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山形県寒河江市大字慈恩寺。瑞宝山本山慈恩寺。東北三十六不動尊霊場第一番札所。御詠歌「出羽路なる大慈大悲の不動尊結ぶえにしは法のみ山に」。慈恩寺は奈良時代に、聖武天皇の勅命によって開基されたと伝えられる古刹。江戸時代の寺領2800石余は東北随一。境内には、重要文化財の本堂をはじめ、山門、薬師堂、三重塔などが立ち並び、厳かに時を刻みます。平安、鎌倉時代の仏像群は、わが国の仏教美術の至宝として重要文化財の指定をうけ、5月5日の一切経会に奉奏されます。慈恩寺舞楽は、国指定重要無形民俗文化財です。
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慈恩寺は山形盆地葉山の山裾の寒河江川扇状地より一段高い段丘上に位置。院坊屋敷地と境内地は概ね東西700m南北200mの範囲に収まります。扇状地辺縁は標高約125mで仁王坂を上ると標高約146m、参道を160m進むと標高156m。参道の階段が比高差約13mあり、山門は標高169mに位置。山門をくぐると階段があり本堂が位置する平坦地は概ね標高172m。参道付近の院坊屋敷地は東側が標高180mの尾根に囲まれており、西へ行くにしたがって緩やかに下りますが、田沢川によって隔絶。つまり南は比高差20m以上の崖地、東は標高180mの尾根、西は田沢川、北は葉山の山塊に守られています。更にこの外側に結界を守る4つの神社があり、西は史跡に含まれる八面大荒神、東は箕輪の折居権現、南は八鍬の鹿島神社、北は白山権現。この結界は東西2.1km、南北3.6kmに及びます。境内地は周囲の中世城館群や行場などとともに2014年10月に国の史跡に指定。
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山門前から見た参道。
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山門と石灯籠一対。
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山門。
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元文元年(1736年)築造。3間1戸の楼門造で、入母屋造、八脚門で銅板葺(もと茅葺)。舞楽奏上の舞台とは山門から延びる渡り廊下によりつながり楽屋となる。
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7.5
山門裏側。
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仁王像。
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9.5
こちらは不明。
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手水舎。
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大香炉。後ろに慈恩寺稚児桜。
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鐘堂(天和3年建立)。
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梵鐘。
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慈恩寺は行基によって見いだされ、聖武天皇の勅によって創建したとされます。その後、鳥羽天皇の勅で再建され後白河法皇と源頼朝によって山号を与えられました。平安時代は荘園主である藤原摂関家から、鎌倉時代から室町時代にかけては地頭・寒河江大江氏の庇護を受け、寒河江大江氏が滅ぶと最上氏や江戸幕府によって寺領を認められました。江戸時代には東北随一の御朱印地を有し、院坊の数は3ヵ院48坊に達しました。修験による祈願寺として御朱印地を拝領していたため檀家を持たず、明治の上知令により一山は困窮し帰農する坊が続出。現在は3ヵ院17坊を伝えます。御本尊は弥勒菩薩で脇侍として地蔵菩薩、釈迦如来、不動明王と降三世明王を配する国内でも珍しい五尊形式。創建当初八幡大菩薩を鎮守として祭っていましたが、時代の変化とともに法相宗、真言宗、天台宗を取り入れ、現在は天台宗真言宗兼学の一山寺院として慈恩宗を称します。
