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上長地区の浅水川の右岸丘陵地、八戸市大字豊崎町字上永福寺に鎮座。江戸時代には別当寺であった普賢院と永福寺集落が所在する南の丘陵地。古くは七崎観音、観音堂と称しました。豊崎地区で最も古い神社とされ、旧郷社でした。古くは七崎観音、観音堂と称しました。
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大きな切株。
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こちらは北参道鳥居。
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鳥居扁額はタツサキで「七﨑神社」。
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参道途中にひっそりと鎮座していた観音堂らしき建物。
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6.5
何かはわからず。
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北参道。
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社号標「郷社七﨑神社」(御大典記念・大正4年11月建立)。
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天然記念物「杉の木三株」(八戸市指定文化財・昭和48年1月24日指定)…『七崎神社の社伝によると、天長元年(824)南部四条中納言藤原諸江卿が流されて白銀村に住み漁師となっていました。ある日魚を捕ろうとして、異様な霊体を得、社を構えて安置しました。その後承知元年(834)霊夢によって七崎山に遷宮し、その時植えた9本(7本とも言われている)の杉の内の3本が残ったと言われています。樹齢等は表のとおりですが、いずれも市内では最も古く大きな杉で、他の多くの杉と共に、鎮守の森の静けさを醸し出しています。三本の杉の位置は、左の図の番号のところです。』
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10.5
案内図①の杉。
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樹齢約1000年。樹高40m。地面から2mの直径は2.8m。地面から2mの周囲は8.8m。
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12.5
人間と比較。
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昔の七崎神社は正観音を祀る旧観音堂で、由緒は定かではありませんが盛岡永福寺の所管に属しました。近郷に名高い古刹で信仰が厚かったといいます。里人の口承によりますと、南都の四条中納言藤原諸江が流刑となり、当国八戸の海浜なる白銀浜に上陸し、浜沿いに八太郎まで至り、ここを居として漁師となり介鱗(魚貝類)を獲っていましたが、そのとき網に異相な霊体を獲ます。これがまさに聖観世音菩薩像であり、この像を天長元年(824)4月7日に小祠を建てて安置奉斎しました。その後、承和元年(834)正月7日の霊夢により、七崎永福寺まで諸江卿が供奉して七崎山徳楽寺と奉斎しました。このときに杉の木を9本植えたという伝承も残されています。この杉が現在も境内に3本残っており、八戸市指定文化財天然記念物となっています。宝暦年間の『御領分社堂』によりますと、名を観音堂と称し、四間四面萱葺の建物で、盛岡永福寺持とされ、万治元年(1658)盛岡藩二代藩主南部重直の代と、貞享4年(1687)三代藩主重信の代に再興されたとあります。また、本山派の善行院・当円坊・覚円坊・覚善坊の4人の修験が永福寺領内から三石を給与されて活動していたことも記されています。雑書正徳2年3月20日条には、盛岡永福寺から同地が殺生を禁止されている場所であるにもかかわらず守られていないので、七崎の百姓共へ守るよう申し渡して欲しいという願い出がみえており七崎観音と称しています。寛保3年(1743)に守西上人が著した『奥州南部糠部巡礼次第全』には、「七崎山徳楽寺 本尊正観世音菩薩」とあり、糠部三十三観音の第十五番札所とされます。また、「別当ハ普賢院也 尤森岡ノ永福寺ノ持也 知行五百石ト云大社也」とあり、この頃には普賢院が別当を務めていました。明治元年までは観音堂を称しましたが、同年の神仏分離令により、全て旧例を廃し、仏像を除き、諸神を祭り、更に伊弉冉命は豊間内村より、天照皇太神は扇田村より、稷魂神は野沢村より、菅原道真は五戸村より合祀し、四柱を相殿として郷社に列せられました。御本尊は普賢院に移されています。