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秋田県能代市二ツ井町小繋泉。道の駅ふたつい。愛称はきみまちの里。きみまち阪の近くです。
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平成6年登録。昭和57年に秋田県観光課により景勝地きみまち阪に隣接して「二ツ井総合観光センター」が設置され、その後平成3年度から平成5年度にかけ、当時の二ツ井町により「きみまちの里づくり事業」として周辺の整備が進められ、歴史資料館・トイレ・テニスコート・遊びの広場等の施設が整備されるに至りました。
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道の駅ふたついは一般国道7号二ツ井今泉道路整備に伴い、これまでの道の駅周辺の用地をインターチェンジ等に転用するため、国道7号を挟んだ向かい側から移転新築し、2018年7月15日にオープン。
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カヌー体験実施中!
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案内板「ようこそ恋文の街ふあついへ」。紹介されているのは、恋文神社、きみまち恋文ギャラリー、恋文ポスト、きみまちの鐘、きみまち阪の景色、道の駅ふたついプチカヌー、桜づつみ公園、恋文商店街。※説明は省略。
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案内板「秋田県北部地域案内マップ」。紹介されているのは、大館市(秋田犬の里)、藤里町(岳岱自然観察教育林)、八峰町(鹿の浦展望所)、小坂町(康楽館)、鹿角市(花輪ばやし)、秋田市(花の百名山森吉山)、上小阿仁村(コブ杉)、三種町(じゅんさい摘み採り体験)などなど。※説明は省略。
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案内板「能代市観光案内マップ」。紹介されているのは、はまなす展望台、天空の不夜城、旧料亭金勇、風の松原、JAXA能代ロケット実験場、北限の檜山茶、小友沼、きみまち阪県立自然公園、きみまち杉。※説明は省略。
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米代川沿いに七座神社方面への散策路あるようです。
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来場者200万人目を狙ったのですが手遅れだったようです。未だに突破記念だけは縁がありませんね。そもそも狙って行くものじゃないですけど。
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レストラン、軽食コーナー、産直・物販コーナー、歴史・民族資料コーナー、キッズコーナー等があります。
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歴史・民族資料コーナーでは、二ツ井の米代川を中心に発展した歴史文化や木材産業、道の駅周辺の動植物の紹介のほか、中央部、ガラス張りの床には、樹齢約850年の杉の埋もれ木が展示されています。
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一部紹介します。まずは小掛の鐘馗様。
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二ツ井小掛地区には村のはずれに疫病が侵入しないように男体と女体の鐘馗様が安置されています。毎年9月に鐘馗様の着衣の杉の葉が新しく替えられ和合します。家々では御灯明をともし御神酒に産物を供え鐘馗様をお迎えします。婆様たちは大きな数珠をまわして念仏を唱え無病息災、家内安全を祈願します。祠を出御した鐘馗様は笛、太鼓や鐘で囃されながら村の入口に男体、出口に女体が安置されます。
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土面(麻生遺跡出土・国指定重要有形文化財)。麻生遺跡から出土した土面は、明治時代に旧麻生村に住んでいた村民から東京帝国大学に献納されたものと記録されています。土面としては日本で最初に国の重要文化財に指定されました。長径14.7cm、裏面が椀状の土製の仮面で、大きな目と口、鼻筋の通った写実的な顔立ちをしています。全体に装飾された文様には、縄文時代晩期前半の時代背景があり、東北地方北部の亀ヶ岡式土器の装飾に特有の文様であるといわれています。
