1
秋田県鹿角市十和田大湯古舘。鹿角四十二館の1つ。築城年不明。12kmほど南方には南部藩の防衛前線基地である花輪城があります。天正17年、大館城を陥した功により初代城主大光寺光愛が入っていました。天正19年(1591)、九戸政実の乱にて大湯四朗左衛門昌次(武蔵七党横山党成田氏の系を引く鹿角奈良氏の嫡流)は大里修理親基(大里修理親里を祖とする鹿角安保氏の惣領)と共に九戸氏側に荷担し、南部武将大光寺光愛との激戦を繰り広げた古戦場で、大光寺光愛光愛の包囲猛攻を受けて激戦の末に落城。九戸城へ逃れた大湯昌次はその後、豊臣秀吉奥州仕置軍の攻撃を受け降伏し、九戸政実とともに捕えられ、栗原郡三迫の豊富秀次本陣にて処刑。城跡には武家屋敷跡、本丸跡には鹿倉神社と鎮魂碑が建立されています。
2
かつての大湯村。戦国期には見える村名で、鹿角由来記には「大湯村、大湯左衛門家来領知。本名奈良の惣領也。嫡子四郎左衛門、二男治郎左衛門、三男彦左衛門。右四郎左衛門天正十九年の九戸へ一味仕り、生捕られ、九戸と一処に三迫にて切腹。治郎左衛門・彦左衛門は津軽へ落行、後に次(治)郎左衛門召出され知行二百石拝領す。彦左衛門は津軽に奉公す。大湯村、後には大湯五兵衛領知」とあります(南部叢書)。奥々風土記には大湯五兵衛の天正年中の居城という古城跡大湯城の記録があり、鹿角志に「大湯五兵衛は、南部の一門毛馬内靫負が従弟也、大湯・小坂にて知行二千石領するなり」と見えます。中世の奈良一族が九戸の乱によって勢力を縮小し、更に南部一族大湯氏に領主の交代した様子が伺えます。邦内郷村志によりますと、蔵入高174石余・給分采地443石余、馬146、戸数125(うち上町46・下町32・上之湯13・下之湯22、枝郷に当たる折戸・山中・白沢・土沢・集ノ宮新田分12)。普門山大円寺があり、曹洞宗で最上黒滝白川寺末。盛岡報恩寺支配。集宮をまつります。大湯から25里、三戸地区関村から25里の所に山中巡検使休息の一家がありました。東方3里余の山中には不老倉銅山がありました。天保郷帳では1,035石。奥々風土記には、大湯駅が鹿角郡内五駅の1つであること、薬師神社には慶長13年の棟札のあること、大湯温泉は万病に験あり、ことに悪瘡にきくこと、老若男女が年中絶え間なく入湯に集まることを記します。大円寺は天文5年創建で毛馬内氏菩提所。天明8年古川古松軒も湯の出口は4か所で2か所は疝気・中風に効くなどと書いています(東遊雑記)。大湯温泉街から南西の黒又山麓風張・宮野平方面の台地への登り坂は在郷坂と呼ばれましたが、それは大湯の高台にある和町一帯に同心たちの住む武家屋敷が並んでいたからです。来満街道の駅場であることが鹿角五駅の1つに数えられる理由ですが、津軽領・秋田領とも近い関係にあったのも武家屋敷の存在した理由。明治5年には大洪水があり大円寺も被害を受けています。
3
3.5
「鹿倉城跡」標柱より…『この城は天正19年(1591年)九戸戦争の際、九戸方に味方した大湯四郎左衛門昌次が南部の武将、大光寺正親の包囲猛攻を受け、激戦した古戦場である。』
4
大手口登口から途中まで登ったのですが、入口にあった地図を冷静に見ると、下の湯共同浴場(大湯下ノ湯)のある薬師神社参道入口から向かった方がいい感じがしたので戻ってきました。鹿角の熊怖いし。
5
6
なお、本丸跡にある鎮魂之碑は平成4年に九戸の乱400年祭の鎮魂の式が営まれた際に建立されたもので、その碑文は『鹿倉城は古来鹿角北東の関門来満道をする天険の要塞たり。天正19年九戸争乱起こるや、城将大湯四郎左衛門昌次、九戸方に味方し敢然と兵を挙ぐ。三戸方大挙して押し寄せるも勇将の下弱卒無し、堅塁を固守して奮戦激闘すること連日に及ぶ。遂に力尽きて九戸に退き、かの地に篭る。やがて九戸落城し、四郎左衛門反逆の顕人として、栗原郡三迫、豊臣秀次本陣にて刑に処せられる。「嗚呼戦国掉尾の難に殉じたる幾多の英魂、古山に帰りてここに鎮まる。後人皆往昔を回想し、愛慕の情尽きることなし。」』とあります。
7
在郷坂(武家屋敷方面)。
8
在郷坂(大湯城跡大圓寺方面)。
9
にほんブログ村 地域生活(街) 東北ブログ 東北情報へ