かつては七崎観音の例大祭の9月7日には、八太郎の蓮沼神社へのお浜入りの行列を整え、長苗代を八太郎にかけて白木のお神輿を担いで通り、その後は高館のうえにかかり、林のなかを蓮沼と北沼との間に下り、沼の向こうの市川通りを行って、北沼の中頃にあるオミギ沼(御神輿沼)に渡御しました。これは隔年に行われた祭事でした。また、ここにも八の太郎にまつわる伝説、十和田湖の南祖坊伝承などが伝えられています。なお、平成20年に神社から江戸時代の補任状(修験者の認証状)6枚が発見されています。年号は文化10年(1813)、天保9年(1838)、安政6年(1859)の3種類で、修験の名は善学院栄貞、善明院栄隆、善行院栄元の3名。江戸時代以前、これらの修験は神社と普賢院との間に坊を構えていたと考えられ、そこは寺院領域として重要な空間でした。現在宮司を務める白石家は善行院から続く家系です。
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手水舎。
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手水石。
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鳥居と狛犬一対(昭和56年7月24日吉日・誕生日記念・五戸町字志戸岸・高橋勇太郎75才、妻トキ73才。明治40年7月24日生)
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17.4
17.8
社号標(大正15年)。
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石灯籠一対。
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19.5
狛犬二対。
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20.4
20.6
20.8
嘉永3年庚戌12月17日(奥の狛犬)。
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21.5
神門。
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22.5
神門には個性的な狐が一対。
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23.5
自作農完成記念碑…『功勞者組合長名白石利八氏、功勞者中村弥一郎氏、川村由太郎氏、田中由松氏。昭和十年七月本村ニ自作農組合ヲ創設シ地主橋本八右衛門氏所有田地五拾町四反余譲渡方ヲ交渉シ首尾ヨク譲渡契約ヲナシ直チニ資金借入方ヲ縣ニ申請シ一部ノ資金ヲ借入レタルノミニテ殆ド借入不能ノ状態トナリ吾等小作人ハ絶望ノ淵ニ沈ミタルカ如ク悲嘆シ居ルヲ見ルニ忍ヒス右四氏ハ昭和十二年七月憤然トシテ資金借入ノ猛運動ヲ起シ日夜奔走シタル結果縣當局ニ於テモ其ノ熱意ニ動カサレ保険局並ニ大藏省預金部ニ極力交渉セシモ時恰モ日支事變ニ際シ財政逼迫ノ場合ニテ容易ニ許可セス到底資金借入モ不可能カト一同為ス所ヲ知ラス茫然トシテ落膽シタルモ右四氏ハ一同ヲ勵マシツツ縣當局ニ請願ニ請願ヲ重ネ二ヶ年ニ渡リ漸ク資金借入ニ成功シ昭和十三年九月五日小作人全部ニ賣渡登記ノ完了ヲ見ルニ至レリ是レ一ニ右四氏誠意ノ賜ニシテ子々孫々末代ニ至ルマテ此ノ恩義ヲ忘レザル為メ茲ニ我等同志相謀リ記念ノ碑ヲ建立ス。昭和十三年九月五日』
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八太郎の唸り石。
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八太郎の唸り石…『遠い昔の話だが、八太郎沼に大蛇がいて村人たちを苦しめていた。それで、七崎山徳楽寺を創建した藤原諸江卿の娘の七崎姫が行って、懲らしめた。その後も毎年、大蛇が悪さをしていないかと見に行っていた。姫の没後にも、馬に乗った供奉や神主に守られた御神輿等で行列を作り、八太郎の「おみこし沼」へ「お浜入り」したと伝えられている。明治に入ると神仏分離となり、この行事もすたれ、村人も行かなくなった。その後ある日、村人が行くと、「う~ん、う~ん」とうなる石があったので、神社に運んだ。すると、うならなくなった、といわれている。なお、「おみこし沼」の辺りは、現在は港湾となっているが、その造成中に「正観音」と刻まれた石碑が発見された。普賢院にお迎えして「北沼観音」として安置している。この石碑は七崎姫を偲んで八太郎周辺に住む人たちが建立したものだろうといわれている。平成28年10月吉日。豊崎の歴史・文化再発見!建立』
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出羽三山行屋堂。
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御神輿堂。