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原始時代の二ツ井…『この地に一番最初に人々が住みついたのは1万年以上前からで、2世紀頃までは、ナイフ形石器や縄目の模様のついた土器を使った人々が、獣の肉、川の魚、貝、木の実などを食べて暮らしていました。彼らは竪穴式住居といわれる家を建て、集団生活をしていたといわれ、当町にも多数の遺跡の存在が確認されています。なかでも、麻生遺跡から出土した「土面」は、国の重要文化財に指定され、その高い文化性から、私たちの住む東北は縄文文明の中心地域のひとつだったといわれています。◎500年の歴史を誇る古代村【鳥野遺跡】…鳥野遺跡は、駒形地区にある鳥野台地上に位置します。平成元年(1989)から調査を行い、縄文時代中期(約4000年前)と平安時代後半(約900年前)の集落跡が見つかりました。なかでも縄文時代中期の村は大規模なもので、竪穴式住居跡が202軒、建物跡が30軒、貯蔵穴が25基、墓2基などが見つかりました。これらの住居は同時に建てられたものではなく、一時的には10数軒ぐらいだった時期もあるようで、約500年もの長い間、台地での暮らしが続いていたことが判っています。また、集落の北側と南側には盛土があり、土器や石器が多数出土しているため、ここが捨て場であったと考えられます。青森県の三内丸山遺跡は縄文時代前期から中期の大集落として有名ですが、中期の集落については鳥野遺跡と共通する部分が多く見受けられます。◎県指定重要有形文化財【麻生遺跡】麻生遺跡は、二ツ井麻生地区の集落を通る県道3号を合川方面へ向かう小高い丘の両側、阿仁川と米代川が合流する段丘上に位置します。遺跡が発掘されたのは明治22年(1889)10月のこと。当時、この地を訪れていた放浪の画家・蓑虫山人が、「絵日記」に記録を残しています。これまでに出土した土器や石器から、縄文時代晩期(約2500年前)の人々が中心的にこの場所を利用していたことが判っています。このほか、縄文時代中期、弥生時代後期、平安時代の道具も見つかっているため、各時代にわたり活用されてきた遺跡であると考えられます。国指定重要有形文化財の「土面」をはじめ、土器、石器、土偶あんど、麻生遺跡で出土した縄文時代晩期の遺物は、代表的な東北地方北部の縄文文化(亀ヶ岡文化)を知る手がかりとなっています。』
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二ツ井の主な遺跡。
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羽州街道と二ツ井…『羽州街道は、江戸時代の幹線道路のひとつである奥州街道の脇街道です。陸奥国の桑折宿(福島県伊達郡桑折)で奥州街道から分岐します。金山峠を越え、出羽国の主要地を縦断し、矢立峠を越えて再び陸奥国に入り油川宿(青森県青森市)に至ります。秋田市以北は現在の国道7号にあたります。江戸時代の参勤交代では、津軽藩など13藩が羽州街道を利用しました。遠く江戸まで通じる街道は、人や物資の往来のみならず、豊かな文化も地域にもたらしました。』※菅江真澄の図絵付
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参勤交代と一里の渡し…『寛永12年(1635)、江戸幕府は諸国の藩主に対して参勤交代を義務付けました。羽州街道中の二ツ井を通って江戸と自領を往復したのは津軽藩、4代藩主津軽信政の時代からです。当時の二ツ井には、「米代川切石渡船場」と荷上場から小繋までの「一里の渡し」がありました。後者の「一里の渡し」には陸路がなく、大きく蛇行する米代川を川船でさかのぼり、七座山の麓を廻って再び水路で小繋まで辿りつくという危険な手段しかありませんでした。天保8年(1837)の「菊池文書」によると、参勤交代で「一里の渡し」を渡るには、250艘、人足300人を要したと記録されています。津軽藩主がこの難所を無事通過した時は、飛脚を使って国元まで知らせるほどだったともいわれます。大名にとって、二ツ井の難所を通ることは、とても大きな負担だったことがうかがえます。』
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二ツ井を通った人々…『二ツ井は、危険な川越えを要する「一里の渡し」と「米代川切石渡場」の二つの水路があり、羽州街道の中でも「最大の難所」と呼ばれる地域でした。また、ここには飛根宿・荷上場宿・小繋宿の3つの宿場があったため、多くの人々がこの町に訪れています。(以下省略)』案内板にて紹介されているのは、平賀源内(安永2年に佐竹藩に招聘され、秋田の鉱山で技術指導を行う。翌年二ツ井に南蛮吹き法と呼ばれる新技術を使う加護山精錬所が建設された。)、橘南谿(寛政7年に刊行された「東西遊記」の中で、「飛根の城郭」と題して二ツ井町富根地区を訪れた際の様子を記している。)、伊能忠敬(享和2年8月4日、第3次測量で二ツ井を訪れ、飛根村で1泊し、翌日にこの地域の測量を行った。)