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青森県八戸市豊崎町上永福寺。馬淵川の支流浅水川右岸の河岸段丘上。永福寺集落の西端。真言宗宝照山普賢院。御本尊愛染明王。
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弘法大師。
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修行法師。「為弘嘉法師霊位成三菩提也三界萬霊成三菩提也」
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建立碑…『修行法師建立にあたって、当山代々先師霊位、檀信徒諸霊位、檀信徒各位並びに地域の皆様方に衷心より感謝申し上げます。当山は十和田山開祖「南祖法師」修行の寺と「十和田山神教記」に記されています。その記述を後世に伝えるとともに、子どもたちの素直で健やかなる成長と、皆さんの息災安穏・長壽・諸願成就・子孫繁栄を願い建立した次第です。西暦2000年、平成12年10月28日願主品田泰永合掌』
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追憶…『平成11年(西暦1999年)10月28日午前、母の携帯に、弘嘉が、中学校の職員室にあるファックス電話から連絡する。「母さん。迎えに来られないか」「母さんは、帰宅途中でバスの中にいるので行けないよ。一時間もすれば、八戸に帰れるよ。会社に着いたら車に乗って帰宅するよ。」「そうだ。迎えに来られない人は、先生が送ってくれるんだって。」「それでは弘ちゃん。先生にちゃんと送っていただきなさい。ちゃんとお礼の言葉をしゃべるんだよ。「うん。わかった。母さんも気を付けてね。」通話し終えると、弘嘉は大声で、「母さんは迎えに来れない。」と言った。その事を聞いた女性教師が、「弘嘉、送って行くから待っていなさい。」別の男性教師も、「私も送って行くよ。」と言った。学校の玄関は、帰宅を待っている生徒たちで溢れていた。弘嘉は、女性教師の車の近くの大きな木の下で待っていた。しかし、教師はやって来なかった。待機場所の指示は無かった。同級生たちは、担任教師が割り当てた車に乗って帰宅したが、弘嘉が乗ることになっていた車は、最初から定員オーバーとなっていた。玄関の外で、帰宅する生徒達を、見守る教師は誰一人いなかった。自宅で待っている祖母、大叔母、叔父を案ずる弘嘉は、乗車できないと判断し、浅水川の堤防である通学路に向って、スニーカーを肩に掛け、大きな雨傘を持ち、教科書が入っているリュックを背負い歩き出した。最初は、山の方からやってくる雨水がさほどでなかったが、落下現場では増水した水が、堤防のフェンスをなぎ倒すぐらいの勢いであった。弘嘉は、フェンスを頼りにし、つかまりながら下校していた。昼食を取らせることなくもう少し下校の時間を早くすれば、死ぬことはなかった。中学校の家族への連絡があれば、死ぬことはなかった。生れる前の世界から選ばれた大切な人の命を、配慮の無い判断で生滅させてしまった。当事者は、生きた一生、このことを忘れることなく人の命の大切さ、命の尊さを自覚してほしいものだ。南無大師遍照金剛 廻向三界萬霊位 平成28年(西暦2016年)12月28日泰永造立』
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龍がいました。
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山門。
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仁王像。享保3年制作。
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9.5
振り返ると、参道から真っ直ぐと道が続くのがわかります。
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鐘楼堂。平成2年再建。
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梵鐘。
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鐘楼堂で読書する方。
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無名の人々の碑…『この鐘楼建立にあたって御協力下さいました方々のお名前を刻して感謝の意を表します。しかし、この刻名の意味は、もう一つあります。それは、大正、昭和という激動の時代を同じ縁の中で生きて来た人々の名を残したいからです。これらの人々の喜びと悲しみを心に味わいながら、共に社会の原動力として働いて来た方々です。しかし、一度鬼籍に入ればその思い出は、親子親類の人々の心には残るものの、やがてこの世からは忘れ去られて行きます。云わば、無名の人々と申してもよいかもしれません。しかし、この人々こそ、その時代の底力となった人々です。私は、あえて無名の人々としてその名を刻し、後世に子孫がこれを仰ぎ見て、新たな心の励ましになるようにとここに名を刻した次第です。平成2年2月18日当山第63世住職品田裕教』
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善晃地藏菩薩。
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子安地蔵菩薩。
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北沼聖観世音菩薩。中央に「聖観音」と刻まれております。元々は八太郎の蓮沼に祀られていたもので、中央に埋め込まれている黄色の石が蓮沼から発見されて現在の形になったようです。
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台座碑文…『昭和二年八月十一日発見につき建設 発起人小田 山道留之助 七崎 品田長峻 中村巳之松 小泉善太 田中長一 中村甚エ門 嶋森丑松 久保杉卯之 小泉長太 田中弘戒 永田竹松 田村次郎 中村弥吉 坂本徳松 中村金松 夏堀市太郎 夏堀福次郎 田中石松 小泉大八 昭和四年末旧八月十七日建立 細工人小田仲道千之助 手伝人日斗早狩操 小田川村清次郎』
