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山形県寒河江市大字慈恩寺。慈恩寺山門前の石段を下った左手。門は2ヶ所あり、山門に通じる参道に面した門は裏門になります。院は改築されて現代風の建物になりましたが、屋内には江戸時代の名残りがあるそうです。但し現在は一般公開されていません。門をくぐると室町様式の池泉回遊式庭園があります。※下の写真は慈恩寺山門。
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慈恩寺は3ヵ院48坊からなる一山寺院を形成し、鎮護国家、除災招福を祈願する寺院でした。一山を代表する支配職は、真言方は宝蔵院華蔵院、天台方は最上院の3ヵ院で、所属の院坊をまとめ、幕府など大檀那への年礼を主としました。現在は3ヵ院17坊が一山を支えます。
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最上院は元々別当坊で、江戸時代初期に山形城主最上家が家督相続の混乱により改易された際、東京上野の寛永寺の天海僧正に末寺になることを請願し元和9年延暦寺南光坊末となり、寛永19年に寛永寺末となり池本坊を最上院と改めたそうです。別当坊として一山の宗務を取り仕切っていた最上院は大きな権力を持っており、御朱印の石高の配当も配下の坊も慈恩寺三か院の中で圧倒的に多い状況でした。当時の御朱印高は687石、宝暦4年「最上院高帳改・家来高帳之写」によりますと、衆徒22院坊、堂社役坊6、家老1、役人3、侍17、仲間32、寺百姓8。現在は休んでいる坊も含めて7坊、檀家は40ほど。不動明王立像・役行者像・聖観音坐像・永正12年大江系図などを保有。
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最上院が権力を持った背景は、寒河江荘の領主で寒河江城主でもあった大江家との繋がりを強めたことにあります。宝蔵院華蔵院の2つの院は妻を持たない清僧に対して、最上院は妻帯僧で、大江一族から配偶者や後継僧を迎えるなど政略的に関係を築いていったようです。また、修験や同宿といわれる多くの衆徒を支配するなど慈恩寺最大の力を持ち、宗派間の争いの発端にもなりました。江戸時代には美術や漢詩や俳諧に造詣の深い僧がおり、文人とも交流があり、院内には漢詩や絵画や句碑などが残されています。天台宗の最上院には契約講が現在も受け継がれています。天台大師を偲んで毎年11月の最終日曜日に檀家が本堂隣の天台智者大師堂で例祭を行っているそうです。
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