、高山彦九郎(寛政2年8月22日に秋田県能代市の桧山経由で二ツ井の飛根の宿を訪れている。)、古川古松軒(天明8年7月12日・13日に二ツ井を訪れ、飛根、荷上場、小繋、七座天神宮等の様子を記録。)、榎本武揚(蝦夷から東京まで輸送される途中に網籠に入り、二ツ井の難所を川船で渡り、この時自らの立場を嘆きつつも、その風景に魅せられ「渡米代川」という漢詩を詠んだ。)、吉田松陰(嘉永5年3月27日に二ツ井を訪れている。)、イザベラ・バード(二ツ井の切石の渡しで、大雨の増水により人馬の渡河禁止になっていた川を渡ろうとして濁流にのみこまれた人々の姿を目の当たりにした。)、牧野富太郎(昭和2年に二ツ井町仁鮒を訪れた際、暖地性の植物「イワヤシダ」を採取。昭和36年刊行の「牧野新日本植物図鑑」では、寒冷地に育つのはとても珍しいことと記載。)、原敬(明治14年7月8日に二ツ井の加護山精錬所を取材で訪れた。)、幸田露伴(明治30年10月13日に二ツ井を通った。「遊行雑記」では、能代川を左に川舟で下り、激しい流れでありながらも清らかな水や、錦のような紅葉を描写。)、蓑虫山人(明治22年に二ツ井の「君待坂乃風景」などを描いた。富根地区の山本家庭園も蓑虫の作といわれている。)※説明は一部省略。
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菅江真澄と二ツ井…『◎旅の生涯と業績…菅江真澄は江戸時代の1754年(宝暦4年)、三河国(愛知県東部)に生まれました。30歳ころに故郷を離れ、信濃国(長野県)に旅立った後、出羽・陸奥(東北地方)、蝦夷地(北海道)をめぐり歩き、1801年(享和元年)に再び秋田藩領にはいってからは、1829年(文政12年)に亡くなるまでの28年間を今の秋田県内で過ごしました。真澄は旅をしながら多くの日記を書いたほか、図絵集や随筆、秋田藩の地誌なども著しました。江戸時代やそれ以前の自然・文化を知るうえで貴重な資料であることから、200冊に及ぶともいわれる著作のうち、秋田藩の藩校明徳館に納められた77冊12丁が国の重要文化財に指定されています。◎二ツ井の旅と著作…菅江真澄は少なくとも4回にわたり二ツ井を訪れていることが、「しげき山本」(1802年)、「阿仁の沢水」(1804年)、「みかべのよろい」(1805年)、「おがらの滝」(1807年)の旅日記(紀行文)からわかっています。4冊の旅日記は文章のほか、たくさんの図絵が挿入されているのが大きな特徴です。「しげき山本」では七座山、高岩山など当時の人びとの信仰を集めた霊山を、また、「みかべのよろい」では珍しい塩水の井戸や大イチョウを描くなど、二ツ井の自然・文化を詳細に記録しました。真澄の足跡は、これらの著作を手がかりに、昔と今の風景を比較しながらたどることができます。』
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菅江真澄図絵「米代川と松座」(阿仁の沢水)。米代川をはさんで左に七座山の松座、右に七座神社の森、中央に現在のきみまち阪が描かれています。
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菅江真澄図絵「権現座の獅子頭」(しげき山本)。
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権現座の獅子頭は慈覚大師(円仁)が彫ったと伝えられる獅子頭で、七座山の最高峰権現座(287m)の巨石の下に今も祀られています。
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菅江真澄図絵「高岩山目籠石に隠れる猿」(しげき山本)。山岳仏教の霊場(行場)であった高岩山の奇岩、目籠石のスケッチです。よく見ると、岩穴の中に猿が隠れています。
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菅江真澄図絵「塩の井」(みかべよろい)。
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二ツ井町切石にある塩分を含んだ井戸で、真澄は「空海(弘法大師)が授けてくれたという」と記しています。
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菅江真澄図絵「銀杏山神社の大イチョウ」(みかべよろい)。この連理のイチョウは、二ツ井町仁鮒の銀杏山神社境内で今も見ることができます。
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七座山産出杉。七座山は藩政時代には、藩にとって最も大切な御直山として大切に保護されてきました。二ツ井一帯の数多い杉の美林の中から、この地が御直山として大切に守られたのは、山の下を川が流れていたからと考えられます。つまり、幕府から緊急な木材納入の命令があった場合、川を利用して短時間で木材を運ぶことができるという地の利が重視されたのでしょう。東側斜面には杉の巨木の中に、ブナの大木など広葉樹も見ることができます。
