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秋田県大仙市協和境下台。鳥居に三つ柏の神紋。参道石灯籠一対(平成3年9月台風19号復旧事業記念・平成4年5月3日)・狛犬一対(平成19年10月吉日)。
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二の鳥居。
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スギ並木。
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まほろば唐松「中世の館唐松城」が近くにあります。
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スギ並木については案内板(下記)を参照ください。
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唐松神社社号標。
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横には唐松山天日宮社号標と入口鳥居があります。参道が交差しますが注連縄のある一際大きいスギ2本は唐松山天日宮入口に合わせて配されているようにも見えます。
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案内板「学びをナビする大仙市の文化財マップ(①奥田酒造店舗兼主屋②唐松神社奥殿③しだれ桜④鬢垂のシダレグリ⑤唐松神社の杉並木⑥愛染明王坐像⑦芦沢共同墓地の板碑⑧唐松城跡⑨萬松寺のシダレザクラ⑩日暮の一本杉)※説明は省略
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Ⅰ雄物川・玉川舟運と旧羽州街道の歴史探訪コース(①角間川の町並み(大曲)②浜倉(大曲)③長野御役屋跡(中仙)④産業展示館(大曲)⑤御前井(大曲)⑥一里塚(神岡))、Ⅱ仙北平野の旧家と蔵と庭めぐりコース(①坂本東嶽邸(美郷町千屋)②旧池田氏庭園本家庭園・分家庭園(仙北)③福乃友酒造(神岡)④鈴木酒造(中仙)⑤強首樅峰苑(西仙北))、Ⅲ古代城柵と中世城館をめぐる歴史旅コース(①払田柵跡~堀田城跡(真山公園)②十六沢城(十六沢城跡公園)③八乙女城跡(八乙女公園)④松山城跡(姫神公園)⑤古四王神社本殿(大曲))、Ⅳ名工・宮大工「円満造」作品鑑賞コース(①雲巌寺(仙北市角館)②円満造生家(中仙)③諏訪堂(中仙)④高梨神社(仙北)⑤南陽院(仙北))
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案内板「唐松神社」…『唐松神社は、古くから子宝・安産祈願の神社として広く崇敬されています。社殿は、手前の拝殿とその奥の本殿が一棟となった造りで、本殿の中に県指定有形文化財の奥殿があります。拝殿と本殿の建築年代は江戸時代中期(18世紀中頃)、奥殿は室町時代末期(16世紀後半)と推定されています。拝殿正面の向拝の内側には、彫刻を施した梁などの部材が複雑に組まれ、柱の両端に突き出た木鼻には獅子が彫刻されています。奥殿は、屋根が杮葺き、丸柱で、三方に高欄付きの縁がまわり、正面に六段の階段が付いています。向拝内部の梁には、牡丹唐草を彫刻し彩色を施した優美な装飾が見られるなど、全体的に江戸時代の技術や装飾を今に伝える県内の代表的な神社建築の一つです。参道のスギ並木は県指定天然記念物であり、延宝8年(1680)に藩主佐竹義処(よしずみ)が植えたと伝えられていますが、並木の中の特に太いものは延宝8年以前からの天然杉と言われ、樹齢400年以上と推定される巨木も混じっています。また、唐松神社には県指定有形文化財の木造獅子頭が伝わっています。これは神社に伝わる神楽に使われたものと言われ、室町時代末期(16世紀後半)の製作と推定されています。』
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英語もどうぞ。
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龍一対(物部長順学位授位記念・平成22年4月)。
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秋田県指定文化財「唐松神社の杉並木」標柱…『唐松神社の二の鳥居から社殿にいたる参道の両側に立っているスギ並木で、延宝8年(1680)に神社をこの地に移築した際、参道の両側に植えられたスギも現在まで残っている。距離にして約160mの間に推定樹齢100年から330年のスギが約60本あり、樹勢は極めて旺盛である。幹周りが4mを超えるものもあり、まっすぐに伸びた樹高は平均30mに達する県内では数少ないスギ並木である。』
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三の鳥居。
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狛犬一対。