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普賢院は承安元年草創。開山は行海。伝説では付近の沼のうわばみを退治してここに寺を築いたといいます。一方、明治9年の新撰陸奥国誌では建仁年間の建立で寛保元年快伝の再興。公式HPによりますと、起源は平安時代にまで遡り、弘仁初期(810年頃)圓鏡上人が開創、承安元年(1171)行海上人開基、享保年間快傅上人中興。
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古くは永福寺という寺院。南部氏が盛岡に拠点を移す際、永福寺も盛岡に改めて建立されることとなり、以後寺院名は普賢院となっています。※永福寺という地名が残されています。
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江戸時代末期の南部領寺社鑑写には「永福寺衆徒五戸七崎村普賢院」とあり、寺領として現米五石が給されていました。江戸時代後期の寺社本末支配附には盛岡永福寺自坊として七崎普賢院の名が見えます。文化7年、火災により大破した本堂修理のために富籤発行の認可を得ています。同年に御本尊の愛染明王坐像が盛岡永福寺より送られ、翌8年に本堂再建。
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藩政期には奥州南部糠部三十三観音の第十五番札所である徳楽寺観音堂の別当寺を務めました。明治の神仏分離によって観音堂は廃され、徳楽寺は七崎神社となります。御本尊の正観音菩薩像は普賢院に移されて、そのまま十五番札所を引き継ぐ形となりました。本堂裏の墓地には旧会津藩士の墓13基があります。南祖坊がここで修行をしたという十和田湖伝説を残します(※豊崎町西部に南祖坊という小字が残っています)。
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22.5
平成31年2月、奇峯学秀作の千手観音が見つかり話題となりました。
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23.5
なお、由緒等詳細は公式HP及びSNS等を参照してみて下さい。
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本堂は文化8年に建立され、幾度もの改修や修繕が重ねられて現在に至っています。※本堂は今年10月から解体工事が始まり、新本堂が令和4年10月に完成予定です。9月の秋彼岸後に本堂にある仏像等は隣接する集会施設に移動して仮本堂を設営。本堂建替えと同時に山門(仁王門)の建替えと仁王像の修繕、更に境内の整備も行われる予定です。
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25.4
25.8
蛙。
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26.5
弘嘉法師不動明王(平成14年7月12日)。
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弘嘉雙龍。
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「よだかの星」を読んで(品田弘嘉・中学二年十四歳)…『心の深みから沸き上がってくるひとすじの思いが、きらきらきらめきながら舞い上がり、星を目指していく。読んでいると、まるで天空に写し出された大きな影絵のような美しさと不思議さを感じました。以前、「銀河鉄道の夜」をはじめとする宮沢賢治の作品に、僕は感動しました。しかし、今回読みましたこの「よだかの星」からは、自ら死を選び、星になろうとした主人公の強く悲しい心が、ぼくの心にじかに伝わってきました。輝くよだかの星の下には、よだかの悲劇があったのです。よだかはみにくい鳥でした。不格好な外見のために他の鳥から、「鳥のつら汚しだ。きっと、かえるの親類か何かだよ。」と、言われて嫌われていました。そんな時鷹が、名前を変えないとつかみ殺すぞ、と、よだかを脅迫したのです。これがよだかの心を徹底的に傷つけることになりました。差別とおどしがまかり通る社会。これが実情なのでしょう。もし、ぼくがよだかの立場にいたとしたら、その境遇にどう立ち向かえたでしょう。多分、鷹の脅迫してきたことに従ったと思います。弱い者であることが第一の悲劇ならば、第二の悲劇は、弱い者でありながら、ある生き物に対しては強い者である自分に気づいたことでしょう。たくさんの虫が、毎晩ぼくに殺される。それがこんなにつらいのだ。ああ、つらい。ぼくは、もう虫を食べないで飢えて死のう。いや、その前に遠くの遠くの空の向こうに行ってしまおう。これが、よだかの苦しみ抜いた結論でした。この世に別れを告げたよだかは、翌朝、決心を行動に移したのです。苦しい現実から逃れて、天へ行くことを非難することもできます。しかし、もがき苦しむようによだかの星-天を目指して飛ぶゆるぎない信念と、これ以上罪を重ねまい、せめて小さな光を出したいという自分を捨てた強さに、ぼくは胸をうたれました。(外の世界が絶望的なら、自分だけは守りたい。自分を慰めて、わずかな自己満足を味わうことのできる、小さくて安全な居場所が欲しい。)そう考えたのではないでしょうか。よだかは、ぼくらが弱肉強食の修羅の世界にいること、生きている限り、その世界に組み込まれてしまっているという現実を教えてくれたのだと思います。遠く、青く、静かに燃え続けているのは星だけでなく、よだかの悲劇が結晶となり、仰ぎ見る私たち自身を照らし出しているからだと思います。(平成11年8月作)』。「体験」(品田弘嘉・中学一年十三歳)…『朝、目が覚めると日差しが射し込み、扉を開けると、いっぱいの光が体をつつみこんだ。そして、次の瞬間、雲の上にいた。まわりを見渡すと、高い山、低い山、そのまわりに広がる原野、遠くに見える広大な海、かすかに走っていく船が見える。ここには自分だけしかいなかった。その時、ぼくはとても不安だった。あちこち歩きまわってみた。もう一つの扉があった。扉を開けた。光がまた自分をつつんだ。目を覚ました。そこは寝床であった。起きて、学校へ行った。川をじっと見ると、夢と同じ風景があった。忘れられない体験だった。(平成10年作)』という碑もありました。
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日清・日露・大東亜戦没者留魂碑(八戸市連合遺族会長・八戸市長岩岡徳兵衛書)。
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七崎小學校長津嶋精夫先生碑。
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