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加護山のジオラマ。
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最新の製連所加護山…『安永3年(1774)、加護山のふもとに誕生した加護山製錬所。それまでの常識を破り、鉱山から離れた所に建てられた製錬所は、当時としては画期的なものでした。「南蛮吹法」という新しい技術、原料や製品の輸送を考えた立地条件、生産性を考えたさまざまな運営方法など、加護山製錬所は全国でも珍しい最先端の製錬所だったようです。このようにして誕生した加護山製錬所は大幅な利益を生み出し、苦しかった秋田藩の財政を支えました。』
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二ツ井のジオラマ。
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加護山銭座…『貨幣製造に必要な銀、銅、鉛の豊富な加護山は、いつでも貨幣を造れる状態にありました。藩では藩財政の立て直しのため、加護山製錬所が操業を始めたころから、鋳銭の許可を幕府に再三にわたり申請しましたが、結局、許可は得られませんでした。しかし、幕府の統制力のおとろえた文久年間のころから、幕府の許可を得ず、藩独自で貨幣の発行を始めました。文久2年(1862)から明治3年(1870)までの約8年間でしたが、藩内で使用できる貨幣約10種類がここから誕生しました。幕府の許可を得ない、いわゆる密鋳といわれるものでしたが、ここで造られた貨幣は模様も多彩で品質の高いものでした。』
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秋田藩加護山製錬所。
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当時、最新の製錬法といわれた「南蛮吹法」は、加護山の地でどのように行われていたのでしょう。加護山では生産性を上げるため、各工程ごとに作業場が設けられ、効果的な流れ作業で製錬が行われていました。加護山之図は、代表的な作業工程を描いた絵とそれに使用した道具類の絵で構成されています。
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石炭専航船きみまち(モデルシップ1/200スケール)。『石炭専航船「きみまち」は、東北電力(株)の火力発電所へ石炭を運ぶ専用の船です。オーストラリアから処女航海を経て、令和2年2月15日に能代港(能代火力発電所)へ初入港しました。船の名称は、二ツ井地域のきみまち阪県立自然公園にちなみつけられており、能代市ではこの船に特別住民票を交付しています。ここに展示する模型は、この船を運行するNSユナイテッド海運株式会社(東京都)から能代市へ寄贈されたものです。 ≪船の概要…≫全長:234.99m、全幅:43.00m、深型:18.40m、夏季満載喫水線:12.884m、総トン数:52,400㌧、載貨重量トン数:91,296㌧、竣工日:令和2年1月8日、建造造船所:(株)大島造船所、その他:船舶からのSOx(硫黄酸化物)排出を抑制するスクラバー(排ガス洗浄装置)を搭載し、令和2年1月に強化されたSOx排出規制に対応しています。』
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ガラス張りの床下にある樹齢約850年の杉の埋もれ木。反射して見にくいですね。昭和56年、能代市二ツ井町切石地内の町道路工事現場から、直径1.6mの天然杉の巨木やナラの古木が発見されました。何かのきっかけで巨木が倒れ、その上に土がおおいかぶさり、以来、人の目に触れることなく土の中で眠り続けた埋もれ木。幸い、埋もれていた地層の状態がよく、地下水が木の下を流れていたため、木は腐ることなく、切り口からは杉の香りがするほでした。樹齢は820~850年。発掘された埋もれ木の調査を農林水産省林野庁森林総合研究所に依頼し奈良国立文化財研究所埋蔵文化財センターにおいても調査しました。両研究所では埋もれ木の現地調査をし、材質試験や利用方法をまとめ、次のような結果を発表しました。『●埋もれ木の誕生…109年●埋没年…958年(天徳2年)●埋もれ木の発掘卯…1981年(昭和56年)』天然秋田杉の産地として知られる能代市二ツ井町から発見されたこの埋もれ木は、まさに二ツ井のシンボルといえます。
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埋もれ木が見にくいので展望デッキに上がってみます。
