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西津軽郡鰺ヶ沢町南浮田町。県道31号沿いに鎮座。鎮座地が少し移動して参拝しやすくなっていました。
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社号標(大正9年8月17日南浮田村中)。
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南浮田は鳴沢川下流左岸に位置し、南部には岩木山北麓に続く丘陵地が広がります。集落は河岸平野と丘陵地の境に東西に細長く発達。浮田の地名の由来ですが、当地域が池沼のかれあとのように湿潤で、藻などの浮いた池のように見える田地であったために名付けられたといいます。天文年間の津軽郡中名字に見える「浮大刀」は当地を指すと考えられます。南方の丘陵上に戸波城跡と鉢巻館跡があります。
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南浮田村は江戸期から明治22年の村名。津軽郡鼻和庄のうち。弘前藩領。江戸前期においては当村を浮田村と称したり、当村と北浮田村をあわせて浮田村と呼んだりと混用されています。金氏由緒書によりますと、浮田村は天文年間金氏によって開発され、慶長2年には金出雲守信就が下新田一統の恩賞に500石加増として浮田田地を賜っています。また、江戸初期の通観録によりますと、浮田館主が神豊前(丹波守)とあります。国日記の寛文2年12月16日の条では、小知行三浦権兵衛が浮田村における高1000石の開発願いをしており、同寛文3年5月12日の条で、中村川から用水を引き浮田村野内を御蔵派に仕立てたことが記されています。なお、この浮田村は南・北両浮田村をあわせた浮田村と考えられ、寛文~貞享年間頃の郷帳類にも浮田村は見えますが、南浮田村・北浮田村は見えません。元禄年間には再び南・北両浮田村に分けて把握されるようになりますが、その後も南浮田村は単に浮田村と呼ばれることもあったと思われ、元禄3年には潟田(浮田)村と見えており、高杉組に属し村位は中。享保12年小屋敷・湯舟・山崎・北浮田の各村とともに南浮田村は高杉組から藤代組に管轄が移り、宝暦4年には更に赤石組へかわっています。神社としては延宝年間(1673-1681)に宝冷権現宮と千手観音があり、嘉永・安政年間(1848-1860)に宝竜宮があったといいます。明治初年には村内南部に高倉神社があります。
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宝冷権現宮は宝竜宮ですね。特に南部方面では法領・法霊、津軽では宝竜の字をあてることが多いです。恐らくこの宝竜宮が当高倉神社であり、神仏分離によって改称されたものと思われます。
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青森県神社庁によりますと草創年月不詳とありますが、草創は少なくとも延宝年間にまで遡るものと思われます。明治6年村社列格。
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御祭神は高皇産靈命。例祭日は7月31日。
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拝殿内。新しくていい感じです。
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狛犬一対(大正14年旧4月15日、秋元由太郎敬白)。
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10.5
境内社。
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高倉神社の横に鎮座。
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鳥居の紀年銘は令和元年9月吉日。
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羽黒神社です。
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羽黒山。
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羽黒神社の周りには物凄い数の四つ葉がありました。
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四つ葉ゾーン!
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例えば…わかるかな?
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縁起がいいですね。
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この後、深浦に行って千畳敷センターで海を眺めながらテラスでお食事。
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写真は生ウニ丼とホタテ貝焼き。
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その後は海に浸かりながらのシーグラス拾いです。
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22.5
コロナ禍の遊び。
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