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青森県むつ市田名部町。浄土宗不退山常念寺。本尊阿弥陀如来。
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慶長元年(1596)7月(※慶長3年との資料もあり)、下総専称寺の僧良翁竜山(櫛引の僧)の草創。天正年間より竜山が奥州岩前郡山崎専称寺に修学した縁故でその末寺になります。但し、常念寺蔵の「開創沿革」には「其事実ヲ推窮スレハ当寺ハ慶長ノ開祖ニアラス。文禄ノ以前ニ檀越アリ」とあります。延宝3年(1675)3月、3代良故円鶴の時に田名部大火の類焼により炎上、堂宇もろとも本尊を焼失し、貞享3年(1686)4代良法弁意月西和尚の時に再建。その折(元禄年間)、本尊仏である阿弥陀如来座像(1躯・桧材・寄木造・像高約90cm、漆箔、恵心院僧都源信製作)を京都の清浄華院(浄土宗の大本山の1つ)から貰い受けました(敦賀より船に積んで運んだという寺の記録あり)。平安時代後期の木造仏座像で国指定重要文化財(元国宝)。その他、寺宝として海祥山慈眼寺喚鐘1口と一ノ谷屋島合戦図屏風6曲1双(屋島壇ノ浦合戦図屏風)2雙(毎年お盆の時期に公開)、海祥山慈眼寺棟札1枚が昭和47年にむつ市文化財に指定。
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仁王門・仁王像。
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4.8
菅江真澄が次のように記しています…『常念寺に行くと、秘宝をみせてくれた。中将姫が如法尼となったのち、剃髪を集めて縫われたあみだ仏の御像や、海からひろったという鉦鼓は、五百年のむかしからここの古い館の主、菊池某の遠い先祖から持ち伝えていたものを、この寺におさめたのである。恵心僧都のえがかれた阿弥陀仏は、だれかがこの寺におさめたのであると、住職の上人が、しみを払って箱に秘められていた。』※中将姫の毛髪で縫ったあみだ像は現存せず、また江戸時代の什物帳にも見えません。
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本堂。
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6.5
一ノ谷屋島合戦図屏風6曲1双(屋島壇ノ浦合戦図屏風2雙・市指定有形文化財)。物語絵の1つで、源平合戦のうちの一ノ谷屋島合戦が描かれています。平家船や数多くの騎馬武者、武具、屋舎、松、波等、克明です。金地舞楽屏風や扇面絵の技法に酷似しており、大和絵の技法様式を見ることができます。江戸時代初期の作品と推測されており、大正時代初期には浄土宗宝として指定。※写真はパンフレットより
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海祥山慈眼寺棟札1枚(市指定有形文化財)。明治時代には廃寺となった旧田名部万人堂海祥山慈眼寺から移されたもの。銅板で、工匠、願主、目的、内容、製作年月日が記されており、建物内部の高所に取り付けられていました。願主熊谷源無が寛文8年に慈眼寺古道場の再興を願って再建したといわれます。
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海祥山慈眼寺喚鐘1口(市指定有形文化財)。鋳鉄製で正徳2年に鋳造。旧田名部万人堂海祥山慈眼寺が廃寺となり、当時発足した消防が所有し火見櫓にかけられました。その後、消防署にて保管されていたものが常念寺に移されました。
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寺務所。
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常念寺会館。
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鐘楼。
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子育て地蔵・水子地蔵。台座…『そだちてあればほほえみて ははとよびてすがりこん その名をよべばつみありて むつのちまたにさまよえる 人にかわらんこのちかい 南無やのうけの地蔵尊 南無阿弥陀仏 阿弥陀仏』
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六地蔵…と言いたいところですが、五地蔵+一地蔵+α。
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犬猫萬霊供養碑。
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明神川の畔に川端観音堂。田名部三十三観音3番札所(慈眼寺万人堂:慈眼寺が明治時代初頭に発令された神仏分離令と廃仏毀釈により廃寺となり常念寺境内に遷されました。内部に収められている厨子の扉には千手観音と聖観音が描かれています(市史に写真が掲載されていた記憶があります)。札所本尊:聖観音像)。田名部三十三観音24番札所(札所本尊:如意輪観音像。伝弘法大師作。別称として川端観音と呼ばれ、元禄13年当時、田名部川で河童が頻繁に出没し子供に嫌がらせをしたため、その鎮護として菊池伝蔵が奉納したとされます。現在は子授けや安産、子育てに御利益があるとして信仰されています)。
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『青森の伝説』に『山門の前に、観音様が祭られている。近くの明神川で、子どもたちがたびたび河童にさらわれたので、子どもを守るようにと勧請された。お堂が明神川のほとりにあるので、川端観音とよばれ、子授けの観音としても信仰されている。またこの近くに座像の縛り地蔵がある。昔、オコリ病にかかると、この地蔵を縄でぐるぐる巻きに縛り、「サア治してけろ」といって強訴する。そして治れば縄を解くのである。』とあります。
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田名部海辺三十三観音巡礼3番札所(聖観音…慈眼寺万人堂)・24番札所(如意輪観音)「不退山常念寺」…『常念寺は、慶長元年(1596)磐城の専称寺八世良潜の法子竜山の開山と伝えられる。明暦年間の田名部大火で類焼し、四世良法弁意上人が京都の本山から特別に譲り受けた阿弥陀如来像は、昭和25年、国の重要文化財に指定されている。3番札所の万人堂は、現在の小川町1丁目むつ社会保険事務所附近にあったが、明治初年廃寺となっている。聖観音像を納めてある厨子の扉の内側には、千手観音と聖観音が極彩色豊かに描かれている。24番札所の如意輪観音座像(川端観音堂)は、弘法大師の作と伝えられ、元禄13年(1700)地元の菊池伝蔵が寄附したとある。』
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