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上から見た埋もれ木。やっぱり見にくいですね。
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展望デッキから見た道の駅内。
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多目的ホールの展望デッキやレストランのテラス席からは、悠々と流れる米代川を挟んで、対岸には原生林に覆われた七座山を見ることができます。
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防災ヘリポートもありました。
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天神様と八郎太郎。
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能代市二ツ井と北秋田市の境、北から籠山、南から七座山が迫っている所を一気にせき留めて湖水をつくった八郎太郎の喜びは尋常一様ではなかった。比内は一大湖となり、八郎太郎の安住の所となった。だが収まらないのは八座の神さまたちだった。どうにかして八郎太郎をよそへ移したいと相談したが、けんけんごうごう議論が百出してまとまらなかった。相談がのびる間にも湖水の波は草木を埋めだんだん深くなっていった。そこで神さまたちは八座のうち深慮遠謀の七座の神さまに一さいをまかせることにした。ある日、天神さまは、八郎太郎を七座山の頂上に招いていろいろな話を交わした。「八郎太郎よ、お前は大へん力持ちだそうだネ、わたしも神々のうちではどの神さまにも負けないが、ひとつ力くらべでもしてみようか」と話しかけた。おだてられた八郎は「やってみましょう。持てるだけの大石を川の向うの天神川原に投げ、遠くまで投げた方が勝ちですよ、さあいいですか、神さま」といきなりそばの巨大な石をだき起し、満身の力をこめて投げつけた。石はうなりを生じ米代川に水しぶきを上げて落ちた。いま米代川の中流にある中岩がその石だという。
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「ほほう、大した力だネ。こんどはワシの番だ」天神さまはニコニコしながら八郎の投げた石より、もっと大きな石をううと持ち上げ、ぶるるんと投げた。石は川原を越えて遠く天神の境内を越えて田んぼまで飛んでいった。この怪力に八郎太郎もびっくり、内心赤くなる思いだった。「八郎もう一度やろうか」と天神さまが言ったのも、うわの空で聞いていた。すると天神さまは、話題をかえて「ときに八郎、この湖は不便だろう。どうも窮屈そうにみえる。うなぎの寝床みたいに細長く、それに浅いから、あちらの山、こちらの岩に手やひざがつかえるだろう。どうも気の毒だね」と同情した。すると八郎は、「そのとおりだが、しかしどこへも行くところがないので」と細々と言った。「それは見聞がせまい。わたしはお前が気の毒なので、多少心当りをさがして見たが、男鹿半島の方に、際限もないひろびろとしたところがあった。そこをお前の住家にすれば、竜王の宮殿になると思ってきたよ」八郎太郎の心は大いに動いた。「しかし神さま、この米代川の浅い水では進むも退くもできないが」「いやその心配はいらない。ワシも援助しよう」天神さまは八郎の気持が変らぬうちと、神々に話し、湖水をつくっている山に穴をあけるよう白ネズミに命ずることになった。
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おびただしい白ネズミは神々の命令どおり、山にトンネルをほりはじめた。驚いたのは富根と鶴形の附近のネコ族だった。ネコ族は同類を集め、ネズミを捕えて餌食にしようと攻め寄せた。ネコとネズミは三日三晩乱戦苦闘をつづけた。これを御覧になった神々は、ネコ族をさとし、「四季ノミをつけないようにするからネズミを捕ることをやめなさい」といってネコ族を一ヶ所につないでネズミに近づけないようにした。このネコをつないだ所が猫繋で、ネコのネをはぶいてコツナギと呼ぶようになった。今の小繋がその場所で、同部落には「禁鼠大明神」という祠も現存している。七座神社でもネズミ除けのお札をわけているが、その由来もここから出たものだという。こうしてネズミは安心して穴をうがち、ついに水を通した。果せるかな大洪水となって見る見るうちに一座の山は押し流され、この山は切石部落にひっかかり七折山となった。二ツ井町七座の名も、八座のうち一座を流された後になってからの名前である。八郎太郎は、この濁流の波に乗って米代川を下ったのである。
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