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秋田県鹿角市十和田大湯和町。大湯城跡。大湯村についてですが、鹿角由来記によりますと「大湯村、大湯左衛門家来領知。本名奈良の惣領也。嫡子四郎左衛門、二男治郎左衛門、三男彦左衛門。右四郎左衛門天正十九年の九戸へ一味仕り、生捕られ、九戸と一処に三迫にて切腹。治郎左衛門・彦左衛門は津軽へ落行、後に次(治)郎左衛門召出され知行二百石拝領す。彦左衛門は津軽に奉公す。大湯村、後には大湯五兵衛領知」とあります(南部叢書)。奥々風土記に大湯五兵衛の天正年中の居城という古城跡大湯城の記録があり、「鹿角志」に「大湯五兵衛は、南部の一門毛馬内靫負が従弟也、大湯・小坂にて知行二千石領するなり」と見えます。中世の奈良一族が九戸の乱によって勢力を縮小し、更に南部一族大湯氏に領主の交代した様子が伺えます。江戸期には鹿角郡毛馬内通りのうち。南部藩領。邦内郷村志によりますと、蔵入高174石余・給分采地443石余、馬146、戸数125(うち上町46・下町32・上之湯13・下之湯22、枝郷に当たる折戸・山中・白沢・土沢・集ノ宮新田分12)。普門山大円寺がみえ、曹洞宗で最上黒滝白川寺末。盛岡報恩寺支配。集宮をまつります。大湯から25里、三戸地区関村から25里の所に山中巡検使休息の一家がありました。東方3里余の山中には不老倉銅山がありました。天保郷帳では1035石。奥々風土記によりますと、大湯駅が鹿角郡内五駅の1つであること、薬師神社には慶長13年の棟札のあること、大湯温泉は万病に験あり、殊に悪瘡にきくこと、老若男女が年中絶え間なく入湯に集まることを記します。大円寺は天文5年創建で毛馬内氏菩提所といいます。天明8年古川古松軒も湯の出口は4か所で、2か所は疝気・中風に効くなどと書いています(東遊雑記)。大湯温泉街から南西の黒又山麓風張・宮野平方面の台地への登り坂は在郷坂と呼ばれましたが、それは大湯の高台にある和町一帯に同心たちの住む武家屋敷が並んでいたからです。来満街道の駅場であることが鹿角五駅の1つに数えられる理由ですが、津軽領・秋田領とも近い関係にあったのも武家屋敷の存在した理由です。明治5年に大洪水があり大円寺も被害を受けています。
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写真は上館坂です。
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標柱「上館坂」より…『江戸時代南部藩の主要街道であった来満街道はここから大湯城に登った。途中から侍道と百姓道に別れていた。』
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現在地です。
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この地図を頼りに探索します。
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このルートを歩いて本丸(最終地点は清姫神社に設定)を目指したいと思います(往路:青・復路:赤)。なお、神明社大円寺については別記事にしております。
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7.5
ちなみに本丸跡にだけ行きたい人は柳館と向新城の間の道を通り、この辺(下屋敷)まで車で行くことが可能で、そこからだと勾配も少なくあっという間に着きます。
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なお、未確認ではありますが、大円寺の門杉付近からも近そうですね。
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神明社付近。
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神明社本殿裏手に搦手口があります。
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搦手口標柱手前にお化け石。
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お化け石案内板…『むかし、大湯城のあたりを毎晩馬に乗った怪しい武者が駆け廻っていた。ある夜、人心を惑わすものと怒った殿様は、その武者を一刀両断した。その武者は金毛九尾のお化け狐であってその死体はこの石になって残っていた。平成10年12月吉日大湯郷土研究会』
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お化け石にびびっていてはいけません。ここより上はたまに熊さんが出るそうです。
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大湯城搦手口標柱(※搦手口の説明ではありません)…『搦手口に通称「お化け石」あり、途中に井戸跡、薬師館あり。』
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私は一応ヌンチャクを持って来たので熊が出ても大丈夫です。
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薬師館。
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薬師神社は小祠でした。かつて鳥居もあったようですが現在はありません。
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棟札は上部の「奉納薬師…」と「昭和四十…」まで見えました。
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ヌンチャクを振り回しながら更に上へと進みます。誰かに遭遇したら熊よりも危ない存在に思われることでしょう。
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何やら標柱が見えてきました。
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大湯新城(本丸)跡の標柱でした。思っていたよりも近かったです。
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標柱より…『大湯鹿倉城に対して大湯新城と称す。明暦3年以降(1657)赤尾又兵衛の築城と伝えられている。寛文5年(1665)南部藩重臣北氏の封地となり、その支配下に北家家臣団と御預り御同心隊による藩境警備の根拠地であった。』
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23.5
「大湯城本丸要害屋敷の図」という大きな案内板がありました。
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看板は大きいですけど図が細かいので東西分割します。
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25.4
25.8
大湯氏について(Wikipediaより)…『大湯家は、武蔵七党横山党成田氏の系を引く鹿角奈良氏の嫡流とされ、陸奥国鹿角郡大湯村(現秋田県鹿角市)の在名により氏とした。鎌倉中期に鹿角に入部し、室町-戦国期にかけては安東氏や津軽氏と結び、永禄元年(1558年)安東愛季の誘いに応じ名代の大高筑前と見参したり、同8年(1566年)秋田方の廻文に加判を行った一人として名を連ね、戦国後期には他の鹿角郡の領主と同様に南部勢力下にあり、天正17年(1589年)南部信直の比内大館城攻めにはその麾下を努めている。大湯昌光は、南部信直に仕え、大湯村及び近村2000石を領知し、大湯館城に住して、南部支族の毛馬内氏と縁戚を重ねていたが、 天正19年(1591年)の九戸政実の乱では、兄弟相対峙する状況となり、兄の彦六(五兵衛)昌忠は信直麾下の包囲軍の中に、次子四郎左衛門昌次が嫡子四郎左衛門、二男治郎左衛門、三男彦左衛門を伴い、同郷の大里修理大夫親治と共に九戸方の重鎮として荷担したが、 大湯城は三戸方の大光寺正親勢の包囲攻撃を受けて落城したため九戸城に遁れたが、九戸城降伏のさい、政実ら主だった首謀者達として集められて栗原郡三迫(宮城県栗原市)で処刑されたが、治郎左衛門、彦左衛門の兄弟は津軽へ落行、後に次(治)郎左衛門は召し出され知行200石を拝領し、彦左衛門は津軽に奉公した。大湯氏の直系は、五兵衛昌忠の子 多聞之助正邦が正保年間(1644~48年)に死去することに及んで断絶した。』(※以降は上記標柱の内容参照)
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大湯城館神、八幡神社跡。かつては御神木(モミの巨木)もあったようです。
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小祠。館神の御本尊は金仏の観音様と言われていました。
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神社後方の御神木と苔生した切り株が気になりました。横には案内板らしきものが倒れていましたが全く読み取れませんでした。
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ってことで『大湯城跡(大湯新城稲荷等)』へ続く。
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