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秋田県鹿角市十和田大湯下ノ湯。下から見た薬師神社。
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下の湯共同浴場前から上ります。
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途中に相馬大作壮図の碑(別記事)があります。
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標柱「薬師神社参道入口」より…『下ノ湯は文明年間(1469-87)すでに共同浴場があり、また、幕末には、南部公専用の御留風呂が建っていた。温泉の療法湯治の神さまとして、少名毘古那神と薬師瑠璃光如来を神仏習合によって祀っており棟札に慶長13年(1608)建立と奥々風土記にもある。』
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石段。かつては両部鳥居があったと思われる痕跡。
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参道。左に相馬大作壮図の碑
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ここにも鳥居があった形跡。
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かつての大湯村。戦国期には見える村名で、鹿角由来記には「大湯村、大湯左衛門家来領知。本名奈良の惣領也。嫡子四郎左衛門、二男治郎左衛門、三男彦左衛門。右四郎左衛門天正十九年の九戸へ一味仕り、生捕られ、九戸と一処に三迫にて切腹。治郎左衛門・彦左衛門は津軽へ落行、後に次(治)郎左衛門召出され知行二百石拝領す。彦左衛門は津軽に奉公す。大湯村、後には大湯五兵衛領知」とあります(南部叢書)。奥々風土記には大湯五兵衛の天正年中の居城という古城跡大湯城の記録があり、鹿角志に「大湯五兵衛は、南部の一門毛馬内靫負が従弟也、大湯・小坂にて知行二千石領するなり」と見えます。中世の奈良一族が九戸の乱によって勢力を縮小し、更に南部一族大湯氏に領主の交代した様子が伺えます。邦内郷村志によりますと、蔵入高174石余・給分采地443石余、馬146、戸数125(うち上町46・下町32・上之湯13・下之湯22、枝郷に当たる折戸・山中・白沢・土沢・集ノ宮新田分12)。普門山大円寺があり、曹洞宗で最上黒滝白川寺末。盛岡報恩寺支配。集宮をまつります。大湯から25里、三戸地区関村から25里の所に山中巡検使休息の一家がありました。東方3里余の山中には不老倉銅山がありました。天保郷帳では1,035石。奥々風土記には、大湯駅が鹿角郡内五駅の1つであること、薬師神社には慶長13年の棟札のあること、大湯温泉は万病に験あり、ことに悪瘡にきくこと、老若男女が年中絶え間なく入湯に集まることを記します。大円寺は天文5年創建で毛馬内氏菩提所。天明8年古川古松軒も湯の出口は4か所で2か所は疝気・中風に効くなどと書いています(東遊雑記)。大湯温泉街から南西の黒又山麓風張・宮野平方面の台地への登り坂は在郷坂と呼ばれましたが、それは大湯の高台にある和町一帯に同心たちの住む武家屋敷が並んでいたからです。来満街道の駅場であることが鹿角五駅の1つに数えられる理由ですが、津軽領・秋田領とも近い関係にあったのも武家屋敷の存在した理由。明治5年には大洪水があり大円寺も被害を受けています。
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拝殿正面の案内板(昭和62年10月14日竣工。撰文薬師神社講中代表佐々木義隆)より…『◎薬師神社祭神:「薬師瑠璃光如耒」…東方浄瑠璃光世界の教主であって十二の大誓願を欲して衆生の病苦を救い、無明の痼疾を癒し、又佛法を敬愛し、善を行い徳を積んで自ら楽しむことを与えた如耒である。薬師像は普通薬壷を持っている。「少名毘古那神」…髙皇産神の子で体は短小で敏捷、忍耐力に富んでいる。この神は天羅摩船(あめのかがみぶね)に乗り鵝(ひむし)の皮の衣服を着て海の彼方から出雲の御大の岬にやって耒て大国主命と協同して国土の経営に任じ、医薬、病気平癒、禁厭(まじない)などの法を創めたという。温泉、商売繁昌、自由、薬剤などを司る神。◎由緒書:大湯という地名が示すとおり昔から温泉が豊富に湧き続けており、下の湯は文明年間(1469-1487)、すでに共同浴場が建っていたと伝えられている。また川原の湯は寛永年間(1624-1644)国道ぞいを流れていた大湯川が現在のように川原の湯の方に流れを変えた大洪水のとき土砂が崩壊して発見されたといわれている。温泉そのものを神よりの恵みとして信仰に結びつけその鎮守の神として少名毘古那神と薬師如耒を神佛習合によって祀っております。日本人は佛教が伝耒する以前から温泉を利用していたと思われます。そして怪我や病気に悩む者がたまたま治ったた経験から温泉がもつ効果に気付き、なにか神霊の特殊な力を認めそこに神を祀った。民間信仰のたくさんの神々は国家統一と共に神話として整理され医薬の面では大国主命が代表格となり、各地の温泉の神も大国さま、別名大己貴神をまつるようになった。もう一人湯治の霊験を保証する神にやはり出雲の神である少名毘古那神、別名恵比寿さまがおります。そしてその後の佛教の広がりによって大国主命を薬師如耒の日本における姿であると薬師にとって代られた。ここの神社でもやはり少名毘古那神を先に祀っておったのだが佛教の興隆によって薬師如耒にとって代られたのだと伝えられております。このことは神仏習合つまり神と仏がまっ■■■に融合する本地垂迹説に基づくものであり、大体において十世紀ごろからこのような思想が成立しました。ところが明治政府は明治元年神道と仏教を分離させる、つまり神社から仏教色採を拭い落とした廃仏毀釈■■による神仏判然令を太政官布告で出しております。その後政府は仏教と神道の協力による国民教化政策をとし■■きりかえます。すなわち仏教をして国家神道に従属させ協力させるのです。当時土地の人々は如耒が位が■■神さまに昇格したのだと申しておりました。そのようなことで薬師堂と云っていたのを薬師神社と称するよ■■■下の湯を「湯ばた」と呼んでおり、薬師さまの湯と言う湧き壷があって石造りの小さな祠が明治の頃までありましたが、その湯で薬師さまが目の病いを治したということが口碑として伝わっております。又、昔は眼病が多かったので目を湯■■■…※以下省略』
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※ボロボロにて一部解読不可能です。特に下部と後半部分は解読不能です。後半はこのような状態なので。
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薬師神社扁額。
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向拝。
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拝殿内。
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大湯温泉郷を見渡せる景色のいい場所です。
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15.5
高所恐怖症の私にはちょっぴり怖い。
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さて、大湯温泉薬師神社参道は大湯鹿倉城搦手口登口ともなっており、本丸跡からも近いとのことで…
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大湯鹿倉城(鹿角市十和田)』の記事内リンクから来てくださった方もいるかと思いますが…
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何と…
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立入禁止っぽい感じで縄が張られていました。今後どうなるかはわかりませんが、本丸跡及び鹿倉神社へと行きたい方は大手口登口(在郷坂途中)から行った方が良さそうです。心が折れた私はリベンジしないと思います。
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