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中国製石獅子ですね。
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手水舎。
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「蝉すずし神威に息をととのえる」露月山人、「千木高し唐松山のほととぎす」和風。
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大正14年4月23日物部碧桃、物部蘇想。
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大仙市指定文化財「唐松神社蛇頭神楽」…『寛治元年(1087)八幡太郎義家が、後三年合戦(後三年の役)の戦勝を祈願し、その祈願成就のお礼の参詣の際、仙北郡内(県南三郡)を霞(かすみ…支配・管轄地域のこと)として与え、蛇頭神楽を巡回させたのが始まりとされている。寿舞、獅子舞、山の神舞の三つの舞いからなる。地域を巡回する神楽は「唐松さんのお獅子」と呼ばれ、人々は沿道に出てこれを迎えた。秋田県最古の蛇頭神楽といわれる。』
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案内板より…『◆秋田県指定…有形文化財(建造物)唐松神社奥殿一棟(昭和48年12月11日指定)・有形文化財(工芸)木造獅子頭一頭(昭和50年4月10日指定)・天然記念物、唐松神社のスギ並木(昭和48年12月11日指定。所在地:仙北郡協和町境字下台86・91番地。所有者:唐松神社、唐松山天日宮。◆唐松神社奥殿…唐松神社は古くから女性の信仰をあつめ、延宝年間(1673-80)山頂より現在地に移建された。拝殿の中に置かれている奥殿は、一間社流造、屋根は柿葺で、四隅には丸柱を用い、三方に高欄付きの廻し縁、正面に六段の階段をつけている。この建物は、斗栱や軸部などの構造技法、簡素ながら優美な装飾などから、室町末期の建造と考えられる。◆木造獅子頭…獅子頭は、唐松神社に古くから伝来したもので、全体は黒漆塗、口と眼の周りは朱塗で、室町時代末期の様式を伝えている。本県で最も古い獅子頭である。◆唐松神社のスギ並木…スギ並木は、唐松神社の二の鳥居から社殿にいたる参道 の両側にあり、推定樹令約300年、樹高45メートル、最大のものは目通り幹囲4.3メートルである。延宝8年(1680)、藩主佐竹義処の時代に参道の両側にスギを植えたといわれ、県内でみられる数少ないスギ並木の代表的なものである。』
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唐松神社奥殿と菅江真澄の道の標柱は草木に埋もれていたためパス。
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参道。
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灯籠一対。
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立派な灯籠です。
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参道。
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木製灯籠一対、石灯籠が二対。
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一基は大正15年旧4月吉日。
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一基は天明6歳丙午6月吉日。
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苔チェック。
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四の鳥居。扁額には「唐松山」。
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かと思ったら標柱には三の鳥居とありました。でも四の鳥居。
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狛犬一対。
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紀年銘は上の石灯籠と同じく天明6歳丙午6月吉日。
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土木建築の神様(有限会社丸陽建設工業)。
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参道両側に末社が並んでいます。
