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八戸市根城。隅ノ観音は根城跡南端の曲輪である沢里館の北側にあります。かつての根城村の集落中心地。
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奥州南部糠部三十三観音十二番札所。八戸御城下三十三観音霊場第二十三番札所。ちなみに私の地図にはなぜか「稲荷神社」とだけ記されています。
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庚申塔や金精さま・魂精神といったものがあるようですがこちらは庚申塔かな。
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根城村は南北朝時代の根城南部氏の拠点根城跡がある地域です。根城跡は馬淵川を臨む段丘に位置し、根城村はその南東側に伸びる海抜100mを超える丘陵高台地帯も含んだ地域。
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根城の地名は馬淵川に面した根城跡に起因しますが、村域としては明治初年の新撰陸奥国誌に支村として白山川(土橋川)上流、沢里の南部にあたる笹子(ニュータウンのある丘陵を越えた東側)までの丘陵部も含む広い村でした。
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丘陵高台の牛ヶ沢遺跡からは縄文中期から晩期にかけての土器や古代の土師器が出土。また、根城跡からは中世に先行して古代の遺跡も確認されています。城跡東構と呼ばれる地域では飛鳥時代から平安時代にかけての竪穴住居跡も発見されており、継続的に集落が営まれていたことが明らかになっています。
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中世になると根城南部氏の拠点となり、建武元年甲州波木井の地頭であった南部師行が国代として当地に居城し、寛永4年遠野に移封されるまでの293年間、根城南部氏の本拠地となりました。本丸・中館・東善寺館・岡前館・沢里館等の八郭からなる根城跡は昭和16年に国の史跡に指定。
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沢里館は根城南部の重臣沢里氏が居住していたとされ、沢里氏が南部氏に従って遠野に移ったため、この観音に関する記録は残っていないとされます。現在の御堂は昭和49年に建てられたものです(昭和48年に境内の杉林を伐採して修復)。
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堂宇。内陣中央に格子戸があり、その奥に青紫の布で覆われた内御堂が納められていますが、現在は御開帳は無く、格子戸が開かれることはないようです。則誉守西上人の「順礼次第記」(寛保3年)には「本躰ハ石也」とあり、菰で包まれた自然石を観音菩薩として拝んでいます。内御堂の両脇には高さ60cmほどの観音像が2体、お前立ちとして安置されています。禅源寺の徳玄和尚が弘化4年に著した「根城村観世音縁起」によりますと、向かって右のお前立ちは恵心僧都(源信)作で、徳玄和尚が京都の妙心寺より勧請したもの。合掌をした木彫聖観音像は顔がほとんど崩れており、雲文舟形光背も半分欠けています。左には石造聖観音像。※内陣奥に文化10年の岩井重良兵衛愛秀の棟札あり(墨書「御城下廿二番根城隅観世音源愛秀敬白露艸を分徒々すみ能観世音 於可む堂も登爾 月の者連介」裏面「文化十年癸酉年初夏吉辰 岩井重良兵衛謹拝」、縦45cm・幅15.6cm・厚さ2.1cmの木板に黒漆)。
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御詠歌「根城なるすみの観音ふし拝め種々重罪も五逆消滅」 
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商売繁盛と「子宝」「安産」の願いが叶うことでも有名です。
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境内。
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こちらの祠には一体が経巻を咥えている陶製双頭蛇体像がありました。
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周囲の石は何か判別できませんでした。
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大イチョウの根元にある悪獣退散祈願碑(祈願祠・石祠)。猪ケガジ(飢饉)の悪獣退散祈願。寛延4年10月建立。
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大江東義の誌したもの。
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18世紀半ば、延享・寛延頃の八戸藩は、猪荒れによる農作物の被害に悩まされていました。既に17世紀末の元禄期頃から猪の被害が出始め、特に目立つようになったのは延享2年(1745)頃からです。この年の10月に久慈通の阿古木・帯島・水沢・大野の4ヶ村(岩手県洋野町)では猪が増え、四方山野に囲まれた作場はもちろん、居垣(屋敷)内の菜園まで掘り荒らされています。遠近の所々に案山子を立てて威したり、番小屋を造り追い払ったりしていましたが、まったく効き目がないと訴えていました。八戸廻でも延享3年に畑作が猪鹿荒れにより不作となり、被害の見分願いが出されています。猪の被害は久慈通をはじめとして、八戸廻・軽米通・名久井通に及び、藩全体が抱える問題となっていました。寛延元年(1748)ともなると被害はいっそう深刻化し、生活救済を願い出る人々が出てきます。
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悪獣退散祈願碑は根城村の住人たちが、根城の鹿島明神に田畑を荒らす悪獣(猪)の退散と五穀豊穣を願ったものです。
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周囲を散策。
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北龍山稲荷神社が鎮座する森方面。
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根城隅ノ観音付近の木。
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根城隅ノ観音の周囲だけ木々に囲まれています。
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結構広いです。
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