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以下、境内案内板、公式HP、パンフレットより一部抜粋して紹介します。公式HPを参照するのが一番かと思います。また、wikipediaにも大変細かく紹介されています。なお、阿弥陀堂当別拝観期間に参拝しましたが、写真はありません。その他の仏像等についても撮影禁止のため写真はありません。公式HP「慈恩寺」を参照するか現地へどうぞ。かなり間近で拝むことができますよ。なお、当記事で使用しているものはパンフレット掲載写真の写真です。
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16.5
本堂(附厨子1基・国重要文化財)。元和4年(1618)山形城主最上氏により築造(再建)。桁行七間、梁間五間、一重、入母屋造、向拝一間、重厚な茅葺で桃山時代の様式を残します。明治41年、当時の古社寺保存法により特別保護建造物に指定。御本尊木造弥勒菩薩、釈迦如来坐像、地蔵菩薩坐像、不動明王立像、降三世明王立像、木造騎獅文殊菩薩、木造騎象普賢菩薩、十羅刹女像、木造二天王立像、木造如来坐像及び両脇侍立像、木造如来立像、木造菩薩坐像、木造力士立像などを安置。なお、当初の建造年は不詳(保元2年焼失するも御本尊は焼失を免れています。永暦元年再建。永仁4年に御本尊とともに焼失。大江氏により嘉元4年再建されるも文亀4年焼失。)。
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歴史(パンフレット及び公式HPより抜粋)…『◆慈恩寺の草創…寺伝によれば、神亀元年(724年)、高僧行基菩薩が諸国巡錫の砌、慈恩寺の景勝なるを見て都に帰り、聖武帝に奏上した。勅命によって印度僧婆羅門僧正が天平18年(746)精舎を建立して開基し、「寒江山大慈恩律寺」と称したのが慈恩寺の初まりである。しかし、これはあくまで寺伝として受け止めるべきであろう。最近の調査で慈恩寺の歴史が少しずつ明らかになって来たのは平安後期からである。その後、山号を平安時代に「雷雲山」、鎌倉時代には「瑞宝山」とし、現在に至る。◆慈恩寺の宗教…伽藍記によれば、仁平年中(1151-53)奈良興福寺の僧願西上人が本願となって来山したとあり、これは興福寺が藤原氏の氏寺であったから派遣されたものである。興福寺は法相の寺であった。慈恩寺という寺号も法相宗の祖慈恩大師から来たもので、慈恩寺はその頃からすでに法相の寺院であり、法相寺院で通例とする弥勒菩薩を本尊とした。平安後期の慈恩寺の宗教は法相を主流とし、外に天台などの影響もあったものと思われる。それは常行堂や鎮守としての白山権現、金剛蔵王などを祀ったことによって覗われる。鎌倉時代の初頭、後白河院の院宣や右大将源頼朝の下文をもって弘俊阿闍梨が慈恩寺に来山して正式に真言宗が入って来た。と同時に修験も入り、葉山との関係も生まれて来たと考えられる。室町時代になると時宗の宝徳寺や松蔵寺も入り、慈恩寺の宗教は法相のみならず、天台、真言、時宗と多くの宗旨が併存した。今日でも法会は法相の法式で行われている。鎌倉時代以降は真言が主流であったであろうが、必ずしも一宗に統一するということはなく、現在の残っている阿弥陀堂の前仏宝冠弥陀の如きは天台宗で信仰されるものであるから真言のみではなかったといえる。室町の末、大江氏が滅亡すると、これに代わって最上氏が庇護を加え、三重塔や本堂の建築も行なわれた。元和8年(1622)最上氏が改易になると、別当坊最上院は江戸幕府の陰の実力者天海僧正に取り入って天台宗に改宗しようとした。これに対して真言方学頭宝蔵院、同華蔵院が反対し、長年に亘って抗争を続けた。寛永19年(1642)慈恩寺は天台真言両宗兼学の一山となったが、終戦後一山は宗教法人として独立し、本山慈恩寺と名乗り、慈恩宗となって現在に至っている。◆京文化の移入…慈恩寺は、平安後期に摂関家の荘寺的性格の寺院であったため、京文化が直接入って来た。それはこの期の仏像群が雄弁に物語っている。仏像は重文の阿弥陀如来を初め、30体(※パンフレットでは31体)を数えるが何れも中央で造られた優れた仏像である。これらの背景には摂関家の藤原氏があったからに外ならない。鎌倉以降においても現存の仏像は殆ど中央仏師の手になるものである。◆慈恩寺の寺領…平安後期には、寒河江荘の荘園主である藤原氏から、供料としての土地が寄進されたものと考えられる。大江氏になってからもそれらを安堵したであろうし、更に寄進の土地もあったと思われる、川向いの八鍬郷が寺領であったことは、南北朝の文書にある。従って、八鍬郷はそれ以前から弥勒領となっていたものであろう。室町時代の応永2年(1395)には、慈恩寺衆徒が弥勒堂の神輿を箕輪郷に振置して、箕輪郷を寺領としたという。こうして、江戸時代には寺領は18か村にまたがり、寛文5年(1665)には御朱印高2812石3斗余を幕府から与えられた。東北最高であった。明治維新後御朱印が停止され、年々逓減録が支給されたが、それも明治14年には打ち切られ、一山は窮乏の渕に沈み、帰農する坊が続出した。しかし、今慈恩寺は重文の本堂を初め、数多い優れた国、県、市指定の文化財を擁して、古代文化の聖地として再生の道を歩んでいる。』