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神社庁によりますと、境内神社として唐松山権現社、稲荷神社、山神社、水神社、手の神さま、八幡神社があるようです。
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こちらは山の神さま(山神社)。
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隣も山神社なのかな。
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判断できず。
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石灯籠一対と境内神社。
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たぶん青面金剛。
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こちらはわからず。
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裏には土俵。
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こちら向って左が…
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石碑がありますが判別できず。唐松山権現社かな。※ネット上では三神鎮座(応神天皇、大国主大神、水岐能女神)となっていました。神社庁の境内神社と一致しません。
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向って右が金毘羅大権現。
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こちら向かって左が…
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御休台稲荷神社。
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右が手の神様。
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神輿庫・古札納所。
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御神輿。
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秋田県天然記念物唐松神社参道杉並木(樹齢約300年以上、昭和48年12月1日指定)。
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かつては唐松山頂に鎮座していましたが下り宮です。下記の佐竹義処(下馬札)の話に由来。
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御祭神は軻遇突命、息気長足姫命、豊宇気姫命、高皇魂命、神皇魂命。例祭日5月3日。特殊神事御護摩祭(1月8日)。
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神社庁より…『神社棟札には、康平癸卯6年八幡太郎源義家が、出羽国仙北郡境庄唐松山勝軍権地社を修復し、神田72町歩を寄進し、蛇頭神楽を奉納したとあり、又棟札には延宝庚申八幡太郎源義家朝臣佐竹冠者源義処朝臣が、出羽国仙北郡境庄唐松山愛宕将軍権現修復とある。物部家古記録には、守屋一子那加世東奥の地に分け入り、この地に祖先神を祀る韓服宮を建立したと記され、後に深く崇敬された神功皇后を合祀奉ったとある。小野寺氏や、佐竹家の崇敬と庇護を受け、特に江戸時代には崇敬社として、広く県内の女性の講中の組織が結成され、蛇頭神楽の巡回を命ぜられた。明治6年郷社に列する。現在も唐松講、八日講として深く信仰され、女性一代の守神、授子安産子安の神様として、県内外に崇敬されている。』
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拝殿神額「唐松山」。横に献句。
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拝殿内。鈴が凄い!
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子宝祈願成就のお礼参りに鈴が奉納されるそうです。
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wikipediaより一部抜粋。
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ちょっと長いので興味のない方はスクロール。※記事は続きます。