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28.5
案内図②の杉。樹齢約800年。樹高38m。地面から2mの直径は2.4m。地面から2mの周囲は7.5m。
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29.5
七崎村の杉の木(市指定文化財天然記念物)。同神社の社伝や村人の口承によりますと、七崎神社の前身が八太郎(現在の八戸市大字河原木)から現在地へ遷座したという承和元年(834)に、七崎山に植えた9本の杉のうち3本が現在まで残ったといいます。また、上記でも述べたように七曜星(火星・水星・木星・金星・土星・太陽・月)をかたどって植えた7本のうち3本が残ったともされます。幾度も繰り返された間伐や自然災害を免れ、境内の杉木立の中でも一際目立つこれらの大樹は、八戸市内では最高樹齢の名木であり、推定樹齢は800年から1000年程とされます。樹高はそれぞれ約40m、38m、36mで、地面から2mの高さの直径は2.8m、2.4m、1.3mあり、最も太い杉の胸高周囲は9.7m。ちなみに市内で七崎神社の杉に次ぐものとしては、八幡の天狗杉と胸つなぎ杉、館の一本杉が知られ、幹周囲6m以上。青森県内では弘前市十腰内の厳木山神社の杉が同程度の太さです。七崎神社には杉に混じってモミなどの大木があり、森全体として木が育まれることを教えてくれます。また、神社に程近い普賢院にもイチョウやケヤキの巨木があり、永福寺集落の南側一帯が社叢林として守られてきた歴史を物語る景観を残しています。
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30.5
青森県神社庁より…『御祭神伊弉冊命。例祭日9月7日。境内地2,460坪。本殿7.5坪、拝殿18坪。天長元年(1842)4月7日創立。旧社格郷社、明治8年5月列格。南都四条中納言藤原諸江卿が勅勘のため流刑を被り漂泊の身となり奥州階上郡白銀村に上陸し、浜づたいに八太郎まで至り居を卜して変形して漁夫となり介鱗を漁獲しようとした網に異相の霊体を獲る。これ将に正観世音菩薩像であった。よって一小社を建立して安置奉斎する。時に天長元年4月7日なり。その後、承和元年正月7日の霊夢により、七崎、永福寺まで諸江卿が供奉して七崎山徳楽寺と奉斎す。明治初年の神仏分離令により、当時の僧守が「当寺は今後神社として伊弉冉命を祀り、七崎神社と奉称する」とて改めて出発する。』
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石灯籠一対(嘉永3年9月)。
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32.5
石灯籠一対。
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33.5
台座。1964年東京オリンピック記念。
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七崎の観音様…『八戸市の西の郊外、豊崎町字上永福寺のあたりは、七崎ともよばれていました。ここには、七崎の観音様がまつられていることで有名でした。七崎神社のおまつりは、即ち観音様のおまつりでもあったわけです。伝説によりますと、その昔、都の藤原のなにがしというお公卿様が、時の帝のおとがめを受け、みちのくへ流されました。公卿は海路この地にたどりつき、八太郎海岸で漁をしていたところ、砂浜で二寸五分程の観音像を見つけました。有難いものが授かったと、小さなお堂をたて、おまつりしたのが七崎神社の始りだと云われています。千百年余の昔承和元年のことと伝承されています。さらにこのお公卿様の姫君の七崎姫が、観音様のおたすけにより、八太郎沼の悪い竜を退治したとの伝説もあり、ますます霊験あらたな観音様として、当地方の人々の信仰をあつめました。七崎山徳楽寺と称し、糠部三十三観音の第十五番目の札所としても知られていました。明治の神仏分離の時、観音像と仁王像は、近くの宝照山普賢院に移され、イザナミの命を主神とする七崎神社が生れました。七崎山徳楽寺が、観音様のお寺から神社に改称されたのです。』
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七崎姫について…『昔、八太郎(蓮沼)に大蛇が住んでおり、毎年美しい娘を捧げなければならなかった。今年はある村の長者の一人娘と定まっていた。都から流されてきた七崎姫という貴人の姫君がこの話を聞き、一巻のお経と刀を持って身代わりになるという。村人は嘆き悲しみながら姫を神輿に乗せて沼のほとりまで運び、祭壇をしつらえ、姫を残して立ち去った。真夜中、真っ暗な沼の中ほどの水が割れ、ものすごい風と音を立てながら沼の主の大蛇が現れ、姫を引き込もうとした。しかし、姫が一心に念ずる経文の呪力にさえぎられ果たせずに、水底に引き返す。これが繰り返されるうち姫は「今後、村人に祟りをしないように」と誓わせ、大蛇は沼の守り神になると約束した。翌朝、祭壇の前で気を失って倒れている姫の姿を見た村人は必死に介抱する。しかし、ついに姫は息絶えてしまった。これを不憫に思った長者と村人は、七崎山に立派な観音堂を建てて姫を祀り、八太郎沼には明神様を祀って沼に封じ込めた大蛇の霊を慰めたのだという。この七崎姫の話は、土俗信仰と仏教縁起が結び付けられた、竜や蛇に化身する水神と姫神にまつわる説話である。かつて、七崎の観音堂(現七崎神社)から八太郎までお神輿が運ばれる御浜入りの行事があり、それは七崎姫が沼の主と交わした約束を年に一度確かめるために行われたものだという。』
