禄3年)に行なった大改修によって築かれたものと考えられています。城の中心には、城主の住む本丸があり、その周囲を家臣などが住む二之丸、三之丸、外構などの曲輪が取り囲んでいます。発掘調査では、本丸からは礎石建物、二之丸・三之丸からは掘立柱建物などが発見されており、城内に多くの建物が建ち並んでいたこともわかりました。また、二之丸ではたくさんの鍛冶炉が並んで見つかっていることから、城内には武士だけでなく鉄や銅の製品をつくる職人もいたようです。』
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史跡堀越城全景(2019年撮影)。
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堀越城跡の復元縄張り及び建物跡等配置図。
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堀越城跡案内図等(内容省略)。
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二之丸。
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三之丸。
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三之丸建物跡。
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本丸に架かる内堀木橋。発掘調査成果に基づき、当時の絵図資料や、弘前城跡の現在の橋などの検討も行いながら可能な限り当時の意匠を復元し整備。
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橋から見た内堀・本丸土塁。
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内堀跡…『本丸東門跡正面の内堀底面からは、内堀に架かる木橋と考えられる柱穴跡が確認された。柱穴跡は8基確認され、2列、4対に並んでおり、軸線は本丸御殿広間跡や東門跡などの本丸の建物群と一致する。また、幅は4mで、櫓門と想定される東門中央建物の門扉部分と考えられる、1対の礎石跡の幅と一致している。整備では、確認された柱穴跡の直上で、調査成果と、当時の橋の意匠などを検討し、木橋を整備した。なお、この木橋の柱穴跡の上からは、1611年(慶長11年)の弘前城への移転の際に廃棄されたと考えられる、大量の木製品などが出土している。』
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本丸御殿広間跡(1号礎石建物跡)付近と土塁。
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本丸の熊野宮。
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掘立柱建物跡。
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掘立柱建物跡…『内堀に架かる木橋の三之丸側からは、2棟の掘立柱建物跡が確認された。南側の14号建物跡は、4間(東西)×5間の建物の南西角に、3間四方の建物が結合するような形をしている。この建物は北側の15号建物跡とともに、本丸東門跡前の木橋東口の横に位置することから、詰所として機能していたようだ。整備では、確認された建物跡の直上に、建物の規模を示す平面表示を行った。なお、三之丸からは、大きな掘立柱建物跡や付属する塀なども確認されていることから、重臣の屋敷地などが配置された、重要な曲輪であったと考えられる。』
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南側掘立柱建物跡(14号建物跡)発掘調査平面図(2001年)。
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南側掘立柱建物跡(14号建物跡)現況図。
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整備前の本丸・三之丸西側(2012年)。
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整備後の本丸・三之丸西側(2018年)。
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三之丸…『三之丸は堀越城の中央東側に位置している。平面形は東西150m、南北120m前後の、東西にやや長い長方形の形をしている。南北両側に土塁と外堀が構築されているが、この土塁と外堀との間には、やや規模の小さい中土塁と二重堀がさらに構築されている。この土塁と堀の二重構造は、三之丸にのみ見られる特徴である。西側中央には内堀を渡り、本丸東門へと至る木橋が、また、南東側には虎口(出入口)から外堀を渡り、外構と至る土橋が構築されている。整備前には土塁は高さ1m程度まで削られていた。また、南東側の虎口は調査により発見されたものであり、弘前藩2代藩主の津軽信枚による堀越城から弘前城への移転の際に意図的に埋められたようだ。今回の整備で、土塁は残存する基底部の幅やのり面の傾斜角度、本丸に残る土塁などから推定し、外堀底面から約6~7m、平場から約3m規模で復元している。また、外堀は主に明治時代以降の埋め土を除去し、可能な限り深さを復元した。なお、外堀は北側で約20m、南側で約40mの幅を有する。土塁や外堀は、1594年(文禄3年)に初代為信が大浦城から堀越城へと本拠を移転した際い形成されたものである。この時期の遺構として平場からは掘立柱建物跡、竪穴建物跡、柱列跡などが確認されている。平場の西側からは2棟の掘立柱建物跡、南東側の虎口からは南門跡と想定される掘立柱建物跡が確認されている。なお、曲輪の名称である「三之丸」は、江戸時代の文献に記されていた呼称だが、城として機能していた当時にどのように呼称されていたかは定かでない。』
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展望デッキ(三之丸南門跡土塁上・虎口跡横)へ。
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三之丸南側土塁展望デッキから見た外堀跡・土塁(外構側)。
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三之丸南側土塁展望デッキから見た三之丸跡。
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三之丸南側土塁展望デッキから見た本丸(本丸東門跡・内堀木橋)。
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国道7号方面。
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遠くに旧石戸谷家住宅が見えます。
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三之丸南側土塁展望デッキからの風景(南方)。案内板より…『現在の堀越城の曲輪や土塁・堀の配置は、のちの弘前藩初代藩主、津軽為信が1594年(文禄3年)に大浦城から堀越城へと本拠を移転した際に形成されたものである。この際為信は、石川方面から岩木山やその麓の大浦城方面へと延びていた街道を、城内や城下町に取り込むように配置したと考えられる。なお、この街道は江戸時代いは羽州街道と呼ばれるようになるが、弘前藩は1685年(貞享2年)に石川から堀越の間を廃道とし、堀越南方の小栗山や大沢を経由する新道へと付け替えている。展望デッキからは、南東約4kmに位置する、かつての南部氏の津軽支配の拠点、石川城跡を望むことができる。』
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羽州街道・旧羽州街道(推定)。
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展望デッキを降り、下(堀底)から見た外堀跡・土塁。外堀は二之丸と三之丸の周囲を巡っており、三之丸の南側では30mを超える堀幅を有しています。堀の内側である平場側には、堀を掘った土を盛土にした土塁が築かれ、城内では三之丸の南北両側のみ二重の土塁となっています。二重の土塁は発掘調査成果に基づき復元整備したもので、土塁は外堀底から約6m、中土塁は約3mの高さがあります。
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先ほどの展望デッキ。
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外堀発掘調査平面図。
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外堀位置図。
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三之丸(西地区)から国道7号をくぐって三之丸(東地区)へ。東西連絡路は国道と堀底の高低差を利用して堀を損壊しないように設置されています。
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東西連絡路内には堀越小学校の児童が作成した立派な手作り新聞が数枚貼られています。
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津軽為信新聞!私より絵がうまいです。内容もかなりしっかりしており、とても勉強になります。堀越小学校の皆さん、ありがとう!!
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三之丸(東地区)。
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旧石戸谷家住宅については別記事にしております。
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掘立建物跡と竪穴建物跡。
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『ここでは、発掘調査で確認された掘立柱建物跡の建物規模を平面で表示する「遺構表示」を整備している。掘立柱建物とは、地面に直接柱を埋めて建てられた建物である。この建物跡は幅10間、奥行8間の規模を有し、現在までに城内で確認された掘立柱建物の中で最も大きい規模を有する。周囲には塀や竪穴建物の跡なども確認されており、城内に居住を許された、有力な家臣の屋敷跡であったと推定される。なお、現在確認されている城内で最大の建物は、石を基礎とする、礎石建物である本丸御殿広間跡である。』
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土塁、二重堀、中土塁、外堀。
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三之丸湿地帯。
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北の曲輪を通り、途中にあった嶽きみの弘前直売所にて嶽きみを購入して戻りました。
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