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『【由緒】宮司を務める秋田物部氏に伝わり、一般に偽書とされている「物部文書」の1つ(韓服宮物部氏記録)には、物部守屋の一子、那加世が一族滅亡の後に捕鳥男速にかくまわれ大和から東奥へ落ち延びたが、逆合(現秋田県大仙市協和町境)で櫃が動かなくなって立ち往生してしまい、老人に土地のいわれをたずねたところ息長帯姫命を祭る韓服林という場所であると教えられ、社殿を修復したとされる。しかし別の「物部文書」の1つである「物部家系図」では、物部氏が逆合に定着したのは982年(天元5年)物部長文の代であり、同年に天地創成の神や天神地祇を、996年(長徳2年)に氏神である火結神(迦具土神)を祭ったとしている。【名の由来】韓服宮(からまつのみや)という名は神功皇后の三韓征伐で「韓国(からくに)を征服したこと」を讃えて膽咋連が社を建立した故事に由来する。韓服神社(からまつじんじゃ)が現在の唐松神社の名で記録されるようになるのは1509年(永正6年)以降である。なお膽咋連は三韓征伐の際、懐妊中の神功皇后に腹帯を献上し後に下賜され、これが秋田物部氏に伝わり神宝とされたといわれる。【唐松山光雲寺の成立】「物部文書」の「物部家系図」には、八幡太郎義家が前九年の役で安倍氏の残党を追っていたが、神社の近くで馬が田にはまり、逆に討ち取られそうになったところ1人の勇士に助けられた。勇士の正体が神社の祭神・愛子神(迦具土神)の化身であることが分かり、義家はこの恩に報いて神社を修復した上、神田72町歩を寄進したという話が伝わっている。この修復については1063年(康平癸卯6年)に行われたと記録する神社棟札も現存していることから、義家が参拝したいう伝説も事実と考えられる。また義家は前九年の役で戦功のあった物部長頼の父(あるいは兄)の長秀を修験として唐松山光雲寺明寿の号を贈り、このとき神仏習合の唐松山光雲寺となった。その後、義家は後三年の役の戦勝を当社に祈願し勝利したことから、1087年(寛治元年)より山北地方(仙北地方)を霞として与え、蛇頭神楽の巡業を許可したと伝えられ、これが唐松神社蛇頭神楽の始まりとされる。現在唐松神社には3つの獅子頭が保存されており、うち室町期の木造獅子頭は県指定有形文化財になっている。1680年(延宝8年)、秋田藩主佐竹義処が行った修復の際に唐松岳から現在の鎮座地へ拝殿が移された。この移転にまつわり、義処が神社の前を通る際は馬から降りなければならないとする下馬札を無視し騎乗したまま通過したため神罰に触れて落馬し、怒った義処が社殿を窪地へ移転させ本堂を格子のついた覆堂に閉じ込めてしまったが、再び神罰に触れて落馬し、加えて病を得たため、低地へ移動した社殿を拝殿とし、山の本堂を整備し直したとする伝説が残っている。しかし万治から延宝にかけて藩主導で羽州街道沿いに宿場町を整備するために、周辺に住む農民を強制的に集住させたという記録が残っているため、実際はこの整備に伴う移転であったと考えられる。延宝8年の棟札には「草創従四位上出羽陸奥守八幡太郎源義家朝臣 卍奉修復出羽国仙北郡境庄唐松山光雲寺愛宕勝軍地蔵権現社一宇 延宝庚申八月八日吉日祥日四位下侍従兼右京大夫佐竹冠者源義処朝臣」と記されている。参道の杉並木はこの時に植樹されたものであるといわれ、現在秋田県の天然記念物に指定されている。1870年(明治3年)、神仏分離令により光雲寺は廃寺され、愛宕神社(唐松岳)は郷社となるが、1878年(明治11年)、愛宕神社は氏神へ変更、唐松神社が郷社に列せられた。【菅江真澄による記録】菅江真澄の「月の出羽路仙北郡一」にも唐松権現社(韓松社)についての記述があり、神社の起こりについて、播磨国の韓松山に比咩神社という神社があることや、「播磨国風土記」に播磨(針間)の名の起源に息長帯日売命が関連することあげて、古い時代に播磨国あたりから遷し祀ったのではないかと推測。また久姫の逸話から、遠くの国から祈ってもご利益がある出羽一の産霊神と記している。また那珂通博の「六郡歳時記」を引き、安産の神として六郡外からも参拝者が訪れること、別当修験寺が光雲寺であることなどを述べる。そして那珂通博は唐松権現祭を4月8日としているが、本式神事が行われるのは9月24日であるとし、その日付が神社の北にある地元の人たちが愛宕山と呼ぶ愛護権現の山に、現存はしないものの大変古い社があり、かつて地主の神として迦具土神の神社と、韓松姫御神の本宮摂社が同じ場所あるいは相殿で祀られていたものが、現在(真澄が訪れた当時)の場所に遷宮したことに由来するとしている。唐松権現が鎮座している場所も、さほど古いものではなく2~3回遷座しているとしている。迦具土神と神功皇后が合祀されている理由については、ある縁起に三韓征伐に出征する神功皇后の船を守護した栄術太郎が迦具土神の化身だったことに由来すると伝わる異聞を紹介している。唐松という地名の謂れについては、神社の西北に大変古い時代「黄金松」と呼ばれた「唐松」という地名があるが、そこから起こったものか、海松、朝鮮松などが、俗に「唐松」と言われるので、それが山に生えていたからそう名付けたのか、詳しいことはよく分からないとしている。【唐松講】宝永に入り秋月藩黒田家に嫁いだ義処の息女久姫が難産に苦しんだ。久姫は出羽国の山北にある「から松の姫神」は祈れば大変なご利益があると聞いているので、祈祷してこの苦しみから救って欲しいと言い、近くに仕える男女が身を清めて出羽の国の方へ向かって安産を祈願したところ無事男子を出産。後に久姫は獅子頭を神社へ奉納したといわれる。義処は本社を藩内で唯一の「女一代守神」に指定し、義処の側室や側仕えの女性たちは授子安産を願って唐松講(八日講)を結成したとされる。唐松講は秋田にとどまらず全国に広がり大正15年ころには講中は3万5千戸を数えるほどになり、戦前まで続けられた。』