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「青森の伝説(森山泰太郎・北彰介)」には次のようにあります…『河原木から西、七崎にある七崎神社は、承安年間(1171-75)の昔、僧行海が、諸国を巡歴してここに至り、密法を執行した。そのとき行海は、各地を巡ったがこれほどの霊地はないといって、境内に七曜星にかたどって七本の杉を植えた。そのうち三本が、今も50メートルの高さでそびえ、村人は神の杉とあがめている。この七崎神社は、もと七崎観音といった。昔、このあたりの長者の娘が、八太郎沼に住む大蛇の人身御供になることになった。これを聞いて、京から配流されて村に住んでいた公卿の姫がその身代わりになり、沼のほとりで法華経を読んだ。その法力で大蛇は沼に封じこめられたが、姫もまたここで落命してしまった。長者の手で姫が観音に祭られたのが、その由来である。十和田湖の主になる八ノ太郎の話が、八戸周辺にもいろいろ伝えられている。(中略)また八ノ太郎は、下長苗代の八太郎(地名)から出たともいう。大蛇になって十和田山まで来たところ、七崎生まれの十和田様(南祖坊のこと)が、金のわらじの緒がここまで来て切れたといって、ここに住んでいた。そこで八ノ太郎と十和田様が争って、八ノ太郎が負けた。そのとき流した血が、十和田湖の赤い山(御倉山)になっているという。』
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『水神竜神 十和田信仰』(小館衷三)』より…『七崎の七崎神社には昔は正観音を祀る近郷に名高い古刹で村人の信仰はもちろん南部藩の崇敬も厚く、諸仏事・神事が行われ、八太郎浜への神輿の旅は群衆三千余人もの人出であったという。十和田湖の主の南祖坊も幼少の時この観音堂に属すると考えられる月法院に弟子入りしたと伝えられ、別当である普賢院は永福寺の末寺に扱われ、永福寺は盛岡市山岸に移ったが、六十一代目の現住職熊谷精海氏は南祖坊の子孫だという。』
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38.4
38.6
38.8
幣殿・本殿。
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39.4
39.8
こちらの建物は…
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わからず。社務所的な建物。
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案内図③の杉。樹齢約800年。樹高36m。地面から2mの直径は1.3m。地面から2mの周囲は4.2m。
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42.5
その他御神木。
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43.4
43.8
手水石。嘉永が多いですね。
44
こちらの建物は…
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権現様。向かって右が秋葉大権現、左が白山大権現。
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薬師神社。
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稲荷神社。
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蒼前神社。
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月山神社(勧請年月不詳、大正元年9月7日遷座)。読んでいませんが、納められている棟札に由緒が書かれていました。
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その他末社。
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出羽三山登拝記念碑(昭和34年旧4月8日建立)。
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