以前の記事もご参照ください。
以前の記事『小栗山神社 (弘前市)』

石灯籠の紀年銘は昭和20年旧8月17日。
社号標の紀年銘は大正10年8月17日(石川村大字八幡館、阿保萬吉敬白)。

旧大鳥居。

大鳥居寄附人名碑(昭和20年8月17日建立)。

参道途中の鳥居と社号標「郷社小栗山神社」。社号標は3基残されています。

参道社号標。

昭和6年8月17日、八幡舘村大ワニ組郷士對馬六助、孫伊幡建。

境内案内板より…『御祭神:大山祇命・外十一柱。文亀2年(1502)卯月半ば頃左五郎が子重五郎と申す樵夫当村より南方の深山に行き暮れるに及び帰らんと欲せしが途方を失うに於いて思推し大榎の元に自座す時に夜漸く四更の頃遙か右の方に光明嚇然とし傍に妙なるかな麗木大石の上に獅子の頭一頭座居し身に五色の幕を纏い悪魔降伏の角振り乱し光明を放ち給う彼の一頭申して曰く「善哉善哉承れ吾当社に在ること年久しく又尋常の人の耒る処に非ず汝我を負い人里に至り尊崇すべくば永く人間を守護すべし」と宣託せり此処が大和沢領八幡岳なり権現平と言うて今に存す。重五郎彼の一頭を負いて下山し当村の西南の処に一つの草堂を建て安置し給うこの時重五郎社職を主掌し自ら良く祈祷を加持し給うその時唯権現のみ勧請し給う諸人病症幸福を祈る実に利益感応ありこの時禰宜如何なる神号にて宜しからんと日夜案じけるが或夜枕辺に立ち託して曰く「吾は天の七星地の主にて五行人間を化育し給う故自今十二所権現と神号すべし」と言い給いければ当國の衆人御神徳を感じ当國の鎮守となる。これより十二所宮として寛永八年(1732)現宮司清野貞則氏より十二代の祖十二所宮神主与五郎禰宜時に現在地に遷る明治六年郷社に列せらる。近郷旱魃の時御神体を八幡岳山頂に祀り雨乞いする時は必ず霊験ありと言う。御神徳:産業開発隆昌、造林製材木工の守護神、医療縁結び、五穀豊穣。昭和61年旧8月17日』
手水舎(昭和53年旧8月17日、小栗山神社後援会・小栗山町会)。

末社。向って右が月夜見大神で左が馬頭観世音。

馬頭観世音。

猿田彦大神(文政5年6月18日)。

石灯籠一対(昭和10年3月17日)。

記念碑…『平成3年9月28日早朝津軽一園を襲った台風19号は実に驚くべき風速50米と云う前代未聞の猛風にてりんご等は全滅状態並家屋建物の破損も亦著しく神社境内の杉も約30本無残にもなぎ倒され更には神楽殿まで甚大な被害を受けられました。將に境内の光景は惨憺たるものでした。而し氏子一同は日頃よりの敬神崇祖の念篤く産土大神の御神徳を尊み奉る人達なれば其れが修復に一念を燃し整掃に尽されました。又地元の工藤建設有限会社社長工藤文敏氏は倒木を生かしそれに尊い私財をも投じて立派な神楽殿を新築して奉納されました。從って更に氏子一同の敬神の社とせしむ。仍て茲に後世に伝え度く記念碑を建立せり。平成4年8月17日例大日。記念碑建立者:弘前市常盤坂石工成田栄、小栗山神社宮司清野貞則、氏子総代:蝦名東一、長内民治郎、千葉石雄、一戸正成、蝦名勉』

社殿正面。
石灯籠一対(天明7丁未歳3月17日、田中善兵衛)。
1787年です。古いですね。



石灯籠一対(天保8丁酉年8月17日、三國屋久左衛門)。
1837年です。こちらも古いです。


社殿。
由緒等は以前の記事に詳しく書いたため省略致します。

拝殿前狛犬一対(明治41年8月17日)
寄附人・石工。
台座が素敵です。
拝殿前の御神木跡。

拝殿向拝注連縄。

拝殿向拝神額(昭和23年旧8月17日前田製材所奉納)。

本殿。
こちらの建物は現在絵馬殿ですが、かつての拝殿です。

扁額「小栗山神社」(支那事変凱旋記念・昭和15年旧8月17日工藤多市敬白)。

境内社の八幡宮。


境内社。

向って右が稲荷宮。

左が山之大神。

間に記念碑。『小栗山神社鎮座490年並に神社新築50周年記念行事に併せ此に稲荷宮、山之神様をこの地に鎮座せしむ。平成元年8月17日小栗山神社氏子総代』

神楽殿。

神楽殿前から見た社殿。
御神泉源池。この辺についても以前の記事に詳しく書いております。

薬師如来。


祠内には蛇。

駐蹕碑。
向って左の忠魂碑は大正11年9月11日千年村分會建立(石工竹村甚吉)。右は大正4年10月。

こちらの碑についても以前の記事を参照ください。

神杉之碑(紀元2589年旧6月10日建立)。碑文をよく見たら「此ノ稲荷社境内に…」とありますね。



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