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釈迦如来坐像。容姿端麗で藤原様式。法華曼陀羅群像の中尊であり、この時代の彫像としては唯一残るもの。国重要文化財。
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聖徳太子立像。国重要文化財。像高94.1cm。少年の姿の聖徳太子像で頭髪を左右に振分け美豆良に結び、目尻をやや吊上げています。本躰は檜材の寄木造で、表面は全面布貼り下地の上に彩色が施されています。昭和56年5月、像内に納められていた血書経典が発見され、この奥書より鎌倉時代(正和3年)の製作であることが分かりました。また、血書経典のほか、像内からは版木法華経巻第一、月山堂宝印、版画阿弥陀浄土図、灯心も見つかっています。
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行事(パンフレット及び公式HPより抜粋)…『◆修正会…正月元旦10時。法華懴法と初夜行・後夜行で、国家安泰、五穀豊穣を祈念、続く牛王加持で宝印の加持祈祷を行います。一般の祈祷も受け付けます。◆大般若会…2月第1日曜日13時30分。大般若経六百軸を転読し、国家豊楽、息災延命、諸願成就等を祈念します。一般の祈祷も受け付けており、進学祈願者も多く見られます。◆濫觴会…5月4日20時。この日から一山の年度が始まります。年に一度宮殿の扉が開かれ、住職が中に入り諸仏の塵を払い祈念します。その間山門楽屋より楽が奏され、深夜の境内に荘重な音が響き渡ります。◆一切経会(慈恩寺舞楽奉奏)…5月5日13時30分。楽の音を合図に三か院より住職が出仕し、本堂にて弥勒法一座を修し、舞台上では声明を唱えます。引き続き、慈恩寺一山衆と林家が慈恩寺舞楽八番の舞を披露します。◆御影供…5月第3日曜日。真言宗開祖、弘法大師空海の入定日に勤修する法会。偉大な大師の遺行を偲び、終了後参詣者一同「入定和讚」を唱え、桂会による伝統料理を味わいます。◆柴燈護摩会…9月第2日曜日10時。一山衆徒による修験行法。護摩札の祈願文を読み上げながら火炎に投入します。法螺貝の音を合図に本堂前から山中の護摩炉に登り、柴に点火します。一般の祈祷も受け付けます。◆除夜の鐘…12月31日(大晦日)。』
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慈恩寺縁起…『抑々当山は神亀元年(724)僧行基が諸国巡錫の砌この地の景勝なるを見て都に帰り、聖武帝に奏上、天平18年(746)勅命によって婆羅門僧正が開基し、弥勒菩薩を本尊として、寒江山大慈恩律寺と号したと伝える。平安時代寒河江荘が摂関家藤原氏の荘園として成立したのは延久元年(1069)以前とされるから慈恩寺は藤原氏の庇護をうけ、荘寺的性格の寺院であったと判断される。天仁元年(1108)鳥羽帝の宣勅によって奥州藤原基衡が当寺を修営し、仁平年中(1151-1153)奈良興福寺の僧願西上人が再興諸堂造営を行なった。京文化を伝える平安後期の仏像が14体を数えるのは、当時の慈恩寺を物語るものである。その後文治元年(1185)後白河院の院宣右大將頼朝の下文を帯して高野山から真言僧弘俊阿闍梨が来山し山号を瑞宝山と改めた。鎌倉以降領主大江氏の庇護をうけ、室町の末大江氏が滅亡すると最上氏がこれに代り、元和8年(1622)最上氏改易後は幕府より2812石余の御朱印を付せられ、勅願寺として又鎮護国家の祈祷寺として崇敬された。明治維新後御朱印が停止され、一山は衰亡した。慈恩寺の宗教は先ず法相が入り、天台真言修験の外時宗があり、最上、華蔵、宝蔵の三か院四十八坊からなる一山寺院であった。終戦後一山は独立して慈恩宗となり本山慈恩寺として現在に至っている。慈恩寺には国指定の重要文化財を初め、県市の指定にかかる多くの文化財を有し、東北有数の巨刹としてまた霊場として人々に尊崇されている。昭和60年4月慈恩宗本山慈恩寺』
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釈迦堂(元禄8年建立)。当初の釈迦堂は天仁元年築造。一間四面方三丈三尺。本尊阿弥陀三尊を安置。延文元年/正平11年に焼失。
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釈迦堂と天台大師堂の間にある石段。遊歩道のようです。未確認ですが弘法大師堂跡、経堂跡、天神跡、行者堂跡、婆羅門堂跡、白山堂、新山堂跡、大黒堂跡などがあるようです。※跡のみ
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新奥の細道コース案内図。