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【年表】
神話時代:饒速日命、鳥見山に天降る。日殿山(唐松岳)に社殿を建立。後に(神武天皇)へ帰順。
神功皇后元年:神功皇后新羅征伐。物部膽咋連と共に唐松林に社殿を造営。
585年(敏達天皇23年):物部氏滅亡。
587年(用明天皇2年):守屋一子那加世、逆合へ逃れる。日殿山の社殿を修復。
982年(天元5年):物部長文、八沢木(現在の秋田県横手市大森町八沢木)から唐松林へ移り、唐松神社を建立。
1062年(康平5年):前九年の役終わる。源義家、唐松神社に72町歩の田を寄進、日殿山の社殿を再建。
年不詳:物部氏、戦乱を逃れて荒川字徳瀬の寺屋敷へ居を移す。
1660年頃(万治年間):物部宥昌、荒川字徳瀬から境へ移入。別当堅勝院を建立。
1679年(延宝7年):参道のスギ並木が植林される。
1680年(延宝8年):佐竹義処、唐松山光雲寺愛宕勝軍地蔵権現社(唐松神社)修復。根田十郎兵衛、唐松山御堂本社建立。
1682年(天和2年):小野崎作兵衛、唐松山御堂本社の拝殿を建立。
1683年(天和3年):境村孫右衛門、ニの鳥居を建立。
1699年(元禄1年):橋本円右衛門、三の鳥居を建立。
1697年(元禄10年):岩姫(佐竹義処息女)、一の鳥居を建立。境村仁兵衛、御手洗堂を建立。
1698年(元禄11年):岩姫、一の鳥居を建立。
1708年(宝永5年):境町惣百姓氏子、幣殿建替え(祭礼8月16日)。
1711年(宝永8年):4月に在所と久保田矢橋毘沙門堂でそれぞれ7日間御開帳。本堂、拝殿、神楽堂、鐘楼、神明堂。鳥居建替え。
1711年(正徳1年):鐘堂、別当賢照院建替え。
1721年(享保6年):光雲寺火災により宝器、記録などを焼失。
1751年(宝暦1年):4月に在所と久保田矢橋帰命寺、横手山崎庚申堂でそれぞれ7日間御開帳。宝永8年と同様に6カ所を修復。
1762年(宝暦12年):仙北郡境村唐松山権現堂、老朽化と前年の大風と当年の大雪により屋根が破損、惣縁も廃れる。また氏子たちも困窮していたため、在所で5日、久保田、角館、能代でそれぞれ7日、阿仁銀山で5日の御開帳免許を願い出る。
1782年(明和4年):年2回の祭礼前後に限り、仙北、平鹿、雄勝の三郡81ヶ所に獅子舞回郷することを許される。
1782年(天明2年):天照皇太神宮建立。
1801年(享和1年):唐松山別当賢勝院が寺号光雲寺を許される。
1808年(文化5年):吉野山梅本坊より賢勝院補任。
1816年(文化13年):肝煎伊兵衛ら、唐松山大権現御休一宇を建立。
1825年(文政8年):光雲寺良松、寺号を許容される。後任は明寿坊良策。
1839年(天保10年):『掠澄文』によると、小貫佐渡、松野茂右衛門、光雲寺に年2回の祭礼前後以外の掠廻郷を無理に行うことを止めさせる。
1846年(弘化3年):半道村、心像村を巡って、光雲寺と鈴木丹後の間に確執が生じたため、隔年で下掠を行う。
1868年(慶応4年):戊辰戦争により光雲寺焼失。
1870年(明治3年):神仏分離により光雲寺廃寺。愛宕神社(唐松岳)郷社となる。
1878年(明治11年):唐松神社は郷社、愛宕神社は氏神に変更される。
1985年(明治28年):物部家、社務所失火により焼失。
1901年(明治34年):光雲舎竣工。
1914年(大正3年):天日宮竣工。
1932年(昭和7年):天日宮の庭園完成。
1949年(昭和24年):宗教法人令公布により、唐松神社、唐松山天日宮が法人登記される。
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65.5
土俵の方へ向かいます。
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苔生した道。
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唐松山天日宮へ繋がっています。
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山神社。
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ということで『唐松山天日宮(大仙市)』へ続く。
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