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天台大師堂(延享3年建立)。本尊天台智者大師。
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不動堂。
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幟には「奉納南無大聖不動明王、東北三十六不動霊場第一番」とあります。御詠歌「出羽路なる大慈大悲の不動尊結ぶえにしは法のみ山に」
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矜羯羅童子(昭和62年6月23日・開創記念宝蔵院87世慶典)。
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制託迦童子(昭和62年6月23日・開創記念禅林坊54世暁範)。
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不動堂の後方の池と井戸。宝蔵院表門附近。
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五輪塔。
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薬師堂(元禄6年建立)。
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薬師三尊像(薬師如来・日光・月光菩薩(鎌倉時代))国指定重要文化財。
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眷属十二神将は護法神であり、躍動的な彫刻は全国的にも第一級で、日本を代表して海外展にも出陳されています。国重要文化財。
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阿弥陀堂(元禄6年建立)。
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特別拝観期間(令和記念特別拝観)です。
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ポスター。
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拝観券。
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本山慈恩寺特別拝観阿弥陀堂(常行堂)…『本山慈恩寺の阿弥陀堂は江戸時代の元禄6年(1693)常行堂として建立された。堂内には常行三昧修行の中尊である「宝冠の弥陀」が安置されている。眼はあくまでも厳しくしかも慈悲深く遠いさとりの世界を見つめるような眼差しは、修行僧ならずとも身心が浄められることでしょう。ぜひ皆様も「南無阿弥陀仏」を唱えながらご利益を祈り、堂内を一周お廻り下さい。』
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三重塔へ向かいます。
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境内の西端に建っています。
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御本尊は金剛界大日如来(木造大日如来坐像)。県指定文化財。
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慶長13年(1608)最上義光により築造されるも文政6年(1823)焼失。文政13年(1830)に再建。
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四隅の風鐸。
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阿部酉喜夫先生歌碑「古の匠の技をもるごとしやまふところに慈恩寺の塔」
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標柱「いにしえのたくみのわざをもるごとしやまふところに慈恩寺の塔」
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招魂碑。
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仁王経。その他庚申塔等もありました。
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「至誠一貫」陸軍大将鈴木荘六書。
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